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苦労人!武田勝頼の前半生~父・信玄のせいで生まれた時から波乱万丈~
NHK大河ドラマ「どうする家康」で、眞栄田郷敦さんが演じる武田勝頼。
武田信玄の子で、父・信玄の没後、家督を継ぐことになります。
しかし、天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗したことをきっかけに、武田家を滅ぼしてしまった愚将というイメージがある方も多いのではないでしょうか。
一方で、最近の研究によって再評価されてきており、「どうする家康」でもかっこよく描かれていて、そのイメージが変わりつつある人物でもあります。
今回の記事では、「どうする家康」に登場するまでの武田勝頼の波乱の前半生について解説していきます。
武田勝頼の生い立ち
まずは、武田勝頼がどのような状況で生まれたのかを確認していきましょう。
武田勝頼は、天文15年(1546年)に武田信玄の四男として生れました。
母親は、信玄の側室である通称「諏訪御料人」と呼ばれる、諏訪頼重の娘で、「かくれなき美人」と言われるほどの美しい人だったそうです。
一方で信玄の正室は、公家の名門・三条家出身の三条の方で、信玄との間に3男2女をもうけています。
武田家と諏訪頼重との関係
勝頼の母「諏訪御料人」の父である諏訪頼重は、諏訪大社の辺りを治めていた一族でした。
元々は信玄の父・武田信虎の時代、諏訪頼重が信玄の妹(禰々)と婚姻関係にあり、武田氏と諏訪氏は同盟関係にありました。
しかし、とある事件をきっかけに、信玄と諏訪氏は対立することになります。
父・信玄と諏訪氏との対立
天文10年(1541年)、信玄が甲斐と駿河の国境を封鎖して、父・信虎が帰国できないようにし、無理矢理自分が当主になるという出来事がありました。
その時の武田家の混乱に乗じて上杉憲政が攻めてくるという事態がありましたが、それを頼重が撃退しました。
その際、頼重は信玄に無断で領地を拡大してしまい、それに怒った信玄は、諏訪氏の庶流である諏訪頼継と結託して頼重を攻め、頼重は自害に追い込まれてしまいます。
「諏訪御料人」との結婚
頼重がいなくなったため、信玄は妹(禰々)と諏訪頼重の間の子どもである寅王丸を、諏訪家の次期領主にすることを企みます。
しかし、せっかく信玄と結託して頼重を倒した頼継は、納得がいかずに反乱を起こしますが、信玄は元々味方だった頼継も倒して、寅王丸を次期領主にしました。
しかし、当時寅王丸は2歳だったので、実質的には信玄が諏訪家を乗っ取る形になりますが、諏訪の人々はいきなり乗っ取ろうとした信玄の言うことを聞くはずがありません。
そこで、諏訪の人の信頼を得るために、頼重の娘である「諏訪御料人」と結婚して、自分が諏訪家の指揮を取る正当性を得ようとしたのです。
『甲陽軍鑑』によると、山本勘助の提案によって「諏訪御料人」を迎え入れることを決めたという話もあるそうです。
そこで生れたのが勝頼で、この時点では、諏訪家本流ではなく庶流の「高遠諏訪家」を継いでいます。
ちなみに、諏訪家を継承することになっていた寅王丸がどうなったかというと、勝頼が生れたタイミングで消息が不明となっています。
出家したという伝承もありますが、歴史の表舞台からは消えてしまったのです。
武田勝頼の境遇
このように、生まれる前から父・信玄のせいで波乱万丈の武田勝頼です。
ここからは、勝頼という名前の由来や、諏訪家ではどのように過ごしていたのかについて解説していきます。
諏訪四郎勝頼の由来
まず、勝頼という名前の由来を見ていきましょう。
「頼」という字は、諏訪家が代々使っている文字で、「勝」という字は、武田信玄の幼名「勝千代」の「勝」から来ています。
しかし、信玄は他の子どもには現在の名前の「信」の字をあげているので、幼名から「勝」の字をもらった勝頼は、信玄の子どもにしては待遇が低い扱いを受けています。
名前は正室が決めると言われているので、三条の方が側室の子である勝頼には「信」の偏諱を認めなかったという説もあります。
また、勝頼の家臣も諏訪の人間で固められていたので、名前や待遇からも、信玄の跡取りになるとは思われていなかったということです。
勝頼は、諏訪大社の神官も務めることができなかったりと、武田家にも諏訪家にも中途半端にしか関われていなかったのです。
勝頼が高遠城の城主に
永禄5年(1562年)、17歳の勝頼は、高遠諏訪氏の本拠である高遠城の城主になります。
その時の他の兄弟はというと、次男の武田信親は失明してしまい出家、三男の武田信之は、病で早逝してしまっていました。
そのため、勝頼は四男でしたが事実上次男になり、長男の義信を支える立場になったのです。
兄・義信のクーデターにより想定外の当主へ
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川家が失墜すると、信玄は織田信長との同盟を画策しだします。
織田信長の養女(信長の姪・遠山信廉の娘)を勝頼に嫁がせて、婚姻同盟を結ぶことになりました。
これに対して、義信は猛烈に不満をもらすことになります。
なぜかというと、義信の妻は今川家からやってきた人だったので、義信にとっては、義理の父(今川義元)が織田信長に殺されているにも関わらず、信長と手を組むのが許せなかったのです。
ここから、信玄と義信に亀裂が入っていくことになります。
義信事件勃発
永禄8年(1565年)10月、ついに義信事件が勃発してしまいます。
義信は、勝頼と織田信長の養女の結婚を阻止しようと、クーデターを起こしました。
赤備えで有名な飯富虎昌の屋敷に出入りをして、信玄を倒そうと画策をしていたと言われています。
しかし、飯富虎昌の弟・昌景の密告により、信玄にバレてしまいました。
飯富虎昌は処刑され、信玄は義信との関係を一時期は修復しようとしましたが、義信の意志は固く、東光寺に幽閉されたのちに自害したと言われています。
勝頼が嫡男に
こうして、勝頼以外の跡継ぎがいなくなってしまったため、勝頼が跡継ぎになることが決まりました。
元亀元年(1570)頃に、勝頼は高遠城を出て甲府へ来ていると言われています。
この時から武田に復姓し、「諏訪四郎勝頼」から「武田四郎勝頼」となり、信玄の嫡男となったのです。
とはいえ、信玄は家中の冷ややかな反応を見越して、武田勝頼はあくまでも期間限定、嫡孫・信勝が成人するまでを任期とし、反発を抑えようとしたとも言われています。
かつては諏訪の人の信頼を得るために「諏訪御料人」として正当性を得たのと同じように、勝頼の任期も一時的としていることから、家中の評判は大事なものだったことがわかりますね。
苦労人!武田勝頼の前半生~父・信玄のせいで生まれた時から波乱万丈~|まとめ
父・信玄のせいで生まれた時から波乱万丈な人生を送っている武田勝頼。
「どうする家康」では、信玄からスムーズに家督を譲られたように描かれていますが、実際にはこんなにも波乱万丈な前半生を送っていたのですね。
大河ドラマ「どうする家康」では、眞栄田郷敦さんが演じるかっこいい武田勝頼が今後どのような活躍をするか、目が離せませんね。