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『三方ヶ原の戦い』を地図や陣形を使ってわかりやすく解説!
徳川家康(とくがわいえやす)と武田信玄(たけだしんげん)が激戦を繰り広げた「三方ヶ原の戦い」。
家康の生涯最大の敗戦として有名で、家康の人生におけるターニングポイントとも言える戦です。
しかし、三方ヶ原の戦いについては数々の逸話が残る一方で、その詳細がよくわかっていないのも事実です。
今回は三方ヶ原の戦いが起きるまでの過程から、合戦の詳細な経過などについて解説していきます。
地図や陣形を使って両軍の動きをわかりやすく説明していくので、三方ヶ原の戦いの戦闘に興味がある人はぜひ読んでみてください。
目次
三方ヶ原の戦いはなぜ起きた?地図を使いながら説明
まずは三方ヶ原の戦いが起きた原因について迫っていきましょう。
徳川家康と武田信玄が戦う羽目になったのは「憎しみ」が原因です。
三方ヶ原の戦いに至るまでにはさまざまな外交や政治の駆け引きがありました。
今回は、地図を使いながら両者がなぜ憎しみ合い戦うことになったのか解説していきます。
ここを知ることで、三方ヶ原の戦いがもっと面白くなるかもしれません。
始まりは対今川戦から
徳川と武田が対立した原因は対今川戦にまで遡ります。
今川義元(いまがわよしもと)の死から今川家の当主は今川氏真(いまがわうじざね)に変わりましたが、氏真が領地をまとめられないことで今川家は弱体化していました。
そこで徳川と武田は今川を挟撃して滅ぼそうと駿河に侵攻したのです。
さらに両者は今川家滅亡後の駿河について、地図のように大井川の西を徳川領、東を武田領とする川切りの協定を結んで合意したと言われています。
しかし、信玄は協定に反して大井川を越えて侵攻しました。
これに対して家康は異を唱えますが、信玄は境の「川」を「天竜川だと思った」と言い出します。
悪化していく徳川と武田の関係
このように徳川と武田の関係が悪化する一方、今川氏真は懸川城でしぶとく攻撃に耐えており、今川家と同盟していた北条氏康(ほうじょううじやす)も武田に攻撃を仕掛けます。
信玄にとって北条の動きは想定より早く、背後の北条に目を向けながら今川を攻めることは避けたかったため、信玄は甲府に撤退しました。
一方、家康はこの隙に今川との和睦を成立させて懸川城を開城し、北条との和睦にも成功します。
実は家康のこの動きは信玄との約束に反しており、信玄をさらに怒らせて徳川と武田の関係はさらに悪化していきました。
家康と信玄の約束
・今川と和睦しない
・北条と和睦しない
・今川氏真は殺せ
ちなみに当時の信玄は家康を織田信長(おだのぶなが)の子分と見下しており、信玄は信長に家康への対応を求めます。
しかし、当時の織田と徳川の関係は一応対等であり、信長としても京で将軍の補佐に奔走していたため、信玄の話をうやむやにしてしまいした。
駿河へ再び侵攻する信玄
信玄は北条が制圧していた駿府へ再び侵攻して奪還します。
これに対して家康は浜松城を築城して信玄に備える一方、京の二条城落成や姉川の戦いなどに参加しており、緊張感はありつつも戦が勃発するまでには至っていませんでした。
浜松城とは?
