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本能寺の変『徳川家康黒幕説』は成立するのか?考察してみた!
大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康が「信長を殺す」と発言。
本能寺の変・徳川家康黒幕説をほのめかず急展開となっています。
これまで、本能寺の変には様々な黒幕説が囁かれてきました。
「徳川家康黒幕説とは?」
「本当に徳川家康黒幕説は有り得るのか?」
今回の記事では、本能寺の変・徳川家康黒幕説に焦点を当てて考察していきたいと思います。
本能寺の変が起こるまで
本能寺の変は、1582年(天正10年)6月2日の早朝に本能寺に、宿泊していた織田信長を明智光秀が襲撃した事件です。
本能寺の変・徳川家康黒幕説を考える前に、まずは本能寺の変が起こるまでの経緯を整理しておきましょう。
本能寺の変・徳川家康説の主要登場人物である徳川家康・織田信長・織田信長・明智光秀の動向を順を追って確認します。
彼らの行動を見ていくと、本能寺の変・家康黒幕説の根拠になる出来事も浮かび上がってきます。
安土城での家康接待
1582年(天正10年)5月15日、織田信長は、徳川家康を安土城にて接待します。
これは、武田勝頼攻略に手柄のあった家康を信長自らもてなすという一大イベントでした。
ここで家康の饗応役(家康接待の仕切り役)を務めたのが明智光秀です。
本能寺の変・徳川家康説の根拠①
同年5月21日、家康は、信長の勧めで安土城を発ち上洛します。
家康は信長に、せっかく安土まで来たのだから京都や大坂を見物してはどうかと言われ、信長の嫡男・織田信忠と2,000人の同行者と共に上洛しました。
この頃、家康は領国・浜松へ向けてしきりに書状を出しています。
しばらく浜松を留守にするため畿内から命令を発していたのでしょう。
ここで一つ引っかかるのが、家康は「帰国後に西国に出陣予定である」と書状に記していた点です。
ここでの「西国への出陣」は、信長を討つための出陣を意味するのではないか?と言われ、本能寺の変・徳川家康黒幕説の根拠の一つになっているのです。
しかし、これには異論もあり、家康が武田氏を討伐した当時、浜松以東には脅威がなくなっていたため、単に信長による中国攻めに協力することを意味するだけのものだという解釈も存在します。
本能寺の変・徳川家康説の根拠②
家康と信長の嫡男・信忠は、京都を見物したのち、共に堺を訪れる予定でした。
しかし5月27日、急遽信忠は、織田信長の小姓・森乱に対し「予定を変更して京都に残る」という書状を出しています。
これは、安土城にいた父・信長が急遽上洛することになり、京都でその出迎えをする必要が出てきたためと考えられます。
この予定変更が、のちの本能寺の変発生に大きく関わっていきます。
信忠は、この時既に織田家の家督を継いでいたため、明智光秀がクーデターを成功させるためには、信長だけではなく信忠も同時に殺す必要がありました。
依然として影響力を持つ信長と織田家の当主・信忠の2人が「近い場所」に「無防備」な形で揃ったことで、本能寺の変を起こすための条件が整ったことが明智光秀の謀反を決断させたのではないかと言われているのです。
この時に信忠を京に留まらせ、本能寺の変を起こせる状況を設定したのが家康なのではないかと解釈され、これも本能寺の変・家康黒幕説の根拠となっているのです。
しかし、この解釈にも異論が残ります。
信忠が帰京の前に森乱に出した書状を読んでみると、信忠は信長の許可を得て京に戻っていたのです。
信忠の帰京が信長の意志によるものだということからも、やはり信長と信忠が京で揃ったのは家康の計画ではないと考えるほうが自然なようです。
本能寺の変勃発・神君伊賀越え
5月29日、家康は堺に到着します。
堺では丹羽長秀・津田信澄といった信長の家臣たちから接待を受けながら数日の間滞在したのち、京の信長へ再度挨拶に行くという予定でした。
しかし、その矢先の1582年(天正10年)6月2日、京で本能寺の変が起こります。
報せを聞いた家康は、僅かな手勢を連れて命がけの逃避行を開始します。
同日、山城国(現:京都府)の宇治田原に宿泊し、翌6月3日には近江国・信楽に宿泊。
6月4日に伊賀国(現:三重県)を超え、海を渡って6月5日には岡崎(現:愛知県)に無事帰還したと言われています。
これが有名な家康による神君伊賀越えです。
『どうする家康』にも登場する穴山梅雪はこの時に一揆勢に討ち取られたと言われています。
本能寺の変後の家康の対応
ここからは、本能寺の変後、伊賀を越えて命からがら帰還した家康のその後の対応です。
この時の家康の動きを見ていくと、本当に家康が本能寺の変の黒幕だったのか大いに疑問が残ります。
なぜなら、家康が領国に帰還したあとの光秀討伐への動きがあまりにも遅いためです。
この時の家康の行動からは、彼が事前に本能寺の変が起こることを知っていたとは到底思えず、むしろパニック状態にあったとすら思えてしまいます。
甲斐国
甲斐国で新たな騒乱が起こることを危惧した家康は、本能寺の変の8日後の6月10日、甲斐国を領有していた信長の家臣・河尻秀隆に対し、重臣の本多信俊を派遣。
しかし6月14日、甲斐国に到着した信俊は河尻秀隆に殺害されるという事件が起こっています。
秀隆は、主君の信長を討たれて疑心暗鬼になっていたと思われます。
家康、出陣
6月14日同日、家康は、信長を討った光秀を討伐すべく岡崎の鳴海城に出陣します。
しかし、この前日の6月13日には、既に羽柴秀吉によって明智光秀は敗れています(山崎の戦い)。
6月19日には秀吉より戦勝報告が届き、家康は関東方面の対応を依頼され、すぐさま浜松に撤退しました。
つまり、本能寺の変後、家康は何も出来なかったというわけですね。
信長の次の天下人争いのスタートでしたが、秀吉が一枚も二枚も上手でした。
明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れていますが、明智光秀は実は生きていたという説もありますので、詳しくは以下の記事をご確認ください。
明智光秀は生きていた?天海との同一人物説は濃厚か?
