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秀吉に家康征伐を断念させた天正地震――日本史に与えた大きな影響(後編)

天正13年(1585)11月29日に起こった天正地震は、畿内を中心とした幅広い地域に甚大な被害をもたらしました。前回の記事では、この地震が当時の人々にとってどのように捉えられてきたのかを、当時の記録を元にたどっていきました。
さて、天正地震は、日本史上でも重大な転換点であったと言えます。その最たるものが、羽柴秀吉と徳川家康の関係です。この地震により、秀吉は徳川家康征伐を中止、徳川家との和睦が成立したと言われています。
今回も「日本の歴史地震史料」拾遺物三(宇佐美達夫編)の史料をもとに、この和睦の内実に迫っていきます。
後世の編纂物・家譜にみる地震の影響
まずは、天正地震が史料にどのように記されているかをまとめていきます。
『当代記』(著者不明)
織田信雄居城、伊勢長島城が倒壊、焼失。
関東にはこの地震がなかったとある。
『山内一豊武功記』『御家中名誉』(土佐山内家)
長浜城が倒壊し、見性院(一豊の正妻、千代)の実子、よね姫が死亡した。
五藤為重が、よね姫は無事であると嘘をついて見性院を説得、救出した。
家屋の倒壊と火事により、数十人の死者が出た。
『一柳監物武功記』(大垣城主)
一柳直末の居住していた大垣城が倒壊し、出火により焼け落ちる。
織田信長から与えられた感状がこの時焼失した。
『北畛拾穂』(著者未詳)
越中国。山崩れにより木舟城が倒壊。前田利家の弟、前田秀継が死亡。
(富樫家家譜では、兄・利久も死去したとある)
なぜ秀吉は家康征伐を断念したのか?
それでは、なぜ秀吉は天正地震を機に家康征伐を諦めたのでしょうか。
大きな要因のひとつは、美濃国の大垣城が地震によって倒壊したことです。この大垣城は、家康討伐における重要な兵糧補給拠点になる予定でした。大垣城の倒壊は前記事にあるフロイスの「イエズス会日本書翰集」に記されているほか、大垣城主の一柳直末も記録に残しています。上記まとめにあるとおり、直末はこの地震で織田信長から授かった感状を失っており、その無念さが綴られています。
さらに、織田信雄の居城であった伊勢長島城や長浜城などもことごとく全壊し、遠征に必要な兵站拠点や軍備が壊滅的な損害を被りました。秀吉は上杉景勝や真田昌幸らに対しては、家康征伐を続けると言っており、威信を保つためか強気の姿勢を崩していませんでした。しかし、現実問題として遠征を強行することは不可能であり、地震の発生から約2ヶ月後、織田信雄の仲介を入れるかたちで正式に家康征伐を中止しました。
地震が変えた秀吉と家康の関係
天正地震に伴う出陣の中止は、秀吉と家康の間の関係を劇的に変化させました。地震が起こる前は、圧倒的な優位を背景に秀吉の側から家康に対して人質の提出を強く要求していました。しかし、地震で軍事的な打撃を受けた秀吉は力攻めをあきらめざるを得なくなり、逆に家康側の提示する外交条件を受け入れる立場へと追い込まれました。
立場の変化を象徴するできごとが、秀吉の妹・旭姫が家康に嫁ぎ、家康の正室となったことです。これにより家康は秀吉の義弟という高い格付けを政権内で勝ち取り、領国と面目を保ったまま秀吉政権へと合流することに成功したのです。
もし仮に天正地震が発生せず、予定通りに大規模な家康討伐軍が進行していたならば、家康は大幅な減封処分を受けるか滅亡へと追い込まれていた可能性が高いと考えられます。そうなっていれば、後年の関ヶ原の戦いや江戸幕府の誕生という歴史の流れはまったく異なるものになっていたはずであり、天正地震が日本の歴史にもたらした影響は大きなものであったと言えます。
歴史の節目に発生したその他の大災害
日本史の歩みを振り返ると、天正地震にとどまらず、巨大な自然災害が社会や政治の動向に大きな影響を与えた事例が数多く存在します。
織田信長が武田勝頼を滅亡へと追い込んだ武田征伐の直前である天正10年には、浅間山が48年ぶりとなる大噴火を起こしました。京都の空まで赤く染めたこの噴火に対し、人々は武田家の滅亡を天が告げていると捉え、武田家中の士気と求心力は一気に瓦解することとなりました。また、秀吉の晩年には慶長伏見地震が発生し、秀吉が地震対策を施して建設した伏見城が全壊しています。この地震が当時の人々に対しどのように受け止められていたかは定かではありませんが、当時朝鮮出兵を強行していた秀吉に対し、人心が離れていくきっかけになっていたかもしれません。
江戸時代の天明3年(1783)には浅間山で天明の大噴火が発生し、これが天明の大飢饉を加速させました。人々はこれを天譴(為政者の悪政に対する天からの罰)と捉えて不満を爆発させ、老中田沼意次による政治体制を終焉へと追い込みました。さらに幕末の安政2年(1855)に起きた安政の大地震では江戸の町が直撃を受け、水戸藩の指導者であった藤田東湖らが命を落としました。優秀な頭脳を失った水戸藩はその後の混乱を回避できず、歴史の表舞台から後退していくことになりました。
まとめ――災害の記憶を読み解くということ
このように、日本史における大災害は、人間社会に物理的な破壊をもたらすだけでなく、人々の心理や政治家たちの決断を通じて時代の潮流を大きく変えてきました。凄惨な天正地震を直接体験した羽柴秀吉も、後に伏見城を再建する際にはなまず大事と呼ぶ指令を出し、地震の揺れに耐えうる構造や備えを固めるよう命じています。
古来より幾度もの自然災害とともに歩んできた日本列島の歴史を、当時の人々が残した古文書を通じて読み解くことは、たんに過去の出来事を知ることにとどまりません。それは、平和な日常のなかで風化しがちな防災への意識を呼び覚まし、いつ訪れるかわからない自然の脅威に対してどのように向き合い生き抜くべきかという教訓を現代の私たちに提示し続けているのです。
■参考文献■
日本の歴史地震史料 拾遺 3
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2014396





