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上杉謙信は本当は女性だった?女性説の起源や根拠、エピソードまとめ
義に生きる武将として、戦国時代に名を馳せた上杉謙信。
敗戦した戦が極端に少なく、あの「織田信長」を打倒出来るのでは?と期待されていた上杉謙信ですが、「上杉謙信が実は女性だった」という説があります。
「上杉謙信は女性であった」という話は歴史好きの中では有名な話として語り継がれていますが、なぜ現代までそのような逸話が続いているのでしょうか?
この記事では、令和まで続く「上杉謙信が実は女性だった」の真相を、起源や歴史的根拠を交えて徹底解説していきたいと思います。
上杉謙信がどんな戦国武将だったのかも合わせてご紹介するので、上杉謙信のことをもっと知ってみたいという方は、是非最後までご覧ください。
この記事によって、ご自身が思う上杉謙信という人物をあらためて振り返るきっかけになったら嬉しいです。
目次
上杉謙信はどんな戦国武将だった?
上杉謙信は、今の新潟県に位置する「越後」出身の戦国武将で、当時越後を統一していた長尾為景の次男で、旧名は長尾景虎(ながおかえげとら)という武将でした。
越後を統一していた為景が亡くなった後、長男の長尾晴景が長尾家を継ぎましたが、病弱気味だった晴景が父と同じように越後を統一するのは難しく、越後は昔のように内乱だらけになってしまいました。
その時に目をつけたのが長尾家の次男である長尾景虎、のちの上杉謙信でした。景虎は小さい頃から戦の戦術を練ったりすることが好きだったという話が広がり、晴景より景虎の方がいいのでは?と周りの後押しもあり、晴景に変わって長尾家を継ぐことになりました。
おかげで内乱だらけの越後は景虎によって再度統一され、無事に内乱を止めることが出来ました。
22歳という若さで越後を統一したわけですから、上杉謙信の武将としての強さが既に頭角を現していたとも言えますね。
上杉謙信とは|①義に生きた軍神
上杉謙信といえば「義に生きる」という言葉そのままの人生を送ってきた武将で、困った人を助けるような人物として有名です。
謙信は義理人情に厚く、「義」の意味合いである「人に対する思いやり」や「自分が信じる正しい行い」をする生き方をする、まさに「義に生きる人」です。
上杉謙信は、父である為景が兄の晴景に家督を譲ったあと、次男だった景虎を林泉寺というお寺へ預けて学問や教養を学ばせており、その時に出会った天室光育(てんしつこういく)という生涯の師との出会いによって、仏教を信仰しそこから義の心を育んだという経緯があります。
助けを求める人には積極的に手を差し伸べる人柄は、長尾家を継ぐ前の学問や教養で身についたのです。
上杉謙信とは|②武田信玄の永遠のライバル
上杉謙信の対になる戦国武将といえば、「武田信玄」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
武田信玄の永遠のライバルといえる上杉謙信ですが、武田信玄との戦いで1番有名なのは「川中島の戦い」です。
「川中島の戦い」は、当時の山梨県である「甲斐」の武将である「武田信玄」と新潟県である「越後」の武将である「上杉謙信」が、北信濃の領地を巡り争った5回に渡る合戦の総称で、12年も争い続けました。
「川中島の戦いといえば第4次合戦の戦い」と言われる程1番有名な合戦で、両軍とも多くの死傷者が出た大規模な合戦になったと言われています。
川中島の戦いは12年も続いたのにも関わらず勝敗がついていない伝説の合戦です。
上杉謙信とは|③多くの名言がある
上杉謙信には数多くの名言が残されており、今の時代でも人生の指標やモチベーションに繋がる名言や言葉をいくつかをご紹介します。
「運は天にあり、鎧は胸にあり」
「運」は天によって決められることで自分ではどうしようも無いことだけど、胸にある「心」は自分で磨くことが出来る鎧だ、という言葉です。
運は磨くことは出来ないけど中身は磨くことが出来るから、いつかは自分自身を守ってくれる鎧になるように努力することが大事ですね。
「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」
「絶対に死なない」という強い意思を持って戦を戦い抜けば生き抜くことが出来るけど、「死んじゃうかもしれない」という弱い意思が出てしまうとその戦では必ず死んじゃうよという意味合いのある言葉です。
気持ちの面で負けてしまっては良くないという名言で、どれだけ不利な状況でも、気持ちが上を向いていれば絶対上手くいくということですね。
「敵に塩を送る」
これは非常に有名な慣用句で、名言というよりは謙信の義に生きるという行動が全面に出た言葉です。
この言葉は、ライバルや敵のピンチの時に弱みにつけこんで攻撃を仕掛けるのではなく、むしろ助けるという意味で使われることがあります。
上杉謙信の宿敵である武田信玄が、塩の供給を止められて弱っていた時に、バチバチに争っていたはずの上杉謙信だけが、武田信玄に塩を送ったという義に生きる上杉謙信らしい逸話からこの慣用句が作られたと言われています。
上杉謙信は無類のお酒好き?