光秀・家康共同作戦説
本能寺の変後の家康のあまりのお粗末な対応を見ると、やはり本能寺の変・家康黒幕説は無理があるように思えてきますね。
ここで一つ、面白い説をご紹介したいと思います。
明智光秀の子孫である歴史学者・明智憲三郎氏の提唱する光秀・家康共同作戦説です。
信長が家康を討とうとしていた!?
明智憲三郎氏によると、なんと信長が家康を殺害しようとしていたというのです。
この説によると、信長は光秀に対し、家康討伐を極秘裏に命令します。
しかし、信長に不満を持っていた光秀はこっそり家康に内通。信長からの命令を家康に打ち明けました。
その上で、光秀は家康に対し共に信長を討つことを提案したというのです。
信長にとっては、仕掛人のつもりが実は光秀にハメられていたという「逆ドッキリ」ですね。
だからこそ信長は油断しており、あっさりと本能寺の変で死ぬことになったというわけです。
他にも、明智軍の兵が後に「家康を攻撃するものだと思っていた」と証言していたことも、この説を裏付けているようです。
「光秀・家康共同作戦説」に対する反論①
しかし、この説にはいくつか納得できない点が存在します。
1つ目に、信長に家康を殺害するメリットが無いという点。
確かに家康は東海地方で力を付けましたが、だからといって家康を殺してしまうと、他地域で力を持っている羽柴秀吉・柴田勝家といった重臣たちの信用を失うことにもなります。
また、この時の信長には、上杉・毛利・長宗我部といった敵対勢力が四方に存在しており、ここでわざわざ家康と敵対する道を選ぶというのはあまりにも不自然です。
「光秀・家康共同作戦説」に対する反論②
2つ目に、家康討ちを命じたのがなぜ光秀だったのかという点です。
信長にとって、家康を殺害するチャンスはいくらでもありました。
信長の嫡男・信忠も家康の京・堺見物に同行していますし、堺では丹羽長秀・津田信澄ら重臣も家康を接待しています。
このような状況の中、わざわざ光秀に大軍勢を率いさせて京都で家康を殺害させるというのは不自然に思えます。
「光秀・家康共同作戦説」に対する反論③
また、そもそも光秀が信長討ちを提案したとして、家康が乗る可能性があったのか?という点です。
光秀と家康は前述の京都での饗応など、数えるほどしか接点がありません。
光秀と家康の仲が良かった等という事実が確認できない以上、光秀が家康に対し共謀をもちかけるほど信頼があったとは思えません。
家康黒幕説 その他の根拠
これまで説明した以外にも、本能寺の変・徳川家康黒幕説の根拠となる事象がいくつか存在します。
こちらでは、家康黒幕説のその他の根拠をざっくりとご紹介します。
春日局の出世
江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母を務めた女に、明智光秀の家臣・斎藤利三の娘である春日局がいます。
彼女はいわば、本能寺の変を起こした”謀反人”であり家康にとっても敵であるはずの光秀の関係者にあたる人物です。
そんな人物が三代将軍の乳母という徳川家にとっての大役を務めることができた理由は、家康と光秀が共謀していたからではないか?とするものがあります。
しかしこれにも反論があり、家康の側室であり二代将軍・秀忠の乳母を務めた阿茶局も家康と敵対していた武田家臣の娘ですし、同じく敵対していた今川家の家臣にも嫁いでいた経歴がある人物です。
つまり、家康の敵の関係者が江戸幕府で出世することは珍しくないのです。
徳川家光の”光”の字
また、三代将軍・徳川家光の”光”は明智光秀の”光”だとする言説です。
しかし、家康に仕えた僧・以心崇伝の『本光国師日記』には、家光の名前の由来が書かれているのですが、ここには光秀に関する話は見えません。
やはりこの説も説得力に欠けるようです。
本能寺の変の黒幕については、徳川家康説以外にも様々な説があり、歴史研究家の間でも数々の考察が生まれています。詳しくは以下の記事をご確認ください。
織田信長と本能寺の変!黒幕は誰?明智光秀の謎と真相に迫る
本能寺の変『徳川家康黒幕説』は成立するのか?考察してみた!│まとめ
ここまで、様々な根拠を解説してきましたが、やはり本能寺の変・徳川家康黒幕説は無理があると言わざるを得ません。
では、大河ドラマ『どうする家康』では本能寺の変・黒幕説がどのように描かれるのでしょうか。
現状全く予想がつきませんね。
人気脚本家・古沢良太氏がどのようなシナリオに仕上げるのかとても楽しみです。