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花山天皇はなぜ出家した?面白エピソード満載の花山天皇をわかりやすくご紹介!
大河ドラマ「光る君へ」でも重要人物として描かれる花山天皇。
彼は、歴代の天皇の中でも、特に多くの面白エピソードが残っていることでも知られています。
そのエピソードの中には、「本当にそんな事あったの?」といった素っ頓狂なものも多く、信憑性に欠けるものも少なからず存在するのも事実です。
なぜ花山天皇にだけこのような破天荒なエピソードが語られるようになってしまったのでしょうか。
そして花山天皇といえば、中央の政権争いに敗北し、突如として出家・退位したことでも有名です。
在位わずか2年の若き天皇は、一体なぜ出家を選んだのでしょうか。
今回の記事では、そんな花山天皇のおもしろエピソードの数々を出典史料とともに紹介し、それらの話の信ぴょう性を検証し、なぜそのような話が出来てしまったのかを考察していこうと思います。
また、大河ドラマ「光る君へ」序盤の大きな山場になるであろう花山天皇の出家についても、なぜこのような決断に至ったのかをエピソードや史料を交えてわかりやすく解説します。
忯子との別れ・出家
花山天皇の逸話として最も有名なのは、「愛する女御・藤原忯子(しし)との死別と、それにショックを受けての出家」ではないでしょうか。
若い花山天皇が在位わずか2年で出家・退位したという出来事は、当時の人々の間でもセンセーショナルな出来事として語られ、中には大きく脚色をされて今に伝わっていると思われる記述も残っています。
ここでは、花山天皇が忯子を激しく愛しすぎたエピソードから、その後の忯子との死別、そして出家の真相について、史料を紐解きながらわかりやすく解説します。
懐妊中の忯子を参内させ…
花山天皇の忯子に対する愛の激しさは、平安時代後期に成立した歴史物語『栄花物語』に記述されています。
『栄花物語』によると、忯子の懐妊がわかった後も、花山天皇は彼女を自分のいる内裏に来るようにと迫っているのです。
平安時代の貴族を支配していた価値観に「穢(けが)れ」というものがありますが、妊娠中の女性も、穢れに準じるものとして忌むべきものとされていました。
それにも関わらず、花山天皇は神聖な内裏に妊娠中の忯子を呼びつけ、事もあろうに食事も忘れ、四六時中”寵愛”していたとされています。
ただし、天皇が妊娠中の女性を内裏に呼んだという話自体は、花山天皇と近い時代の一条天皇にもあるため、当時からさほど珍しいことでもなかったのかもしれません。
忯子を失い一晩中号泣
身重での無理が祟ったためか、忯子は妊娠中に命を落としてしまいました。
この時の花山天皇の悲しみは計り知れず、『栄花物語』によると「一晩中大声で号泣していた」といいます。
愛する女御のみならず、跡継ぎとなるかもしれない我が子を同時に失った花山天皇の悲しみはいかほどのものだったでしょうか。
花山天皇の出家の真相とは?
