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松永久秀は悪党ではなかった?――「三大悪」の汚名を覆す、忠臣・実務家としての生涯
戦国時代において最も強烈な個性を放つ武将の一人が、松永久秀です。一般的には、主君殺し、将軍殺し、さらには大仏殿焼き打ちという「三大悪」を成し遂げ、最後は名茶器とともに爆死した希代の悪党として知られてきました。しかし、近年の歴史研究や当時の史料を見直すと、こうしたイメージとは異なる、きわめて優秀で主君に忠実な実像が浮かび上がってきます。何もないところから実力で這い上がり、乱世を泳ぎ切った久秀の生涯を追い、その真実に迫ります。
異例の出世を遂げた実務家
松永久秀の出身は摂津国東五百住村(大阪府高槻市)とされています。父親の名前すら不詳であり、低い身分だったと考えられますが、実力主義の戦国大名・三好長慶に仕えたことで頭角を現します。
当時、三好家は代々の有力家臣を多く失ったうえに、長慶の優秀な弟たちは各地の領地統治に派遣されており、本国で長慶を支える側近が不足していました。この状況下で、並外れた交渉力や実務能力を評価された久秀は異例の抜擢を受けます。33歳で史料に登場した際にはすでに重臣の地位にあり、三好家の主家にあたる細川晴元の側近と肩を並べるほどでした。
三好長慶が細川晴元に対し下剋上を起こすと、久秀は京都の公家や寺社といった伝統勢力との取り継ぎを担うようになりました。とくに、将軍・足利義輝とは晴元の処遇を巡って幾度となく対立をしており、義輝方の六角氏などとの外交交渉を任されていました。さらに、朝廷へ働きかけて、当時朝敵とされていた楠木正成の汚名を晴らすなど、室町幕府の権威を揺るがすような調整に携わっています。
このように、久秀は優れた実務家の一面を持ちながら、一方では高い文化的素養を持つ茶人としての姿もありました。当時天皇の診察も行っていた名医・曲直瀬道三とも交流を持っており、『黄素妙論』という本を送られています。このような文化人としての姿は、公家や寺社との付き合いの中で育まれたものなのかもしれません。
「主君殺し」と「将軍殺し」の虚像
久秀の悪名として代表的なものが、主君である三好長慶の毒殺説です。しかし、現代の研究ではこの説は完全に否定されています。
久秀は生涯を通じて長慶に背く動きを見せておらず、きわめて忠実な臣下でした。 たとえば、領地内における争論の裁決を任された際、久秀はどれほど権力を持っていても独断での決済を避け、かならず主君である長慶の承認を得ていました。長慶が病死した前後を見ても、久秀はその前年に家督を息子の久通に譲って隠居しており、わざわざその状況で主君を殺害するメリットはどこにもありません。久秀は生涯、長慶の忠臣であり続けたのです。
将軍殺しについても、久秀の直接的な関与は否定されつつあります。永禄8年(1565)に足利義輝が殺害された永禄の変において、久秀は主謀者とされてきましたが、実際には現場に立ち会ってすらいませんでした。
事件の直前、三好家の当主・三好重存と久秀の息子・松永久通は義輝から偏諱として「義」の字を賜るなど、手厚い待遇を受けていました。しかし、そのわずか1ヶ月後、重存と久通は1万の兵を率いて御所を包囲し、義輝を殺害します。このとき、久秀は大和国に滞在していました。 もし久秀が幕府の滅亡を望んでいたなら、将軍一族を皆殺しにしたはずです。しかし、久秀は同じ大和国にいた義輝の弟である覚慶、のちの将軍である足利義昭を見逃して命を救っています。将軍を殺害した息子たちと、幕府の権威を重んじた久秀との間には、政治的方針のズレがあったと考えられます。
戦乱が招いた「東大寺炎上」
三大悪の最後とされる東大寺大仏殿の焼き打ちも、久秀が意図して行ったものではありません。
将軍殺害後の混乱のなかで、久秀は三好政権から追放され、実権を握った三好三人衆と敵対することになります。 久秀は足利義昭の側に転じ、三人衆やその味方である大和の筒井順慶と激しい戦いを繰り広げました。この戦いのなかで、三人衆と順慶の軍勢が東大寺に陣を敷いた結果、戦闘の煽りを受けて大仏殿が炎上したのです。
炎上の原因は、三人衆が撤退する際の放火やひなわ銃の失火、キリシタン兵による放火など諸説あり、特定されていません。少なくとも久秀が意図して焼いたわけではないことは確かです。戦後、大仏殿再建のために東大寺が寄付を募った際には、久秀も協力しており、彼にとっても本意ではない不幸な事故であったことが窺えます。
信長への臣従と2度の謀反――なぜ信長を裏切ったのか?
織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀はいち早く信長に接近しました。信長が驚異的なスピードで上洛できた背景には、久秀が毛利元成と連携して三好三人衆を足止めしていたという貢献がありました。久秀は名物茶器の九十九髪茄子などを献上して信長に臣従します。
信長の家臣となった久秀は、金ヶ崎の退き口という撤退戦で信長の先導を務め、近江の朽木元綱を説得して信長の命を救いました。大和国に戻った後は多聞山城を中心に先進的な領国支配を展開し、これは後の豊臣秀長による大和統治のモデルとなりました。
しかし、将軍・義昭が久秀の宿敵である筒井順慶と姻戚関係になり、順慶を幕府の重役に就けたことで、義昭と久秀の関係に亀裂が生じます。また、幕臣の和田惟政が久秀を大和国から排除する動きに出たことで、久秀は義昭に対し謀反を起こします。この時点では久秀はあくまで義昭と対立しているのみで、信長とは敵対していませんでした。その後、交野城攻めに信長が援軍を送ったことで、久秀ははじめて信長とも対立することになります。
当時、武田信玄が信長に対して挙兵し、三好・朝倉・本願寺などとあわせて信長包囲網と呼ばれる布陣ができていました。義昭もこれに乗じて挙兵し、信長と敵対します。信長は万事休すかと思われましたが、その後すぐに包囲網を構成する面々が病死したり、離反が相次いだりと、包囲網が瓦解していきます。結果として、義昭は京都を追放されたほか、その他の面々も討死や自害に追い込まれました。
そんななか、久秀は多聞山城を無血開城して信長に降伏し、過去の功績や高い外交力から許されました。しかし、久秀の後釜として大和を支配していた塙直政が大坂本願寺との戦いで討死すると、信長は久秀の宿敵である順慶を後任に据えました。これに耐えかねた久秀は、上杉謙信らの動きに呼応して2度目の謀反を起こします。信長は「望みを何でも聞いてやる」ときわめて寛大な条件で降伏を促しましたが、久秀は拒絶。愛用する名茶器である古天明平蜘蛛とともに爆死するという、壮絶な最期を選びました。
おわりに――虚像の向こうに見えてくる姿
悪虐非道の限りを尽くしたと伝えられてきた松永久秀ですが、その生涯を丁寧に紐解くと、主君に忠義を尽くし、高い実務能力と外交交渉術で乱世を生き抜いた一人の武将の実像が見えてきます。宿敵への徹底した対抗心や、名茶器とともに散った最期は、単なる悪党という言葉では片付けられない強い意志を感じさせます。虚像を剥ぎ取った先に現れる松永久秀の人間らしさこそが、今なお多くの人々を惹きつける最大の魅力と言えるでしょう。