上杉謙信は無類のお酒好きだったと言われており、梅干しを肴にしてお酒をよく飲んでいたとされています。
1人で飲むのが好きな謙信は、梅干しをつまみながら静かにお酒を飲んでいることが多かったそうですが、親しい家臣達とは楽しくお酒を飲んでいたのでしょう。
当時家臣達と次の出陣のために酒宴を開いていた際に、手洗いに行こうと立ち上がった瞬間に倒れ、目を覚ますことが無かったという死亡説があります。
死因は脳出血で、謙信が亡くなったとされる4月の越後はまだまだ肌寒かったはずなので、お酒によって開いた血管が寒さによって収縮して脳出血を起こしたのではと考えられています。
謙信は仏教の戒律を忠実に守っていたためか、血管を強くするお肉などを口にしなかったのも脳出血で亡くなる原因だったのかもしれません。
上杉謙信は実は女性だった?!
ここからは実際に謙信が女性だったのではないか、という説を解説していきます。
義に生きる上杉謙信の優しすぎる生き様から既に女性らしいという声もありますが、それ以外の根拠をご紹介していきます。
上杉謙信は女性だった説|①女性である事を隠していた?
上杉謙信の肖像画と言えば、ひげを拵えた男性らしい所をこれでもかと盛り込んだ肖像画が有名ですが、他の戦国武将の肖像画といえば、ひげが無いか、あるいは綺麗に整えられているひげが描かれていることが多いです。
他の武将のひげはあまり違和感なく描かれているのに、上杉謙信の肖像画は1番にひげに目がいくくらい勇ましく描かれているのは、女性であることを隠すためにあえて男性らしさを表現する肖像画を描いたのではと推測されています。
この肖像画は江戸時代に入ってから作られたもので、謙信が生きているうちに描かれたものではないため、謙信の本当の姿かと言われたら違うのかもしれません。
実際の謙信は無精ひげを生やした男性ではなく、優しい雰囲気の穏やかな人物だったとされています。
また、筆跡も女性らしい綺麗な字であったり、恋愛小説を好んで読んでいたという観点から、もしかしたら女性だったのでは?という憶測が飛び交うようになりました。
また、他にも越後の民謡である瞽女唄(ごぜうた)の中に「男もおよばぬ怪力無双」と上杉謙信のことを歌った物があったそうです。
「男もおよばぬ」と歌われていることから、本当は女性なのでは?と上杉謙信の女性説に拍車がかかったようです。
上杉謙信は女性だった説|②生涯独身だった
上杉謙信は「生涯不犯」という、「一生涯に渡って男女の交わりをしない」という誓いをたてていたため、結婚もしなかった上に子供もいませんでした。
女性を寄せ付けず結婚もしなかった上杉謙信は、もしかしたら女性だったのでは…?と考えるのも無理はありませんね。
上杉謙信の生涯不犯については様々な説がありますが、女性だったら生涯不犯を貫くことが出来たのも納得できます。
上杉謙信女性説の起源は小説?
1番最初に上杉謙信が女性だったのでは?と唱えた人物は「八切止夫」という歴史小説家です。
八切止夫さんの小説を皮切りに、女性説がまことしやかに広まっていくことになりました。
これから、八切止夫さんがどういった根拠で上杉謙信を女性だと世に広めていったのかをご紹介します。
上杉景勝の叔母?