一般的に花山天皇は、愛する忯子を失ったショックからすぐに出家を決意したと思われていますが、真相は少し違うようです。
忯子の死から花山天皇の出家まで、実際には半年ほどのラグがあるだけでなく、その間に新たな女性も入内させていました。
そのため、『栄花物語』に記述されているような、「愛する忯子を失ったショックからそのまま衝動的に出家を決意した」というストーリーには脚色があるのではないかという声もあります。
花山天皇の出家について記述した別の歴史書『大鏡』によると、忯子との死別は花山天皇の出家の動機の一つにすぎず、決め手となった出来事は別にあったようです。
それは、右大臣・藤原兼家の息子であり、蔵人として天皇の近くに仕えていた藤原道兼にそそのかされたのが、花山天皇の出家の直接の動機だというのです。
元々権力基盤が弱く、政治的に孤立しやすい立場にいた花山天皇は、兼家ら敵対勢力に譲位をするよう度々プレッシャーをかけられていました。
そんな逆境の中、さらに女御を失って傷心の花山天皇に対し、道兼は巧みに出家を促し、結果的に花山天皇は騙されて出家させられるという形になったのです。
このように、花山天皇の出家の理由が忯子との死別による衝動的なものだとする『栄花物語』の記述にはいささか脚色があると考えるのが自然でしょう。
無類の女好き
そして花山天皇といえば、何と言っても無類の女好きで知られています。
単に多くの女性と関係を持っていたというのであれば、当時の権力者としてはいたって普通のことなのですが、花山天皇には常軌を逸した女好きエピソードが多数残っています。
これらの逸話は本当にあった話なのでしょうか。
次の章では、大河ドラマでも描かれるかもしれない花山天皇の女好きエピソードの数々を紹介しつつ、これらの信ぴょう性をわかりやすく検証していきます。
即位式の最中に…
花山天皇の数ある女性とのエピソードの中でも特に有名なのが、最初にご紹介するこのお話でしょう。
花山天皇は自身の即位式の最中、自らが入っている「高御座(たかみくら)」の中に女官を連れ込み、なんとそこで「エッチなことをしてしまった」というのです。
ただし、この逸話は同時代の一次史料や近い時代の『栄花物語』『大鏡』には記されておらず、後世に書かれた『江談抄』や『古事談』といった説話集に出てくる話なのです。
そのため、このエピソードは後世の人間が面白おかしく創作した話ではないかと思われます。
では、一体なぜこのような話が作られたのでしょうか。
この即位式に参列した藤原実資の日記『小右記』によると、儀式中に着用する冠が重くて花山天皇がそれを脱ごうとして周囲に止められた話や、何らかの理由により即位式自体が遅延したという様子が書かれています。
小右記のこれらの記述をもとに、後世の人間が「あの女好きな花山天皇ならやりかねない」と、上記のようなとんでもないエピソードを創作したのかもしれません。
出家後も頻繁に…
先程ご紹介したお話は作り話の可能性が高いということでしたが、ここからは比較的信憑性のある花山天皇の女好きエピソードです。
『栄花物語』によると、花山天皇は出家したあとも頻繁に女性のもとへ通っていたというのです。
「九の御方」という女性を愛人にした上で、「中務(なかのつかさ)」と呼ばれる女性、さらにはその娘「平子」までも愛人にし、なんと母子それぞれに自らの子を産ませたとされています。
中務と平子が産んだ子供は実際に親王宣下を受けており、実在の人物であるため、この相当に「気持ち悪い」女好きエピソードは信憑性が高いと思われます。
花山天皇の女遊びで藤原伊周が失脚?
出家後の花山天皇ですが、死別した忯子の妹である「四の君」のもとに足繁く通っていたという話も有名です。
ある日、花山天皇が四の君のもとに通っていたところを、藤原道長の甥・藤原伊周が、自らの恋人である四の君の姉「三の君」と通じていると勘違いしてしまいます。
こうして痴情のもつれから乱闘騒ぎにまで発展し、花山天皇が袖に矢を射られる事態に。
このようにして『栄花物語』では、伊周が失脚した「長徳の変」の元になった乱闘騒ぎも、花山天皇の女遊びが原因で起きたというように書かれています。
ただし、乱闘騒ぎや長徳の変自体は実際に起きた出来事ですが、その原因までは一次史料に記述がなく、花山天皇と伊周の女性トラブルによって伊周が失脚したという話は『栄花物語』による創作ではないかとする声もあります。
大河ドラマ「光る君へ」ではこの事件がどのように描かれるのか楽しみですね。
破天荒な性格
ここまでは花山天皇の女性関係のエピソードを中心にご紹介してきましたが、花山天皇には他にも数多くの破天荒エピソードがあります。
花山天皇の性格を端的に表す言葉として、『大鏡』では「内劣り外めでた」という表現がとられています。
