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武田家に仕えた鉄壁の猛将『岡部元信』と高天神城の戦い
あなたは、武田信玄・勝頼親子に仕えた岡部元信という猛将をご存知でしょうか。
武田家の武将と言えば武田24将が挙げられると思いますが、岡部元信という武将は武田24将に選ばれている事もなく、決して現代で認知度が高いとは言えません。
しかし、要所の高天神城を任されるくらいに武田信玄・勝頼親子に重用された武将であったのです。
今回は、そんな岡部元信の功績を、武田家・織田家・徳川家の命運を左右した高天神城の戦いと共に解説していきます。
武田家滅亡までの歴史知識をさらに深めたい方は、ぜひご覧ください。
今川家時代の岡部元信
岡部元信は、今川家臣の父から誕生しました。
当時、岡部元信は今川家の武将でしたが、かの有名な武田信玄・織田信長・幼少期の徳川家康との関わりもあったとされています。
「後世に名を残した武将たちとどういった接点があったのか?」
「今川家での功績はどうだったのか?」
ここからは岡部元信の今川家での功績及び、後世に名を残した武将たちとどういった接点があったか解説していきます。
三河小豆川の戦い・安祥城の戦い~竹千代奪還作戦~
三河小豆川の戦いとは、1542年(天文11年)と1548年(天文17年)の2度にわたって繰り広げられた織田信秀(信長の父)と今川義元の争いになります。
1547年(天文16年)松平家は、今川家に人質として嫡子(跡継ぎ)である竹千代(後の徳川家康)を送ることにしていました。
しかし竹千代の身柄は、護送の任にあたった戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまいます。
この事件により1548年(天文17年)に三河小豆川の戦いが起こり、岡部元信はこの2度目の1548年の戦いで大きく活躍し今川家の勝利に貢献しました。
さらに、翌年1549年(天文18年)の安祥城の戦いで勝利。
この戦いで織田信広(信長の異母兄)を捕虜とし、奪われていた竹千代と交換することができ、この2つの戦いでの活躍は主君の今川義元からも認められました。
岡部元信の「元」の字は今川の義元の「元」であり、主君から名前の1字を与えられたとされています。
これらの事により、名実ともに岡部元信は今川家の重臣であったことがわかります。
運命の桶狭間~鉄壁と忠義の岡部元信~
1560年(永禄3年)かの有名な桶狭間の戦いが起こります。
当時、岡部元信は鳴海城主であり、この地は織田信長との戦の最前線に位置しており激闘を繰り広げていました。
しかし、主君・今川義元が討たれたのです。
今川軍は壊滅的状況になり、織田軍が鳴海城に次々と押し寄せてきますが、その軍勢を岡部元信は鉄壁のごとく撃退しています。
善戦する岡部元信ですが不利な状況に変わりはなく、「今川義元の首の返還」を条件に鳴海城を明け渡すことにしました。
この行動に織田信長は「岡部元信の忠義」を感じたといわれています。
さらに、岡部元信の活躍は主君の首の奪還にとどまらず、駿府に戻る途中で刈谷城を焼き払い、城主を討ち取りました。
これらの活躍により、義元の跡を継いだ今川氏真からも感状を与えられています。
今川家滅亡~武田家へ~
桶狭間の戦いから8年後の1568年(永禄11年)、武田信玄は駿河に侵攻。
これにより今川氏真は駿府を追われることとなり、今川家は滅亡することになります。
この時、岡部元信は氏真と行動を共にしていましたが武田家に降伏し、武田家に仕えることになりました。
武田信玄と岡部元信の繋がり
岡部元信は、降伏以前から武田信玄と繋がりがあったといわれています。
上記の鳴海城主になる以前、一時的に領地を没収された際、武田信玄のもとに身を寄せていたそうです。
また、岡部元信の「元」は今川義元の「元」ですが、「信」は武田晴信(信玄の旧名)から与えられた「信」という説もあります。
武田家にスムーズに仕官できたのも、このような過去があったからではないでしょうか。
岡部元信の武田家での出世物語
武田家に仕えるようになった岡部元信ですが、当初は10騎のみしか兵を与えられなかった冷遇を受けています。
しかし、徐々に頭角を現し、遠江方面の軍事指揮権を一任される高天神城主にまでになりました。
武田家ではどのような出世物語だったのでしょうか。
ここからは岡部元信が高天神城主になるまでの出世物語を解説していきます。
かつての主・今川家の屋敷へ
山県昌景の配下として武田家としての生活をはじめた岡部元信。徐々に扱いが優遇されていきます。
