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明智光秀は本能寺にいなかった!?古文書『乙夜之書物』がうちあける衝撃の真相
ドラマや映画、漫画などで描かれる「本能寺の変」といえば、燃え盛る本能寺の中で明智光秀と織田信長が対峙するシーンがお馴染みです。しかし、近年の研究では「光秀は本能寺の現場にはいなかったのではないか」という説が注目を集めています。
その根拠となっているのが、加賀藩の兵学者が記した古文書『乙夜之書物(いつやのかきもの/おつやのしょもつ)』です。本記事では、この資料の内容に基づき、「光秀不在説」の真相に迫ります。
謎の古文書『乙夜之書物』とは?
『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者である関屋政春によって、寛文9年(1669)から11年かけて書き上げられた資料です。
関屋政春自身は、本能寺の変から33年後の慶長20年(1615)生まれであり、事件をリアルタイムで経験した世代ではありません。『乙夜之書物』を書き始めたのは54歳のときであり、一見その信憑性は低いように思われます。にもかかわらず、このように取り沙汰されているのは、なぜなのでしょうか。
その大きな理由は、この書物に「他人に決して見せるな」という遺言が添えられており、子孫によって明治時代まで秘匿されてきたことにあります。「誰かに読ませて面白がらせよう」という意図がなく、身内だけに真実を伝えようとした点において、虚偽を記す動機が低く、一定の信憑性があると考えられているのです。
本能寺の変に関する記述は、関屋政春が同じ加賀藩の藩士である井上茂成から聞いた話に基づいています。しかし、井上茂成自身も慶長2年の生まれであり、本能寺の変をリアルタイムで経験した人物ではありません。井上茂成にこの話を伝えたのが、彼の大叔父にあたる斎藤利宗でした。
斎藤利宗は、光秀の重臣・斎藤利三の息子であり、本能寺の変の際には16歳でした。彼は実際に本能寺の変に参戦していた、まさに当事者だったのです。彼が晩年に語った思い出話が、巡り巡って関屋政春の手によって記録されたのでした。
『乙夜之書物』の記録〜光秀は鳥羽に控えていた?〜
『乙夜之書物』に記された本能寺の変の詳しい動向は、次のとおりです。
本能寺の変が起こる少し前、斎藤利三は篠山城(兵庫県丹波篠山市)から亀山城(三重県亀山市)へ向かっていました。亀山城には光秀が控えており、備中高松城を攻める秀吉の援軍として準備をしていました。利三が亀山城に到着したところで、光秀は重臣を集め、ついに謀反の意思を打ち明けます。そして、一行は「起請文」に血判を押し、一致団結して信長を討つことを誓いました。
6月1日の日暮れ前、一行は亀山城を出発し、途中の桂川で末端の兵士たちに「行き先は本能寺である」と告げました。そして、利三と明智弥平次が2000あまりにのぼる騎馬隊を率い、先陣として本能寺へ攻め入りました。このとき、光秀は鳥羽に控えていたと記されています。つまり、光秀は前線で戦うのではなく、後方の「鳥羽」あるいはその周辺で、全軍の指揮を執っていたということになります。
説の信憑性をどう見るか
もちろん、『乙夜之書物』の記述すべてが正しいわけではありません。四国攻めのメンバー構成に誤りがあったり、当時存在しなかった「篠山城」の名が登場したりと、度重なる伝聞の過程で生じたと思われるミスも見受けられます。
一方で、『乙夜之書物』の記述を補強する史料も存在します。当時の公家の日記である『兼見卿記』や『晴豊卿記』には、本能寺の変から1週間後の6月9日時点で「光秀の本陣が鳥羽にあった」と記されており、「鳥羽」という地名自体は光秀の動静と関連があります。
なにより、斎藤利宗にとって本能寺の変は人生を左右する大事件でした。「その場に総大将(光秀)がいたか、いなかったか」という根本的な記憶を間違える可能性は低いのではないかと推測されます。
まとめ:歴史は覆るのか?
「光秀が本能寺にいなかった」としても、光秀が謀反の首謀者であるという事実は変わりません。当時の状況を考えれば、四国攻めのために集結していた他軍勢の反撃に備え、光秀が後方で指揮を執ることは軍事的に合理的な判断ともいえます。
「光秀不在説」が広く認められることで、これまでのドラマチックな「対峙シーン」は見られなくなるかもしれません。しかし、各種史料を精査し、当時のリアルな軍事行動を想像することも、歴史の醍醐味のひとつといえるのではないでしょうか。





