- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた?
滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた?
長篠の戦いを契機に、織田・徳川家によって滅ぼされた武田家。
では、武田信玄の血筋は断絶してしまったのか?
江戸時代や現在の子孫は?
結論から書くと「武田本家は断絶したが、武田分家は江戸時代や現在まで存続している」が答えとなります。
では、どうして分家だけが存続しているのか?
その理由は、織田の残党狩りだけではなく、跡継ぎ問題など複数の要因が絡んでいて、歴史好きにとってなかなかに興味深い内容なのです。
そんな武田家の滅亡から江戸時代での分家存続までをわかりやすくまとめてみました。
滅亡後の武田家の流れにご興味がある方はぜひご参考ください。
目次
武田家が滅亡した原因
武田家滅亡の大きな原因は複数にわたって考えられます。
武田家滅亡の大きな原因
・長篠の大敗で多くの家臣を失ったから
・織田・徳川連合軍に加え、北条氏政も武田領に侵攻してきたから
・残党狩りと武田潰しが徹底していたから
・跡継ぎに不幸が続いたから
長篠の戦い後、武田家がすぐに滅んでいったわけではありません。
むしろ武田勝頼は、東上野の北条領を攻略し、父・武田信玄以上の領地を確保していた時期もあるくらいです。
ただ、東の北条家と西の織田・徳川軍を相手にするには分が悪すぎました。
軍事だけではなく、外交も駆使した武田勝頼でしたが滅亡の時を迎えてしまいます。
武田勝頼の外交は、織田・徳川・北条だけではなく、佐竹や上杉にも及びました。
そして、この外交で上杉景勝の正室となった菊姫(武田信玄の5女)が武田家の子孫を繋ぐきっかけともなります。
武田勝頼についてもっと知りたい方はこちらの記事をご確認ください!
苦労人!武田勝頼の前半生~父・信玄のせいで生まれた時から波乱万丈~
武田家の子孫・象徴潰し
織田家が武田領を支配していくために、武田家の子孫・縁者・象徴となるものは潰していく方針を取ります。
特に恵林寺では、参門の2階に登らせた僧侶達を焼き殺すという凄惨な仕打ちを食らわせました。
この恵林寺での虐殺は、信長公記でも「地獄の炎にむせび、火と血と刀の責め苦に悲しむ様は目も当てられなかった」と記されています。
見せしめとしての意味も大きかったのでしょう。
織田信長は比叡山延暦寺の際も、武田家の象徴となる大講堂や、守り神でもある日吉神社も徹底的に焼き討ちしています。
禁制での支配
織田家は、支配下に入った村や寺社を保護する「禁制」という政策で、武田領での支配力を強めていきます。
しかも、この武田領を支配する際の禁制は無償保護という特別待遇した条件で進めました。(本来、禁制は金銭と引き換えでの安全保障)
「見せしめ」と優遇した条件の「禁制」という飴と鞭を使い分けた織田信長により、武田縁のものは次々と消えていきました。
滅亡後の武田家
滅亡後の武田家は、大きく3つに分かれます。
1.織田家と徳川家に吸収された
2.容赦ない残党狩りで滅亡した
3.武士から帰農した
織田・徳川の勢いは凄まじく、織田側へ降った武田家臣も多くいました。
逆に降らなかった武田家臣は、徹底した残党狩りで族滅(一族を滅ぼされる)されていきます。
滅亡した武田家臣
武田家滅亡後、主だった武田家臣は縁者共々滅ぼされていきます。
滅ぼされた武田家臣
・一条家(武田信玄の弟・一条信龍)
・山県家(山県昌景)
・馬場家(馬場信房)
・長坂家(長坂釣閑斎)
ただ、この残党狩りで全てが断絶となったわけではありません。
山県家や馬場家は、江戸時代はもとより、現在まで子孫が続いている記録もあります。
武田旧領を知行割
織田信長の飴と鞭の戦略は、武田旧領の知行割(領地の分配)にも及びます。
寝返る(織田支配に入る)のが遅いか早いかで、待遇が天と地の差ほど異なり、以下のように寝返った旧武田家臣たちの待遇はかなり違ったようです。
・木曽義昌:木曽郡の本領安堵に加え、筑摩郡と安曇郡を授与
・穴山梅雪(信君):穴山領の本領安堵
・小山田信茂:処刑
早くから寝返った木曽義昌は領地を貰うなど手厚い待遇ですが、滅亡間近で寝返った小山田信茂に至っては処刑という冷酷さ。
敵対勢力が味方となっていくのも時間の問題でした。
飴と鞭、恐怖と安堵、こういった人心掌握術が信長の強さの一面でもあるのでしょう。
逆に、武田勝頼は人心掌握術で家臣の統率が取れずに、それが滅亡原因の一つとなったのかもしれません。
織田信長の政策や影響についてもっと知りたい方は、こちらの記事も確認してみてください。
織田信長が行った政策の狙いは?政治や経済への影響をわかりやすく紹介
