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【神君伊賀越え】家康は何かを隠している?謎だらけの伊賀越えの真相
徳川家康の生涯最大のピンチ「神君伊賀越え(しんくんいがごえ)」。
本能寺の変で織田信長が討たれたあと、堺に滞在していた家康が本国である三河に向けて命がけの逃避行を成功させたことで有名です。
しかし、この神君伊賀越えに関しては一次史料が少なく、詳細は謎だらけであるというのが現状です。
実際に家康が堺から三河にたどり着くまでに通ったルートにも諸説あり、各地に家康が通った伝承が残っているなど矛盾が多く、歴史研究においても決め手に欠いている状態といえます。
この記事では、神君伊賀越えで実際に家康が通ったとされるルートを紹介しつつ、神君伊賀越えの真相が闇に包まれている理由についても考察していきたいと思います。
目次
通説の「神君伊賀越え・宇治田原ルート」
まずは、現在知られている神君伊賀越えのルートから解説します。
「堺→宇治田原→信楽→伊賀→伊勢湾→三河」というルートが最も有名なものになります。
なぜこの説が事実として語られてきたのか、出典の史料や伝承などから紐解いてみましょう。
『信長公記』『石川忠総留書』
通説の神君伊賀越えルートは、織田信長の家臣・太田牛一の『信長公記』と石川忠総の『石川忠総留書』に記されています。
石川忠総は、家康の重臣・大久保忠世の孫にあたる人物です。
忠総本人が神君伊賀越えに参加していた訳ではありませんが、彼の父・大久保忠隣は家康に同行しており、その息子である忠総の記述も信頼できると言われています。
和田定教 伊賀を案内し感状
和田定教という武将が家康から貰った感状の写しが現存しています。
これによると、定教が伊賀越えの際に家康に信楽を案内したとされています。
家康が信楽を案内した定教に感謝していることを示すこの史料も、神君伊賀越えの通説ルートを支持する大きな根拠となっているのです。
宇治田原に残る伝承
家康が通ったとされる宇治田原には現在でも多くの伝承が残っています。
神君伊賀越えを助けた人物の子孫が宇治田原で名家として存続していたり、助けた褒美として家康から家紋を貰った人物の家系が残っているのです。
このように、文書以外にも伝承という形で現在まで語り継がれている逸話が多く残っていることも宇治田原ルートの根拠となっています。
新説「神君伊賀越え・大和ルート」
しかし近年、神君伊賀越えのルートとして新たな可能性が浮かび上がっており、議論を呼んでいます。
それは、宇治田原→信楽→伊賀ではなく、大和→伊賀というルートです。
伊賀を越えていることには変わりないのですが、伊賀に行くまでの道中として堺から南の大和国(現:奈良県)を通ったというのです。
この章では「大和経由説」について様々な史料を紹介しつつ解説していきます。
『当代記』『石川正西見聞集』『御当家記念録』
江戸時代初期に成立した歴史書『当代記』には「大和国で穴山梅雪が横死した」と記述されています。
『当代記』は後世に書かれた二次史料ではありますが、信頼性が高いとされ、家康研究でも重要視されている史料です。
また、1660年成立の川越藩家老・石川昌隆『石川正西見聞集』や、1664年成立の榊原忠次(家康の重臣・榊原康政の孫)『御当家記念録』にも同様に家康が大和を通ったことを示す記述があります。
『寛政重修諸家譜』
江戸時代に成立した、幕府が各武家の由緒を調べてまとめ上げた『寛政重修諸家譜』という書物があります。
これによると、竹村道清という人物が大和国・竹内峠で家康を案内して後に褒美を貰ったと記されています。
後に竹村道清は石見銀山の奉行就任という出世を果たしていることからも、この記述にも信憑性があるとされているのです。
家康の感状の写し
他にも、大和国・筒井順慶の家臣と思われる和田織部という人物が家康の大和路を案内し、それに対する感状の写しが残っています。
これは写しではありますが史料的にも信憑性が高いとされています。
このように、二次史料ではありますが多くの史料で神君伊賀越え・大和ルートを示唆する記述が散見されるのです。
服部半蔵と伊賀忍者の証言
神君伊賀越えといえば、忘れてはならないのが伊賀忍者の存在です。
伊賀忍者や服部半蔵らの残した証言を見てみましょう。
服部半蔵
服部半蔵の死後に成立した書物ではありますが、前出の『寛政重修諸家譜』の服部家の由緒書に神君伊賀越えについての記述があります。
ここには「伊賀は服部家の本国なので家康を道案内することができた」というようなことが書かれています。
ただし、半蔵が伊賀を案内したということは書かれているものの、家康がそれ以前に宇治田原を通ったのか大和を通ったのかについては言及されていません。
伊賀忍者
伊賀忍者たちの証言も確認してみましょう。
江戸時代に成立したと見られる『伊賀者御由緒之覚書』には「穴山梅雪が大和で討たれた」と書かれています。
穴山梅雪は家康と行動を共にしていたとされているため、この記述が家康が大和を通った根拠の一つとなっているのです。
ただし、そもそも『伊賀者御由緒覚書』は史料としての信憑性が疑わしいことに加え、ここの記述には現在の地名と照合できない部分が多いため、読み取れる情報が少ないと言わざるを得ません。
戦国時代における忍者の活躍については、以下の記事で詳しく解説しているので、是非こちらも併せてご覧ください!