元亀元年(1570年)に家康が対武田の拠点として築城。
江戸時代には幕府の要職に就いた城主が多く、「出世城」とも言われています。
また、家康は越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と三越同盟を結び、北条も上杉と越相同盟を結んだことで信玄は孤立します。
状況が好転し信玄は軍備や外交を強化
北条氏康の死から北条氏政(ほうじょううじまさ)の代になると、信玄の状況は一変します。
氏政は能登や越中の戦いで武田を攻めない謙信にしびれを切らし、上杉と手を切って武田と再同盟したのです。
状況が好転した信玄は領国内から兵を大規模に募集し、志願者の人足普請や隠田非課税などを免除するなど、着々と軍備を進めました。
また、信長の息子・織田信忠(おだのぶただ)と娘の松姫を婚姻させて、織田家との関係も強化します。
当時の信玄は信長との良好な関係を持ちつつ北条と手を組むことで、徳川と上杉をけん制する狙いがあったのかもしれません。
戦国最強と呼ばれる武田信玄の軍略については、以下の記事で詳しく解説しています。是非こちらも併せてご覧ください。
『戦国最強』武田信玄|将軍も騙された恐ろしすぎる軍略
信玄の駿河・遠江侵攻を地図で解説
織田との関係強化を進めた信玄でしたが、元亀3年(1572年)に突如織田領への侵攻を開始しました。
これには当時信長と対立していた本願寺顕如から支援を求める声があったほか、比叡山延暦寺の焼き討ちが原因と言われています。
信玄の書状には「三ヶ年之鬱憤を散じる」とあり、その怒りは相当大きいものだったのでしょう。
ここからは地図を使いながら、三方ヶ原の戦いにつながる信玄の駿河・遠江への侵攻を解説していきます。
猛スピードで侵攻する信玄
信玄は猛スピードで遠江に侵攻し、地図のように天野氏・小笠原氏・奥山氏・菅沼氏・奥平氏が次々と武田に寝返りました。
天竜川を越えた先にある久野城と懸川城が武田軍の猛攻に耐える中、家康は2つの城を救うべく三河から出陣し、天竜川の「池田の渡し」を越えて久野城の目前にある見付に布陣。
城を攻める武田軍に攻撃を仕掛けますが、惨敗してしまいます。
ここでは本多忠勝(ほんだただかつ)が徳川軍を包囲しようとする武田軍の動きを察知し、撤退を進言して天竜川を越えた先まで退きました。
武田軍の追撃は家康の予想を上回るスピードでしたが、一言坂での忠勝の奮戦で家康は無事に天竜川を越えられます。
ちなみにこのとき武田軍が忠勝の活躍を「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八」と褒めたたえた話は有名ですよね。
二俣城攻略を目指す武田軍
武田軍は家康を追撃しますが、池田の渡しを管理している人が徳川について船を隠したため、武田軍は天竜川を渡れませんでした。
信玄は別働隊の秋山虎繁(あきやまとらしげ)や山県昌景(やまがたまさかげ)らに、天竜川の上流にある二俣城の攻略を命じますが、二俣城は2つの川に挟まれた天然の要害で苦戦を強いられます。
しかし、山県昌景は二俣城が井楼という櫓で川から水を汲んでいることに気づき、天竜川の上流から筏を大量に流して井楼を破壊しました。
水が飲めなくなって窮地に追い込まれた二俣城はついに開城し、武田軍は北から浜松城に迫ったのです。
浜松城を目前に信玄は急に方向転換
通説では浜松城を目前にした信玄は三方ヶ原に方向転換して家康を無視した行動を取り、これに対し激怒した家康が城から出撃したという話が有名です。
しかし、家康が出撃したのはこのような単純な理由ではなく、久野城や懸川城で戦っている兵士の士気を落とさないためであり、家臣も反対はしていませんでした。
さらに家康は地図のように武田軍が台地の三方ヶ原を降りて祝田に向かうと推測し、台地の上から武田軍を急襲する狙いがあったという説もあるのです。
一方の信玄は家康の予想に反して祝田に向かわず、浜名湖に面した堀江城に向かいました。
家康は家臣たちから武田軍を追撃しないように諫言を受けますが、それに従わず堀江城の救出に向かい三方ヶ原の戦いが始まったと伝わっています。
なぜ家康は堀江城を救出しようしたのか?
家康はなぜ家臣の諫言を退けてまで堀江城の救出に向かったのでしょうか?
そこには武田水軍の存在が関係しています。
武田軍は駿府制圧後、今川支配下の駿河水軍を支配下に置いて武田水軍に再編成しました。
この水軍が海から浜名湖や三河湾に進軍した記録があり、武田は完全に制海権を掌握していたのです。
水運を頼りにしている浜松城は浜名湖を抑えられると補給ができないため、家康はなんとしても堀江城を死守する必要があり、武田軍との無謀な戦いに挑みました。
徳川家康の生涯を一気に解説した記事もございますので、こちらも併せてご覧ください。
徳川家康の生涯を1歳~75歳までをわかりやすく一気に解説!
地図から三方ヶ原の戦いの実態に迫る
三方ヶ原の戦いは家康の合戦でも特に有名ですが、戦場となった三方ヶ原の場所は現在もはっきりとわかってはいません。
いくつか説はありますが、どれも三方ヶ原と断定できるまでには至っていないのです。
ここでは三方ヶ原の戦いの本戦に入る前に、両軍の戦力や諸説ある三方ヶ原の場所について説明していきます。
織田・徳川と武田、両軍の戦力は?
