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『今川氏真』長篠の戦にも参戦!?旧領復帰を諦めなかった「ばかなる大将」
“海道一の弓取り”と呼ばれた今川義元を父に持ちながらも、その偉大な父を桶狭間の戦いで亡くし、混迷する今川家を立て直せぬまま領国を奪われてしまった今川氏真。
一般的には今川家を滅亡させた暗愚というイメージで、大河ドラマ『どうする家康』では武田信玄に「ばかなる大将」と揶揄されておりました。
しかし、歴史上の今川氏真はここで終わってしまったわけではありません。
戦国大名でなくなってからも、氏真は信玄に奪われた駿河を取り戻すことを決して諦めていなかったのです。
旧領復帰のため、父の仇やかつての家臣に頭を下げるなど、氏真は多くの苦汁を舐めてきました。
今回の記事では、今川家を滅ぼされてからの氏真の歩みについてご紹介していきます。
領国継承から滅亡までの今川氏真
今川氏真が徳川家康との和議に応じて懸川城を明け渡し、北条氏の庇護下に入ったことをもって戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
ここから氏真の流転が始まっていくわけですが、まずは今川氏滅亡までの氏真についておさらいしておきましょう。
突然の父の死と領国継承
今川氏真は1538年に今川義元と武田信虎の娘・定恵院の間に生まれました。
偉大な父の下で順風満帆に育っていた氏真ですが、そんな氏真の人生に大きな影を落としたのが1560年に起きた桶狭間の戦いです。
この戦いで義元は討たれ、氏真が今川氏の当主となり領国経営を行うことになりますが、父だけでなく多くの重臣を亡くした桶狭間での敗戦は、氏真にとって非常に大きな打撃となりました。
度重なる家臣の離反
桶狭間の戦いの時にはすでに義元から氏真へ家督は譲られていたものの、まだ実権の移行途中でした。
突然大国のトップとなった氏真は今川家の立て直しを図りますが、家臣である徳川家康が反旗を翻し、東三河や遠江でも離反や反乱が続きます。
『どうする家康』でもこの頃の氏真が描かれていますが、駿府に残る家康の妻・瀬名や子どもたちを人質に取り、瀬名を愛人にしようとするなど、まるで暗黒面に墜ちたように描かれていました。
心が荒むほど当時の氏真の状況はハードだったのかもしれません。
降伏、今川氏滅亡
なんとか領地経営を行おうとした氏真ですが、武田信玄と徳川家康の間では大井川を境に今川領を分け合うという密約が結ばれていました。
信玄が駿河への侵攻を開始すると、家臣の武田氏への寝返りなどもあり、瞬く間に氏真は駿府城を落とされてしまいます。
その後、氏真は遠江の懸川城に籠城し、家康からの攻撃に耐えていました。
同盟を結んでいる北条の援軍や備蓄などもあり、この籠城戦はかなり持ち応えていましたが、なんと信玄も駿河を超えて攻撃を仕掛けてきたのです。
このままでは信玄の好き放題にやられてしまうと考えた家康は、北条氏と交渉を行い、氏真とその家臣を助ける代わりに、懸川城を明け渡すよう和議を申し入れます。
氏真はこの和議を受け入れ、妻・早川殿の出身である北条家に身を寄せることになり、戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
駿河に戻る戦い!流転の日々を送った今川氏真
戦国大名ではなくなった今川氏真ですが、駿河を取り戻すという気持ちを忘れることはありませんでした。
こちらの章では駿府城を取り戻すために氏真が辿った足跡について解説していきます。
北条氏の庇護下時代
懸川城を明け渡した氏真は、いつか駿河に戻ることを夢見ながら、北条氏の一門という扱いで北条家の世話になります。
武田信玄が占領した駿河を侵攻する際に今川氏真という存在は大きく、北条にとって氏真は利用価値がありました。
しかし、北条氏康から北条氏政の代になると北条家の外交方針が変わり、武田との甲相同盟が結ばれます。
氏真は駿河侵攻の大義名分として庇護されていたので、武田と同盟を結べばその意味はなくなってしまいます。
氏真自身も駿河に戻るために北条に身を寄せていたので、この同盟を機に北条から離れることを決意しました。
