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戦国時代の忍者はどんな存在だった?伊賀・甲賀・風魔・軒猿・黒脛巾組…
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の山田孝之さんが服部半蔵を演じており、物語には伊賀忍者が絡んで、目を離せない存在として描かれています。
このドラマでは、忍者考証を山田雄司先生が担当されるなど、研究に基づいた忍者の姿が再現されています。
そんな世界に誇るジャパニーズエンターテイメント・忍者ですが、学校では詳しく学習する機会が殆どないですよね。
そこで、忍者とは何か・戦国時代における忍者の活躍について、歴史初心者の方にも分かりやすく解説していきます。
服部半蔵や伊賀忍者に興味がある方は、是非チェックしてみて下さい。
目次
鎌倉時代から存在?忍者の始まり
そもそも、忍者はどの時代から存在するのでしょうか。
実は、「忍者」という呼び方が浸透したのは、昭和30年頃からと言われています。
それまでは単に、「忍(しのび)」と呼ばれていたそうです。
そんな忍ですが、いつから存在していたのでしょうか?
その答えは、意外にも鎌倉時代に制定された御成敗式目の中にあります。
御成敗式目とは?
1232年(貞永元年)に鎌倉幕府3代執権・北条泰時により定められた武士の決まり。
御成敗式目の中に「忍」と記載されているのを確認できたのです。
ただ、この頃の忍は、一般的にイメージする忍者のことではなく、泥棒のことを指していました。
どのような経緯で泥棒が忍者と呼ばれるようになったのか、詳しく見ていきましょう。
ビジネスパートナー?大名と忍者の関係
忍者の祖は、南北朝時代に悪党と呼ばれた人達だと言われています。
悪党とは?
幕府と御家人関係を結んでいない武士で、反抗的な者。
この悪党を力のある武士たちが、お金を払って雇い汚れ仕事を依頼したのが、忍者の始まりだと言われています。
汚れ仕事というのは、具体的に、敵地に忍び込んで情報収集する・敵地に火を放つなどが挙げられます。
依頼を受けて仕事を行う傭兵のことを忍と呼ぶようになりました。
実際に、この時期の文献に忍という存在は度々登場しています。
武田信玄も重用?戦国時代における忍者の役割
鎌倉時代に呼び名が存在し、南北朝時代を経て大名から仕事の依頼をされるまでの存在に成長した忍。
戦国時代では、戦に勝つため、忍が請け負う仕事は国にとって重要なものばかりでした。
しかし、重要な仕事というのは危険が伴うもの。
主な任務は、情報収集・放火・夜討ちでした。
情報収集
変装して敵地に溶け込み、
有力者に近づいて情報を引き出す。
放火
炎の広がりを制御できなかったり、
自身が逃げ遅れてしまう危険性もある為、技術が必要。
夜討ち
就寝中の敵を暗殺する。
忍者は卑怯な手段。だが勝つためには必要
戦国大名は、忍者にお金を支払うことと引き換えに、危険な任務を依頼していました。
危険な任務ではあるものの、その実情は変装して敵地に紛れ込むなど地道な任務です。
また、忍者と契約を結ぶ一方で、武士の心を重んじる戦国武将たちは、忍者を使うことに対して、卑怯であるとネガティブな共通認識を持っていました。
同盟を結ぶ際に、国に忍者を送り込むことを禁止する大名もいた程です。
しかし、真っ向勝負するだけでは生き残っていけないのが戦国時代。
卑怯な手を使ってでも、自らが治める国の繁栄のために、戦国大名は忍者を暗躍させました。
戦国時代に活躍した忍者たちをご紹介
戦国時代には、陰影に隠れた勇敢で巧妙な忍者たちが、歴史の舞台で輝かしい活躍を見せました。
こちらでは、その中でも特筆すべき忍者たちをご紹介します。
戦国時代に名を馳せた大名家と忍者の関係についても解説していますので、更に詳しく見ていきましょう。
北条家・「風魔小太郎」
北条家の忍者として有名な人物は、風魔小太郎(ふうまこたろう)です。
その個性的な苗字から、いかにも強者の雰囲気が漂いますが、実は風間小太郎(かざまこたろう)という名前が正しいものであるそう。
北条五代記にて、牙が生えており、身長が2メートル以上あるとも記されていますが、後世の創作であると結論づけられています。
北条五代記とは?
北条家での出来事をまとめた軍記物。
しかし、その存在が全て創作だったわけではなく、実際に北条家4代当主・北条氏政(ほうじょううじまさ)の書状にて、風間忍者が実在したことが確認できます。
風間忍者が粗相を犯した際に、1度目は叱ること・2度目は相談することと記されており、制御が難儀な集団であったことが読み取れます。
元々悪党集団であったと考えられ、北条家滅亡後の江戸時代、取り締まりを受けている程です。
結果的に滅亡の道を辿る北条家ですが、忍者と契約していたことが判明しています。
上杉家・「夜盗組」
義の武将として知られる上杉家当主・上杉謙信も、忍者と契約していました。
その名も夜盗組(やとうぐみ)。
北越太平記にてその存在を確認することが出来ます。
北越太平記とは?