織田家臣への武田旧領の知行割
武田家臣の本領安堵だけではなく、織田家臣への知行割も行われ、武田領が織田・徳川家に吸収されていく形になります。
・滝川一益:上野国・小県郡・佐久郡を拝領、関東御取次役に任命
・河尻秀隆:甲斐国・諏訪郡を拝領
・毛利長秀:伊那郡を拝領
・森長可:川中島四郡を拝領
この時、徳川家康は駿河国を与えられ、織田家臣と同様の扱いとなっています。
ちなみに、北条氏政は織田家に味方しましたが、協力するタイミングが遅かったため、特に褒賞はありませんでした。
そして、この知行割の3か月後に本能寺の変が起こり、旧武田領にも混乱が起こります。
本能寺の変後の武田旧領は徳川領に
本能寺の変で織田信長が横死し、支配体制の固まっていなかった旧武田領で混乱が起き、支配体制が空白となります。
俗に言う「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」が起こります。
天正壬午の乱で起きた事
・森長可と毛利長秀は領地放棄で織田本領に帰還
・河尻秀隆は武田遺臣により殺害
・滝川一益は北条家との神流川の戦いで敗北
結果、織田軍は武田旧領から撤退を余儀なくされました。
そこを徳川家康が切り取り、徳川領としていった流れがあります。
ポイント
武田旧領が徳川領となるに従い、旧武田家臣も徳川家に召し抱えられていきます。
武田家こそは滅亡しましたが、武田家の影響力は徳川家において色濃く残っているとも言えるでしょう。
徳川家康の天下取りの背景には、武田家の軍事内政力の土台の影響も大きいかもしれません。
武田本家の跡継ぎ断絶
武田信玄・武田勝頼は没しましたが武田家系は続きます。
まずは、穴山信君(梅雪)が武田の名跡を継ぎ、武田信君となりました。
穴山信君も武田家と同じ甲斐源氏なので、血筋的におかしい話ではありませんでしたが、穴山信君は家康との伊賀越えの際に、家康と別行動を取り、落命して没してしまいました。
そして、武田信玄の娘である見性院との間に生まれた勝千代(信治)が武田家を継ぎます。
しかし、この勝千代が天然痘で16歳の若さにして没してしまいます。
そこで、徳川家康の子・万千代(信吉)が養子として迎えられ、万千代が武田家を継ぎました。
武田家を滅ぼした徳川家康、その子が武田家を継いだという皮肉な話でもありますね。しかし、この万千代も後継ぎがいないまま21歳の若さで没してしまいました。
このように継いだ者が次々と何らかの理由で没してしまうことが続き、武田本家が断絶する原因になってしまったのです。
江戸時代にも存続していた武田家の子孫
武田宗家は断絶してしまいましたが、武田信玄の血筋は途絶えていません。
信長の残党狩りを逃れるため、正式な武田の跡継ぎとはできなかったものの、その系譜は繋がれます。
代表的なのは、米沢武田家へ繋がる安田信清と、高家武田家へと繋がる海野信親で、江戸時代の存続はもちろん、現在まで子孫が繋がれています。
米沢武田家の安田信清
武田勝頼の末弟(武田信玄の6男)である安田信清。
姉の菊姫(武田信玄の5女)が上杉景勝の正室だった縁で、上杉家に仕官しました。
後に武田姓に復姓し、江戸時代にも存続する米沢武田家へと繋がっていきます。
ちなみに、上杉景勝と菊姫の間に実子は生まれませんでした。
もし菊姫に実子が生まれていても、武田性とはならなかったと思いますが、上杉家と武田家の逸話の一つとなったのかもしれませんね。
高家武田家の海野信親
武田勝頼の異母兄(武田信玄の次男)である海野信親(武田龍宝)。
幼いころから(生まれながらの説あり)盲目で出家していた海野信親ですが、武田家滅亡の際に自害してしまいます。
そして、信親の子の信道が逃げ延び、子の信正が徳川家臣として復帰。
この武田信正からの流れが、高家武田家として江戸時代でも存続していきます。
高家とは、戦国大名の子孫や分家の流れで、名門といわれる家柄のことです。
滅亡後の武田家、江戸時代への存続のまとめ
長篠の戦いを契機に、武田家は滅亡へと向かいます。
そして厳しい残党狩りに合いながらも、江戸時代から現代にまで子孫を存続させた武田家。
武田信玄からの本家こそは断絶してしまいましたが、現在まで血脈が繋がっていることに夢想してしまう面もあるのではないでしょうか。
また、徳川家康が天下統一できたのも武田家臣の影響も大きかったのだと思います。
そう考えると、何かがほんの少しだけ違えば、天下統一していたのは徳川家ではなく、武田家だった可能性も低くないのかもしれませんね。
武田家についてもっと知りたい方はこちらの記事もおすすめです。
武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説