武田家は甲斐(現在の山梨県)に拠点があった為、海戦とは無縁でありましたが、駿河を手中にし徳川家・北条家と戦をしていく中で海賊衆との繋がりが必要になりました。
そのような状況下で駿河の海賊衆の統率に関わっていた岡部元信は重用され、岡部家惣領として認められたのです。
さらに、今川義元隠居屋敷への居住までも許可されました。
これは明確に出世の道を辿っていたといえるのではないでしょうか。
鉄壁の防衛線、再び
1575年(天将3年)長篠の戦いが起こり、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗してしまいます。
この時、岡部元信は小山(こやま)城の在番をしており、徳川家康からの猛攻を何度も退けました。
桶狭間の時と同様に本軍が大敗を喫している中、重要拠点を守り抜く岡部元信の鉄壁さが世に知れ渡っていたのではないでしょうか。
高天神城城主・岡部元信
山県昌景の配下として武田家に仕えた岡部元信ですが、これまでの活躍により高天神城の城主に抜擢され「武田勝頼の配下の部下」ではなく、武田勝頼の直臣として仕えていたといわれています。
高天神城城主となった岡部元信ですが、武田家中の譜代(代々その主家に仕えている)以外で軍事指揮権を任されていたのは真田氏と岡部元信のみでした。
武田信玄亡き後も、跡を継いだ勝頼からも重用され大出世を果たした岡部元信であったのです。
岡部元信最期の防衛~高天神城の戦い
これまで2度の大きな防衛戦を成功させてきた岡部元信ですが、高天神城の戦いでは苦戦を強いられます。
防衛戦のスペシャリスト岡部元信はなぜ、降伏する決断に至ってしまったのでしょうか。
織田信長・徳川家康の思惑と共に、本記事のメインテーマ「高天神城の戦い」を解説していきます。
高天神城・完全包囲
1578年(天正6年)高天神城の城主となった岡部元信ですが、1580年(天正8年)から徳川家康による攻撃が再開されてしまいます。
家康が選択した作戦は、兵糧攻め(食料等を城に補給させない作戦)でした。
1580年(天正8年)8月迄には「高天神六砦」と呼ばれる小笠山砦・能ヶ坂砦・火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦・中村砦、三井山砦が完成し、高天神城を取り囲みました。
この包囲は後に『鳥も通わぬほど厳重な囲い』と三河物語で比喩されています。
降伏拒絶~魔王信長の非情~
1581年(天正9年)1月に岡部元信は滝堺城・小山城を引き渡すことを条件に城兵の助命嘆願をする書状を徳川家康に送ったとされています。
家康はこの助命嘆願の行方を信長に相談した結果、交渉には応じず徹底的に高天神城を攻撃するよう命じたのです。
信長がこのような判断をしたのには、ある思惑がありました。
【状況】武田勝頼は北条家とも戦をしていて、高天神城に容易に援軍を送れない
【思惑1】勝頼が援軍に来た場合、武田家の兵力を大きく削ることができる
【思惑2】援軍に来なかった場合、重要拠点である高天神城を長期間死守している兵士たちを、勝頼が見捨てたことになり信用が失墜する
岡部元信の助命嘆願を拒否することには、このような大きな意味がありました。
結果的に勝頼は高天神城に援軍を送ることはできず、岡部元信は覚悟を決めます。
岡部元信、高天神城と共に~武士の誉れ~
高天神城での籠城が限界を迎え、岡部元信は生き残っている城兵と宴を開きました。
そして城兵と共に徳川軍に突撃し、本多主水との組打ち勝負に敗れ、岡部元信は討ち取られたといわれています。
この時、岡部元信は部隊の先頭で突撃してきており、戦場に居合わせていた徳川軍の武将たちは驚愕したとのことです。
戦に敗れたとしても、城を枕に討ち死にすることは武士の誉れであったのではないのでしょうか。
武田家に仕えた鉄壁の猛将『岡部元信』と高天神城の戦い|まとめ
今川家から武田家に仕え、戦場での実力から出世物語を果たした岡部元信。
ここまで読んでいただいた方の中に、岡部元信を無能と判断する方はいないかと思います。
そして、武田家の滅亡のきっかけとしては、長篠の戦いと想像する方が多いのではないのでしょうか。
たしかに武田家は大敗を喫しましたが、そこから数年間は織田・徳川と戦い続けています。
武田家の滅亡を決定的なものにしたのは、岡部元信が奮戦した「高天神城の戦い」と言っても過言ではありません。
「どうする家康」ではあっさり描かれてしまった、「高天神城の戦い」ではありますが本記事があなたの補足資料になれていましたら幸いです。
▼主な参考文献