上杉氏に関する軍学書。
上杉氏の忍者として有名な軒猿(のきざる)は残念ながら、文献上ではその存在を確認出来ていません。
女性説も唱えられている「上杉謙信」について、以下の記事で詳しく解説しています。
上杉謙信は本当は女性だった?女性説の起源や根拠、エピソードまとめ
武田家・「すっぱ」「かまり」
甲斐の虎と呼ばれる武田家当主・武田信玄も忍者と契約しています。
甲陽軍鑑にはすっぱ・かまりと呼ばれる忍者が活躍したとされる記述があります。
甲陽軍鑑とは?
武田家の軍学書。
しかし、忍者の仕事の内容は機密事項に当たるため、具体的に何をしていたのかは書物に残っていません。
このように、忍者の実態は史料に残りづらいと考えられています。
伝説の猛将「武田信玄」について、以下の記事で詳しく解説しています。
武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説
伊達家・「草」
独眼竜で有名な東北の武将・伊達政宗。
伊達氏に限らず、東北地方では、忍者のことを草と呼んでいました。
なぜ草と呼んでいたかと言うと、依頼を受けた際に草むらに隠れて機会を伺い襲撃する・草むらに隠れて情報収集するという方法をとっていたためです。
草むらに隠れて機会を伺い襲撃することを「草を起こす」と言うなど、隠語として使用されていました。
伊達家の忍者として有名な黒脛巾組(くろはばきぐみ)は、江戸時代の史料でしかその存在が確認できず、戦国時代に実在していたかは不明です。
忍者といえば!伊賀・甲賀
ここまでは、特定の戦国大名のお抱えで仕事をしていたとされる忍者について解説しました。
伊賀忍者・甲賀忍者は、特定の主人を持たず、暗躍した忍者集団です。
特定の主人を持たないこと以外にも、彼らを特別とする理由があります。
そんな特別な存在の伊賀・甲賀について詳しく見ていきましょう。
大名の影響をあまり受けない土地だった
伊賀・甲賀の忍者が特別なのは、位置する土地に関係があります。
伊賀・甲賀は現在の三重県・滋賀県にあたる場所にあったとされており、朝廷と幕府がある京都から非常に近い所に位置しています。
ですが、山奥にあり街道からも外れているため、大名からの影響を受けづらく、独立した自治を行うことが可能でした。
その反面、自分達だけの力で国を守る必要があったため、独自の戦闘力を必要とし、忍術と呼ばれる特殊技能が発達しました。
国を守るために地道に訓練を続け、忍術を発達させたと考えられます。
幕府軍を討ち払った!伊賀・甲賀が名を馳せたきっかけ
そんな彼らが日の目を浴びるきかっけを作ったのは、近江の戦国大名・六角氏です。
将軍と争ってしまった六角氏は甲賀の山中へ逃げ込みます。
そこで甲賀の人達と伊賀の人達の助太刀もあり、幕府軍を討ち払うことに成功。
これを機に、伊賀・甲賀の名が知れ渡ることに。
また、元々山中の戦闘に心得があった六角氏と伊賀・甲賀の技術が混ざり合い、更に忍術が発達したと考えられています。
服部半蔵と忍者の関係
忍者の棟梁としての印象が強い服部半蔵。
徳川家康に追随しているイメージが強い彼ですが、実はそれは2代目の服部半蔵です。
実際の名を服部正成(はっとりまさなり/まさしげ)と言う2代目の彼の父親こそが、服部家と忍者の関係を築き上げるきっかけとなった人物です。
その初代服部半蔵である父親の名は、服部保長(はっとりやすなが)。
伊賀で生まれ育った彼は、三河へ出稼ぎに行った際に徳川家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)に雇われます。
松平清康の雇われ武士となった服部保長の、三河で生まれた子どもが2代目服部半蔵こと服部正成。
伊賀出身である父親を持つ彼は、三河にて伊賀衆をまとめあげるよう命を受けます。
その後も徳川家と伊賀忍者の関係は続き、俗に言う神君伊賀越えでは、服部半蔵と伊賀忍者が徳川家康に協力したとされています。
協力して徳川家康を守り抜いた服部家と伊賀忍者でしたが、その関係は江戸時代に破綻。
服部正成の息子・服部正就(はっとりまさなり)が伊賀忍者に対して横暴な振る舞いをしたことが原因とされています。
「服部半蔵」と「松尾芭蕉」の同一人物説について、以下の記事で詳しく解説しています。
【検証】松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物?伊賀国出身の2人を徹底比較
『戦国時代の忍者はどんな存在だった?伊賀・甲賀・風魔・軒猿・黒脛巾組…』|まとめ
日本が誇るエンターテイメントの1つであるにも関わらず、学ぶ機会が殆どない忍者という存在。
そんな忍者の起こりと戦国時代での活躍について解説しました。
忍者というと天井裏での情報収集や忍具を使用した派手な戦闘をイメージしがちですが、実際には変装してその土地の有力者と親しくなり情報を聞き出すというかなり地道な仕事が大半であったことが分かりました。
後世にまで大きな存在感を残す忍者から学べるのは、地道に頑張って結果を残すということかもしれません。
学ぶ機会が少ないからこそ、忍者についての知識を地道に蓄えて、理解を深めていきたいですね。