戦国時代の忍者はどんな存在だった?伊賀・甲賀・風魔・軒猿・黒脛巾組…
神君伊賀越え 両ルート説?
ここまで宇治田原ルート・大和ルートの2つの説をご紹介してきました。
史料に多く残っているのは大和ルートですが、宇治田原に現在も残る神君伊賀越え伝承の数々も看過できません。
一体どちらが正しいのでしょうか。
もしかすると、どちらの説も正しいのかもしれません。
ここからは家康が本能寺の変時に宿泊していた堺に残る史料から、実は家康は何手かに分かれて伊賀越えをしたのではないかという説を検証してみましょう。
『治要録』
堺の妙国寺に伝わる『治要録』には、「家康は商人に変装して大和路を、穴山梅雪は宇治田原を通って横死した」とあります。
つまり、彼らは堺から二手に分かれて三河を目指したということになります。
この説を採用すると、宇治田原に伝承が残っていながら大和を通ったことを示す史料も残っている矛盾が解決します。
NHK大河ドラマ「どうする家康」でもこの伊賀越えの様子が描かれていました。
第29回「伊賀を越えろ!」については以下の記事で詳しく解説しているので、気になる方は是非こちらも併せてご覧ください!
どうする家康・第29回『伊賀を越えろ!』服部半蔵は本当に役に立っていなかったのか?
穴山梅雪の死
ここからは穴山梅雪の死に焦点を当ててみましょう。
彼の死についても謎が多く、宇治田原で死んだ・大和で死んだ等の説がありはっきりとしたことは解っていません。
梅雪の死の情報が錯綜している理由として、家康が梅雪の死について後ろめたいことがあり、それを隠しているのではないかという解釈も存在するのです。
『家忠日記』 切腹?
家康の家臣・松平家忠の『家忠日記』という、家康と同時代を生きた人物による日記であり、家康研究において特に信用されている一次史料にも穴山梅雪の死に関する記述があります。
『家忠日記』によると、「穴山梅雪は切腹した」とは書かれていますが、肝心のどこで切腹したのかは書かれていません。
「切腹」という、これまで野盗か一揆に襲われて死亡したと言われてきた通説とは全く異なる死因にも関わらず、場所や理由が一切記述されていないため、余計に混乱を招く史料となってしまっています。
『三河物語』 別行動?
大久保彦左衛門の『三河物語』によると、「梅雪は家康を疑い、少し距離をとって行動していたところを盗賊に襲われた」とあります。
こちらも梅雪がどこで死んだという詳細な情報が欠落していますが、家康と梅雪が別行動をとっていたということは間違いなさそうです。
また、「家康を信じて一緒に行動しておけば良かったのに」というようなことが書かれていることからも、家康が梅雪を助けに行くことができないほど離れていた=全くの別ルートを通っていたという解釈も出来るのです。
穴山衆
このように、穴山梅雪の死については情報が錯綜しており、決め手に欠いているのが現状です。
しかし、事実として梅雪の遺臣たち「穴山衆」がすんなりと家康に帰属していることが挙げられます。
このことから、穴山衆は梅雪の死について、家康に対して何も疑念を抱くことが無かったと推察できます。
家康は何かを隠している?
ただし、穴山衆が家康を信用していたからと言って、家康が本当に梅雪の死に関与していなかったとも言い切れません。
彼の最期の情報が錯綜しているのは、家康が梅雪の死について後ろめたい気持ちがあったからなのではないか?という解釈も存在します。
家康は一行を二手に分け、梅雪を囮にすることで無事に三河に帰還を果たせたため、家康にとっては伊賀越えの詳細を人々に知られるのは都合が悪かったのではないかと考察されているのです。
一門衆筆頭の穴山梅雪については、以下の記事で詳しく解説しているので、是非こちらも併せてご覧ください!
赤備えの猛将「山県昌景」と野心溢れる智将「穴山梅雪」の因縁が深すぎる
【神君伊賀越え】家康は何かを隠している?謎だらけの伊賀越えの真相│まとめ
以上のように、各地に残る伝承や一次史料・二次史料に至るまで非常に多くの見解が存在し、神君伊賀越えの真相は闇に包まれていると言わざるを得ません。
今後の研究の進展に期待するばかりですね。
▼主な参考文献