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織田信長の美濃攻略を決定づけた「美濃三人衆」――氏家卜全・安藤守就・稲葉一鉄の波乱の生涯
戦国時代、織田信長が美濃国を攻略するうえで、大きな役割を果たしたのが「美濃三人衆」と呼ばれる3人の武将です。氏家卜全(直元)、安藤守就、稲葉一鉄(良通)は、もともと美濃の斎藤氏に仕えた重臣でしたが、永禄10年(1567)に信長へと寝返りました。
彼らの離反は、信長による美濃攻略を大きく前進させることになります。さらに注目すべき点は、3人が織田家に加わった後も高い地位を維持し続けたことです。
しかし、その生涯は決して平穏ではありません。戦場で命を落とした者、追放後に再び挙兵した者、そして子孫が大名として家名を残した者。本記事では、それぞれ異なる運命をたどった美濃三人衆の生涯を紹介します。
氏家卜全――美濃屈指の大身が迎えた早すぎる最期
氏家卜全こと氏家直元は、美濃三人衆のなかでも筆頭格とされる有力武将です。後世の知名度では稲葉一鉄や安藤守就に及ばない印象がありますが、当時の彼は非常に大きな勢力を持っていました。イエズス会の宣教師による記録『日本年報』には、卜全が美濃国の3分の1を所有するほどの大身であったと記されています。この記述からも、彼が単なる一介の家臣ではなく、美濃国内で大きな影響力を持つ領主だったことがうかがえます。
もともと卜全は桑原三河守と名乗っていましたが、主君の斎藤義龍が一色氏を称したことに伴い、氏家姓へと改めたとされています。永禄10年に織田家へ寝返った際、安藤守就や稲葉一鉄が旧姓に戻したのに対し、卜全は氏家姓を使い続けました。
織田家臣となってからは、伊勢大河内城攻めや姉川の戦いなど、信長の主要な戦いに従軍します。しかし、元亀2年(1571)の長島一向一揆攻めで、運命が暗転することになります。一揆勢の反撃を受けた織田軍が撤退するなか、卜全は柴田勝家とともに殿軍を務めます。勝家が負傷しながらも生還した一方、卜全は討死しました。
三人衆のなかでもっとも早く命を落とした卜全。その死後は長男の氏家直道が家督を継ぎ、引き続き織田家に仕えました。直道もまた朝倉氏との戦いで活躍しましたが、間もなく病死したと伝えられています。
安藤守就――信長を早くから見抜いた老将の執念
安藤守就は、竹中半兵衛の義父としても知られる武将です。彼の一番の特徴は、若き日の織田信長の力量を早くから認めていたことと言えるでしょう。『信長公記』によれば、信長が村木砦の戦いで見せた奮闘を知った斎藤道三は、その勇猛さに感嘆したといいます。守就はこの戦いを目撃し、信長の戦いぶりを道三に報告した人物として語られています。
永禄7年、守就の婿である竹中半兵衛がわずか16人の手勢で、斎藤龍興の居城である稲葉山城に侵入しました。守就もこれに協力し、約2000人の兵を率いて城の占拠に加担したとされます。この事件を経て、守就は斎藤家への見切りをつけ、家督を息子の安藤定治に譲りました。
そして、永禄10年に、守就は稲葉一鉄らとともに織田家へ寝返ります。この際には、信長の力量を以前から知っていた守就が中心的な役割を果たしたと考えられています。織田家臣となった後も、姉川の戦いや比叡山焼き討ち、長島一向一揆攻めなどに参加。織田家中で高い地位を占め、信長の息子・信忠への家督譲渡後も、信長直属の家臣としての立場を保ちました。
ところが天正8年(1580)、守就は佐久間信盛や林秀貞らとともに突如として織田家から追放されます。『信長公記』では過去に逆心を抱いたことが理由とされる一方、武田信玄への内通を疑われたとする記録もあります。
そして天正10年、本能寺の変が起こると、守就は80歳という高齢で挙兵しました。かつての居城であり、当時は稲葉一鉄が支配していた北方城を奪還します。しかし、一鉄の軍勢に攻められて敗死。息子とともに命を落とすという結末を迎えました。
稲葉一鉄――「頑固一鉄」と称された文武両道の名将
美濃三人衆のなかで、最も広く知られているのが稲葉一鉄こと稲葉良通です。「頑固一鉄」という言葉の由来になったともいわれる人物であり、信長のもとで数々の功績を挙げました。
一鉄は、もともと僧侶になる予定でした。しかし、大永5年(1525)、浅井亮政との戦いで父と5人の兄が戦死したため、還俗して稲葉家の家督を継ぐことになります。また、一鉄の姉妹(どちらかは定かではありません)は斎藤道三に嫁ぎ、斎藤義龍の母になったとされています。そのため、一鉄は義龍の外戚にあたる立場でした。しかし、義龍やその子・龍興の時代には十分に重用されなかったとみられ、この不遇な関係が織田家への寝返りにつながった可能性があります。
信長に仕えてからの一鉄は、三人衆のなかでもとくに厚い信頼を得ました。たとえば、近江の守山や摂津の楼ノ岸砦といった要衝を、単独で守備する役目を任されています。これは、彼が軍事面だけでなく、領地や拠点の管理においても信頼されていたことを示しています。
一鉄には、武勇と教養を兼ね備えた人物としての逸話も数多く残されています。長篠の戦いでは、信長から「今弁慶」と称賛されたと伝えられています。また、信長から名香として知られる蘭奢待の一部を拝領したともいわれます。さらに、一鉄の正室は、公家で文化人としても知られた三条西公条の娘でした。こうした婚姻関係からも、一鉄が武将としてだけでなく、朝廷や公家社会ともつながりを持っていたことがうかがえます。
本能寺の変の直前には、元家臣の斎藤利三らを明智光秀が召し抱えたことをめぐり、一鉄と光秀が対立したという逸話も伝わっています。あくまで逸話であるという点には注意が必要ですが、この件について信長が光秀を叱責したとする話もあります。
一鉄は天正16年に没しますが、その後も稲葉家は歴史の表舞台に残り続けました。嫡男の稲葉貞通は、関ヶ原の戦いで西軍から東軍へ寝返り、戦後は豊後国臼杵藩5万石の藩主となりました。稲葉家はその後も大名家として存続し、幕末まで家名を伝えています。
美濃三人衆が織田家に残したもの
美濃三人衆は、斎藤氏から織田信長へと主君を変えたことで、戦国時代の勢力図に大きな影響を与えました。彼らの離反は、信長による美濃攻略を支えただけでなく、その後の織田政権においても重要な意味を持っていました。
氏家卜全は戦場で討ち死にし、安藤守就は追放後に再起を図りながらも敗死しました。一方、稲葉一鉄は信長のもとで活躍し、その家系は近世大名として存続しました。3人に共通しているのは、斎藤家時代から培ってきた勢力と経験を背景に、織田家中でも高い地位を築いたことです。彼らはたんに信長に従った地方武将ではなく、独自の政治的・軍事的基盤を持つ有力者だったのです。
柴田勝家や丹羽長秀、豊臣秀吉といった織田家の著名な家臣たちに比べると、美濃三人衆の知名度は決して高くありません。しかし、彼らの生涯をたどると、信長の勢力拡大を支えた地方武将の存在と、戦国時代の主従関係の複雑さが見えてきます。美濃三人衆は、信長の天下一統への歩みを支えた重要な存在であり、それぞれが異なるかたちで戦国の歴史に名を刻んだ武将たちだったのです。





