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豊臣秀吉の朝鮮出兵はいつ・なぜ行われた?理由について徹底解説!
豊臣秀吉(とよとみひでよし)は下の身分から天下人に上り詰めた出世人として有名ですが、晩年の「朝鮮出兵」は失敗しており、耄碌(もうろく)して行ったなどのマイナスイメージが強いかもしれません。
一方、朝鮮出兵に至った理由については、外国との戦いを見据えた戦略などの説があることも事実です。
今回は豊臣秀吉がなぜ朝鮮出兵を行ったのかに着目し、その背景やいつ行われたのかなどを解説していきます。
東アジアやヨーロッパにも関係するスケールの大きい内容なので、日本史に限らず世界史に興味がある人もぜひ読んでみてください。
朝鮮出兵の理由となった唐入り構想
朝鮮出兵はその名前から朝鮮半島への侵略が目的のように思えますが、本来の目的は朝鮮ではありません。
まずは朝鮮出兵のきっかけとなった豊臣秀吉の「唐入り構想」を解説していきます。
これには織田信長(おだのぶなが)も関係しており、朝鮮出兵が壮大な構想の下で行われたことがわかるでしょう。
織田信長も考えた唐入り
秀吉の朝鮮出兵の目的は朝鮮半島ではなく、その先にある「明」を侵略することでした。
これは通称「唐入り構想」と呼ばれており、当初は織田信長が考えて秀吉が引き継いだという説があります。
日本に来た宣教師のルイス・フロイスが書いた「日本史」にも唐入り構想の記述があり、「信長は(中略)シナ(=明)を武力で征服して諸国を自らの子息に与える考えがあった」との記録が残っていました。
「日本史」とは?
キリスト教の宣教師でイエズス会に属するルイス・フロイスが書いた記録。
執筆は天正11年(1583年)からの10年以上にわたり、当時の日本人の生活や文化、政治・経済などが書かれています。
豊臣秀吉が引き継いだ構想
信長の死後に天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、早い段階から明国を征服する構想を持っていたそうです。
天正13年(1585年)に秀吉が家臣に宛てた書状には、将来的に明国を服属させようと考えていると書かれていました。
これはちょうど秀吉の関白就任直後であり、徳川家康(とくがわいえやす)と小牧長久手の戦いで争っていた時期です。
秀吉はこの後も四国征伐や九州征伐、小田原征伐などを行っており、高齢になって耄碌してから秀吉が考えた構想ではなく、天下人へと突き進む中で生まれた構想と考えられるでしょう。
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた軌跡について詳しく知りたい方は、こちらもご覧ください。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
秀吉はなぜ明国征服にこだわった?
なぜ秀吉は明の征服にこだわったのでしょうか。
唐入り構想の背景には中国独自の華夷思想や天命思想などが影響しており、ここからは中国の思想や日本との関係、唐入りにつながる背景などを説明していきます。
中国の「華夷思想」と「天命思想」
今でも中華人民共和国の国名に使われているキーワード「中華」。
「中」は世界の中心、「華」は華やかな文化を意味しており、中華は世界の中心で優れた文化を持っているという意味が込められています。
この中華をアイデンティティとして中国は周囲の異民族=夷狄と戦ってきた歴史があり、自分たち中華とその周りの夷狄を分ける考え方が華夷思想です。
また、華夷思想を補強する形で存在するもう1つの思想が「天命思想」です。
中国のトップになる「天子」は人知を超えた天命という存在に選ばれるという考え方で、選ばれるのは最も「徳」のある者であり、逆に徳を失った人間は革命によって国が滅ぼされると言われています。
豊臣秀吉は明との関係を転換
この華夷思想や天命思想から行われていたのが「朝貢」でした。
天子の徳は周囲の夷狄にも浸透し、その徳に心酔した夷狄から天子に貢物を差し出すという考え方です。
朝貢の量が天子の徳にも関係しているため、天子にとって朝貢は重要な要素と言えるでしょう。
明の3代皇帝・永楽帝は本来帝位を継ぐ立場にありませんでしたが、建文帝の政策に抵抗して帝位を簒奪(さんだつ)したため、特に朝貢を重視して皇帝としての正統性を主張したと言われています。
一方、永楽帝の時代の日本は、室町幕府・3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が日明貿易を行っていました。
これは義満が明に対して日本の地位が下だと認めたことを意味しますが、義満はプライドよりも明との朝貢で得られる利益を優先したのでしょう。
時代が過ぎて「応仁の乱」の時代にこの関係はなくなり、豊臣秀吉の時代には解消されました。