「内劣り」とは、女性関係などのプライベートに関してはだらしないという意味で、「外めでた」とは、公の儀式や政務に関する能力は高かったという意味です。
この章では、「内劣り」な花山天皇の破天荒エピソードと、「外めでた」と呼ばれた、天皇として優秀な面もわかりやすく解説します。
賀茂祭 有言実行
「内劣り外めでた」の例として、『大鏡』では以下のようなエピソードが語られています。
「賀茂の臨時の祭り」と呼ばれる、京の賀茂神社で通常4月に行われる例祭とは別に、11月に開催される祭りがありました。
祭の進行に際し、冬に開催される祭を4月開催時と同じタイムテーブルで執り行っていては、終わる頃には日が暮れてしまいます。
これを憂慮した花山天皇は、11月の臨時の祭りに際しては開催時間を早め、その分早めに終わらせることを提案します。
これに対し、周囲の公卿たちは「どうせ口だけだろう」と本気にせず、例年通りの時間に出勤したところ、言い出しっぺの花山天皇は誰よりも早く来てスタンバイをしていたのです。
有言実行を果たす花山天皇を、公卿たちは一同に高く評しました。
その一方で、このような大事な祭の最中に、花山天皇は内裏の坪庭に馬を引き入れて乗り回そうとしたこともあったようです。
『大鏡』では、せっかく柔軟に政務をこなし有言実行する「外めでた」な面があるのに、儀式の最中に馬を乗り回す破天荒な「内劣り」な側面が残念だと記述されています。
藤原隆家と戦ごっこ
平安時代の天皇らしからぬ話として、「バトルもの」のエピソードもあります。
藤原道長の甥でありながらも武勇の誉れが高く、のちに九州で起きた異民族による侵略事件「刀伊の入寇」を鎮圧した藤原隆家に対し、ある日花山天皇は挑発をしかけます。
花山天皇は、隆家に対し、自らの住まう花山院の門を突破できるものなら突破してみろとけしかけました。
挑発に乗った隆家は、後日花山院を襲撃する「戦ごっこ」のようなものを行ったのです。
花山天皇も70〜80人の屈強な家来たちを門に配備し、隆家でさえもついに花山院の門を破ることはできなかったのでした。
遊びとはいえ、武辺者の隆家を撃退することに成功した花山天皇は大層喜び、見物人も大満足だったと『大鏡』には記述されています。
退位後で、なおかつ遊びの範疇とはいえ、法皇の立場でバトルを仕掛けるというのは他に例を見ないので、花山天皇の破天荒さをあらわす面白いエピソードですね。
「大汶法皇」
次は『今昔物語集』からです。
ある日、理由は不明ですが、とある鍛冶師が花山天皇を怒らせてしまいました。
花山天皇の怒りは凄まじく、真冬にも関わらず、水を張った壺の中に鍛冶師を沈める罰を与えます。
鍛冶師は冷水の中で、花山天皇に対し「こいつは大汶法皇だ!みんなこいつには近づくな!」と叫びました。
「大汶」とは「大馬鹿者」という意味であり、もちろん法皇に対して発して許される言葉ではありませんが、当の花山天皇は「お前は口が達者だな」と言い、鍛冶師を笑って許したといいます。
東国の馬乗りを許す
ある時、東国から来た馬を乗り回している人がおり、花山法皇の住まいの門前を素通りしてしまいました。
当時、高貴な人の家の前を通る時には馬を降りるのがマナーであり、法皇の門前を馬に乗ったまま通り過ぎるというのは非常に無礼なことでした。
花山法皇は激怒しますが、馬に乗った男は場上から馬を匠に操り、大暴れさせて逃走。
男のこの馬の扱いを見た花山法皇は「見事である」と言い、男の罪を見逃します。
このように、自分を楽しませる人間に対しては寛大であった花山法皇のスタンスが『今昔物語集』では紹介されています。
惟成の冠を取る
『古事談』には、花山天皇の乳母子であり側近であった藤原惟成(これしげ)の冠を奪い取り、惟成は冠無しで参内させられる屈辱を与えられたという話が紹介されています。
この時代の男性貴族は常に冠を頭に被っており、人前で冠を取った頭を見せるということは何よりも恥ずかしいことだとされていました。
いたずらともパワハラともとれる破天荒すぎる行為ですが、これも花山天皇の人間味を感じさせるエピソードの一つと言えるのかもしれません。
風流者なエピソード
ここまでご紹介してきたような破天荒な逸話は、当時の人にとっても「人間味がある」と肯定的に受け入れられていたのか、はたまた「天皇としてふさわしくない行いだ」と否定的に受け止められていたのかは分かりません。
しかし、花山天皇には「風流者」としての側面もあり、こちらに関しては風流を何よりも尊んだ平安の人々からも高く評価されているのです。
花山天皇は文化的才能が豊かなだけでなく、所持品が大変きらびやかで、着ている衣装もセンスがいいと評判だったとも言われています。
この章では、一転して花山天皇の「風流者(ふりゅうざ)」なエピソードをわかりやすく解説します。
寝殿造りのデザイナーだった?