織田・徳川の庇護下時代
北条から離れた氏真は徳川家康のいる浜松に向かいました。
そして家康の上司にあたり、自身にとっては親の仇でもある織田信長に駿河侵攻を依頼する書状を出しています。
また、氏真は1575年に上洛して信長に挨拶を行い、信長の前で蹴鞠を披露したとも記録されています。
このエピソードは氏真が愚将と言われる所以の一つですが、仇敵に頭を下げてでも駿河を奪還するという、氏真の覚悟を窺い知ることもできるのではないでしょうか。
ちなみに『どうする家康』第24回では、瀬名の元にやってくる氏真と早川殿が描かれましたが、実際にはこの時代はすでに織田・徳川の庇護下に入っていたと考えられます。
長篠の戦いに従軍~牧野城主へ
1575年に勃発した長篠の戦いですが、氏真は織田・徳川方の武将として従軍していました。
後詰のため最前線での戦いはありませんでしたが、長篠の戦い後に武田から駿河を取り戻せた場合、信長は氏真を駿河の大名として置く計画も考えていたそうです。
また、氏真は遠江の諏訪原城攻略にも家康方の武将として参加し、見事に落とすことができました。
諏訪原城は牧野城と名前が改められ、氏真はこの牧野城の城主に任命されました。
あくまで家康の家臣としての入城で戦国大名に返り咲けたわけではありませんが、氏真は遠江まで戻ることができたのです。
なお、牧野城主としての今川氏真の実態については詳しく分かっておらず、現在研究が進められています。
長篠の戦いついてもっと知りたい方は、こちらの記事も確認してみてください。
長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説
甲州征伐参加、駿府への帰還
氏真は1582年の甲州征伐にも家康に従って駿河侵攻に参加しました。
家康は氏真が駿河を取り戻すことを大義名分とし、氏真を担ぎ上げる形で駿河を制圧しました。
甲州征伐により武田氏は滅亡し、氏真は念願の駿府への帰還を果たします。
そんな氏真の姿を見て、徳川の家臣となっていた三浦や朝比奈など今川の旧臣たちも、再仕官を求めて駿府にやってきたそうです。
駿府帰還後の今川氏真
這いつくばるような思いをしてなんとか駿府に帰ってきた今川氏真ですが、悲願でもあった駿府での生活はどのようなものだったのでしょうか。
ここからは駿府帰還後の氏真について解説しています。
大名復帰ならず
駿府に帰還したものの、氏真が大名に復帰することはありませんでした。
そのため氏真の元にやってきた旧臣たちも再仕官することはできませんでした。
大名復帰できなかった理由は詳しく分かっておりませんが、もしかすると氏真自身が大名復帰を望んでいなかったのかもしれません。
貴族的な生活を送る氏真
駿府帰還後も家康に従っていた氏真ですが、1583年に関白・近衛前久が浜松に下向した際に行った能見物に氏真も参加していたという記録があります。
また、京にも行ったりしていることから、武将というよりは貴族に近い生活をしていたと考えられます。
徳川家臣団からも書状などで氏真様と呼ばれていることから、徳川の中でも家格の高い人物として扱われていたようです。
家康も名門の出で貴族文化にも慣れ親しんでいる氏真に利用価値を見出していたのかもしれません。
高家となった今川家
今川家は江戸時代以降、高家として存続していきます。
高家は幕府の特殊な儀式などを執り行う家柄で、通常の旗本よりも位が高い存在でした。
高家の多くは名門の戦国大名の子孫などで、今川家は明治時代まで残っていきました。
『今川氏真』長篠の戦にも参戦!?旧領復帰を諦めなかった「ばかなる大将」|まとめ
今川家を滅亡させた暗君や蹴鞠などの貴族文化に耽っていたバカ殿というイメージが強い今川氏真ですが、実際には今川家滅亡後も旧領を取り戻すために様々な動きを行っています。
その信念や行動力は決して「ばかなる大将」で片付けられるものではないのではないでしょうか。
確かに戦国大名としての今川家は滅亡させてしまいましたが、父から権力が移る前に領国運営をしなければならなくなったことを考えると、かなり不運な武将でもありました。
没落しながらも旧領復帰を諦めなかった今川氏真が再評価される日も近いかもしれません。