秀吉は天下人として明との関係を考える中、朝貢の利益よりも国内や東アジアに天下人として力を誇示することを重視し、明への侵略を考えたのかもしれません。
イエズス会と豊臣秀吉の関係
豊臣秀吉の朝鮮出兵をめぐっては、イエズス会などが関係していたという説もあります。
天正14年(1586年)にキリスト教の宣教師・コエリョが大坂城で秀吉に謁見した際、秀吉は明国への侵略に協力することを条件に、イエズス会の布教活動を許可しました。
しかし、翌天正15年(1587年)に秀吉は突然「バテレン追放令」を出します。
バテレン追放令
豊臣秀吉が発令したキリスト教の布教を禁止する法令。
宣教師たちには20日以内に国外退去を命じた一方、南蛮貿易は仏法を妨げない限りという条件で認めていました。
前年まではイエズス会と力を合わせて明国を征服しようとしていた秀吉が、なぜ急に方針を転換したのでしょうか。
その理由は定かではありませんが、宣教師による寺社仏閣の破壊やポルトガル人による日本人奴隷の売買を止めようとしたなどの説があります。
また、秀吉がポルトガルの大砲などを備えた強力な軍艦・フスタ船を見たことで、イエズス会に対する危機感を抱いたことも原因と言われてきました。
秀吉の朝鮮出兵がついに始まる
結果として豊臣秀吉はイエズス会の力を借りずに明への出兵を決行しました。
ここからは2回にわたる朝鮮出兵がいつ行われたのかなどの概要や、その背後にある支配構想などを解説していきます。
秀吉は朝鮮出兵から東アジア全体の支配、さらにはヨーロッパとの戦いも見ていたことがわかるでしょう。
文禄・慶長の役はいつ行われた?
秀吉は天正20年(1592年)、1回目の朝鮮出兵「文禄の役」を開始しました。
約16万の軍勢が朝鮮へ渡海し、名護屋在陣として秀吉の側近や徳川家康など約11万人のほか、京都の警護に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)以下10万人が動員されたと言われています。
朝鮮へ動員されたのは九州や四国、中国地方の大名が主体で、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)、島津義弘(しまずよしひろ)、黒田長政(くろだながまさ)などの武将が名を連ねていました。
続く慶長2年(1597年)には、2回目の出兵となった「慶長の役」が行われ、九州や中国・四国の大名を中心に総勢約14万の軍勢を動員します。
慶長3年(1598年)には豊臣秀吉の死によって日本軍は撤退を開始し、同年12月10日の島津義弘の到着によって撤退が完了。
7年間に及んだ秀吉の朝鮮出兵が終了したのです。
東アジア支配を見据えた三国国割構想
朝鮮出兵は失敗しましたが、秀吉は征服後の東アジアの支配体制として「三国国割構想」を発表していました。
この構想は北京に後陽成天皇と関白の豊臣秀次を置き、日本には親王の若宮か八条宮が新たな天皇として即位、甥の豊臣秀保(とよとみひでやす)か宇喜多秀家(うきたひでいえ)を関白に就かせ、朝鮮に秀次の弟・豊臣秀勝(とよとみひでかつ)を国王として配置。
秀吉自身は東アジアの交易拠点である中国の寧波で、全体の指揮を執る壮大な計画だったそうです。
また、この支配構想は単純な領土拡大ではなく、キリスト教圏との戦いも見据えた構想という説もあります。
2回目の出兵となった慶長の役の最中には「サンフェリペ号事件」が起きており、ここで秀吉がキリスト教やスペインなどの強国に対する警戒心を強めたのかもしれません。
サンフェリペ号事件
文禄5年(1596年)にスペイン船のサンフェリペ号が土佐沖に漂着し、船員らは一時的に長浜に拘留され、船の積み荷は豊臣政権によって没収された事件。
このときスペイン人の船員から日本に対する威圧的な発言があり、後の「二十六聖人の殉教」につながったと言われています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵はいつ・なぜ行われた?|まとめ
今回は豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われた理由について、日本だけではなく海外の話なども踏まえながら解説しました。
ドラマや映画などで朝鮮出兵は、晩年の秀吉が耄碌したことで始まった印象が強いかもしれませんが、実際は織田信長から構想が始まっていたことがわかりましたよね。
本能寺の変がなければ信長が朝鮮出兵をしていた可能性もあり、秀吉の失敗がなければ徳川家康も唐入りを考えたかもしれません。
また、秀吉は日本だけではなく、東アジアやヨーロッパを見据えた壮大な支配構想を持っていたことも興味深い事実でしょう。
秀吉が朝鮮出兵を行った理由を深掘りすることで、日本史や世界史に対する視野が今までより広がるかもしれません。
そんな秀吉の性格について詳しく解説している記事もありますので、あわせてご覧ください。
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