平安時代の貴族の屋敷の構造といえば「寝殿造り」が有名ですね。
メインの「寝殿」とサブの「対屋」が「渡殿」と呼ばれる廊下で繋がっているというデザインが一般的に広く知られていますが、『大鏡』によると、この寝殿造りのスタイルを考案したのが他でもない花山天皇だというのです。
花山天皇は建築デザインの才能にも恵まれていたのです。
車庫の改良
平安貴族の乗り物といえば「牛車」ですが、花山天皇はこの牛車を収納する車庫のデザインにも手を加えました。
中の牛車がすぐに取り出せるように、車庫内の板敷きに高低差をつけ、車庫の扉を開けると牛車がこちらに転がってくるように改良を施したと言われています。
このように、花山天皇は実用的なデザインの考案にも長けていたようです。
庭のデザイン・絵・御車の飾り付け
『大鏡』には、花山天皇の風流者ぶりを伝えるエピソードが2つ紹介されています。
ある日、庭に植わっている桜の木を見た花山天皇は、幹のゴツゴツした風合いが似つかわしくないことを気にし始めます。
そこで花山天皇は、桜の木を塀の外に植えることで、幹を隠して桜の花のついた梢だけが庭に入るようにするアイデアを考案しました。
この庭のデザインはとても好評を博したそうです。
また、花山天皇は絵も上手で、親しみのある絵からスピード感あふれる車の絵まで、様々な絵を描いていたとされています。
『栄花物語』にも、花山天皇の風流者っぷりを伺わせるエピソードが記述されています。
花山天皇が乗っている御車も美しく、漆が輝いていて金ピカだったといいます。
更には、みかんを繋げて数珠状にしたものを車に飾り付けていたこともあったそうです。
自然の中にある色味を取り入れることも風流の条件の一つと言われますが、花山天皇の「みかん数珠」のアイデアも人々の目を引き、風流であると評価されました。
和歌の才能
平安時代の内裏で必須のツールといえば、やはり和歌が挙げられるでしょう。
花山天皇は和歌の才能にも非常に長けていたことが分かっています。
「勅撰和歌集」と呼ばれる、時の天皇・上皇などが古今東西の優れた和歌をピックアップして作成する「プレイリスト」のようなものの中に、花山天皇の歌が合計68首も選ばれているのです。
ちなみに、和歌の名手とも言われる藤原道長でさえも勅撰和歌集への入撰は35首なので、花山天皇がいかに和歌の達人であったのかがうかがい知れます。
余談ですが、同時代を生きた天才歌人・藤原公任は勅撰和歌集に91首が選ばれています。
ではここで、花山天皇の歌を一首ピックアップしてみましょう。
「あしひきの 山に入り日の 時しもぞ あまたの花は 照りまさりける」
人里を離れて山に入った時にこそ、それまで見てきた花の美しさがわかる。
「大切なものは失って初めて気づく」という、華やかな内裏を離れて出家した花山天皇らしい歌ではないでしょうか。
花山天皇はなぜ出家した?面白エピソード満載の花山天皇をわかりやすくご紹介!│まとめ
以上、花山天皇の数々の面白エピソードの検証と、出家事件の「なぜ」についてわかりやすく解説しました。
結果から見ると、花山天皇は正統であったにも関わらず、中継ぎの円融天皇系に敗北し子孫に皇位を継承することができなかった、いわば「敗北者」です。
「因果応報」的な思想が強かった平安時代において、「正統でありながら政争に敗れた花山天皇は、きっと悪い行いをしていたに違いない」と逆算的にエピソードが創作されていった可能性もあるのではないでしょうか。
ただし、花山天皇の様々なエピソードからは革新的で破天荒な一面が伺えるのも事実です。
後世になってから盛られた側面はあるにせよ、彼が並の天皇とは一線を画した人物であったことは間違いないのかもしれません。