八切止夫さんは、スペインで発見された日本の報告書に「上杉景勝の叔母」とかかれている所を「上杉謙信」だと解釈し、女性説を唱えています。
上杉景勝は上杉謙信の甥っ子で、「この報告書を書いた人物が上杉謙信のことを叔母だと記したのでは」と八切止夫は考えました。
単なる書き間違いかもしれませんが、大事な報告書に書き間違いをするのかと言われたら違うような気もしますね。
毎月の腹痛があった
上杉謙信には「毎月決まった日に腹痛があった」と八切止夫は伝えており、毎月来る腹痛に襲われた場合、戦の最中でも部屋に引き籠っていたくらい激しい腹痛だったそうです。
「毎月決まった日に腹痛があった」と言われたら女性特有の月経が思い浮かびますよね。
また、松平忠明という徳川家康の外孫だとされていている人物が書いた「当代記」という文書には、上杉謙信は大虫で亡くなったと書かれています。
八切止夫によると「大虫」は月経の隠語だとされていますが、実際には腹痛全般を指すようです。
月経が直接的な死因になることはあまりないと言われていますが、決まった日に腹痛が起きるというのは月経による症状と似ているので、一概にそうではないと言い切れない気もします。
とはいえ上杉謙信の女性説には不確かな情報が多い
ここまで上杉謙信が本当は女性だったのではないかという根拠をご紹介しましたが、上杉謙信が女性だとされている情報は、実は信憑性に欠ける物が多いです。
女性だと考える事柄にはそれを覆す裏付けもあります。
ここからは、上杉謙信の女性説を覆す内容をご紹介します。
女性説が不確かな理由|①戦国時代は男色を好む時代
かつての戦国時代は男色を好んでいた武将が多かったと言われています。
長く続く戦場に女性がいなかったことから当時は男色が多かったようですが、上杉謙信も男色を好むうちの1人だったと言われています。
女性を寄せ付けなかったと伝えられていますが、男色を好み、女性に対してそういった感情が湧かなかったため女性と関わることが無かったのでは?と推測することも出来ますよね。
女性説が不確かな理由|②宗教戒律があったから
上杉謙信が生涯不犯を貫いた理由の1つとして、「謙信が信仰していた仏教の宗教戒律があったからではないのか」と言われています。
仏教の教えである「不邪淫」という教えを守ったが故に、生涯不犯を貫いたとも考えられます。
信仰深い上杉謙信は、毘沙門天の加護を信じて戦を勝ち抜いてきたため、宗教戒律を忠実に守っていたのではないかと思われます。
女性説が不確かな理由|③名代家督を守るため
上杉謙信の女性説を覆す1番の有力説は「名代家督を守るため」だと考えられます。
長尾家を継いだ上杉謙信こと景虎は、前当主の兄である晴景の嫡男が成長するまでの「中継ぎ」の当主だったと言われています。
中継ぎ当主の謙信が妻をめとり、謙信の実子が生まれた場合に当主の交代が難しくなるため、謙信は生涯不犯を実行したのではないかと推測されます。
また、生涯不犯は「結婚をしない」という誓いだけであり、女性と交わらないという誓いではなかったとされています。
そのため、結婚をして子供を出産するという行為をしなかっただけで、女性とはある程度の関わりはあったのではないか?と考えられています。
女性説が不確かな理由|④上杉謙信にはかつて愛していた女性がいた
上杉謙信には、かつて愛していた女性がいたとされています。
謙信がかつて愛した女性は「伊勢姫」という女性で、謙信が侵略した当時の群馬県である「上野国」の領主が人質として謙信に差し出した娘だといいます。
謙信は伊勢姫を気に入り傍に置こうとしましたが、家臣である景家の「敵国の女性に恋心を抱いてはいけない」という忠告のもと、伊勢姫を諦めたという逸話があります。
伊勢姫が亡くなったということを知った謙信はショックで体調を崩した程伊勢姫を愛していたそうで、これ以来謙信は生涯不犯を貫いたと言われています。
人生で1人の女性だけを愛したということも、謙信だったらありそうですよね。
上杉謙信は本当は女性?起源や根拠を解説|まとめ
上杉謙信が本当は女性だったという説は、「八切止夫」が起源とされており、以来上杉謙信が女性として登場する漫画やゲームも登場している程メジャーになってきました。
しかし、上杉謙信が女性だという説は不確かな点が多くあるため、一概に「本当は女性だった!」と断言することは難しいです。
ただ、独自で解釈をしながら上杉謙信という人物を知っていくことが歴史の面白い所ですよね。
上杉謙信のミステリアスな所が想像力を掻き立てられ、各々の信じる「上杉謙信」という人物を作り上げることが出来る点が、謙信の魅力を引き出しているのだと感じました。
この記事では「名代家督を守るため」という説が上杉謙信が生涯不犯を貫いた理由の1つとして1番有力だと解説しましたが、今となっては歴史的文献が見つかったり、過去に戻らない限り本当のことを明かすのは難しいです。
上杉謙信が女性だったのか否か、それはあなた次第なのかもしれませんね。