三方ヶ原の戦いでは家康を守る本隊に本多忠勝や榊原康政を配置し、石川数正(いしかわかずまさ)と酒井忠次(さかいただつぐ)はそれぞれ部隊を率いていました。
これらを合わせた徳川軍の総数は8千と言われています。
また、織田からは家康の伯父・水野信元(みずののぶもと)や佐久間信盛(さくまのぶもり)、平手汎秀(ひらてひろひで)の3人が、約3千の部隊を率いて援軍に駆け付けました。
織田の援軍は一見少なそうにも見えますが、当時の信長は浅井・朝倉や本願寺と戦っており、現状で出せる精一杯の数だったのかもしれません。
対する武田は2万を超える軍勢に北条の援軍も加わり、織田・徳川連合軍を遥かに上回る3万の軍勢を率いていたと伝わっています。
さらに武将も武田家中で有名な家臣たちが名を連ねていました。
三方ヶ原の戦いに参戦した武田軍武将
・小山田信茂(おやまだのぶしげ)
・山県昌景(やまがたまさかげ)
・武田勝頼(たけだかつより)
・穴山信君(あなやまのぶただ)
・内藤昌秀(ないとうまさひで)
・春日虎綱(かすがとらつな)
・原昌胤(はらまさたね)
・馬場信春(ばばのぶはる)
・甘利信康(あまりのぶやす)
・土屋昌続(つちやまさつぐ)
・小幡信真(おばたのぶざね)
徳川家康に仕えた「徳川十六神将」の記事はこちら↓
徳川十六神将を徹底解説!家康を支えた家臣団の名前一覧
三方ヶ原はどこなのか?
三方ヶ原の戦いが起きた場所としては、主に地図上に示した4つの地域が挙げられています。
・小豆餅(あずきもち)
・根洗(ねあらい)
・大柴原(おおしばはら)
・大谷(おおたに)
このうち小豆餅は付近に徳川軍を祀ったと言われる「千人塚」がありますが、これは最近の発掘で5世紀ごろの古墳とわかり今は否定されています。
通説として有力な根洗は家康が予想した武田軍の進路にありますが、武田軍が堀江城に方向転換したとすれば信憑性は低いでしょう。
大柴原は三方ヶ原の戦いに関連する塚が多いですが確実なものはなく、浜松城とも近いため三河物語の北上する武田軍を追撃したという記述とも合致しません。
一方、大谷は精鎮塚やオンコロ様などの三方ヶ原の戦いの戦死者を祀るものがあり、堀江城の方角とも一致しているため、信憑性が高いそうです。
ちなみに小豆餅は家康が敗走中に小豆餅を食べて休んだ場所と言われており、その付近には家康が慌てて逃げて餅の代金を払い忘れた伝承から「銭取」という地名もあります。
地名として言い伝えが残るということは、それだけ三方ヶ原の戦いが現地の人にとって衝撃的だったのかもしれません。
陣形や地図を使い合戦の経過を解説
ここからは三方ヶ原の戦いについて、陣形や地図を使いながら詳細な経過に迫っていきましょう。
家康が信玄に惨敗したことが有名ですが、徳川軍が武田軍に善戦した記録も残っています。
両軍の陣形や戦略の詳細を知ることで、三方ヶ原の戦いの実態により近づくことができるかもしれません。
徳川が鶴翼、武田は魚鱗の陣形で激突
武田軍より軍勢が少ない徳川軍ですが、三方ヶ原の戦いでは敵を囲むような陣形の鶴翼の陣で武田軍を攻撃しました。
これに対して武田軍の陣形は魚鱗の陣で徳川軍を迎え撃った話が有名でしょう。
一方、三方ヶ原の戦いは両軍の陣形だけではなく、徳川軍が善戦した記録も残っています。
甲陽軍鑑には本多忠勝と榊原康政が山県隊の陣形を総崩れにしたと記されており、他にも家康の旗本たちが信玄の本陣にまで切り込んだ話も伝わっているのです。
信玄の側近・土屋昌続が鳥居四郎左衛門(とりいしろうざえもん)を討ち取った記録が甲陽軍鑑にあり、徳川軍が武田の本陣に迫ったことは事実に近いかもしれません。
一方、信玄も黙っているわけではなく、小荷駄隊の甘利信康に攻撃を命じて徳川軍の意表を突きました。
小荷駄隊
兵糧や弾薬、資材などを運ぶ補給部隊。
また、家康が撤退中に脱糞した話は有名ですが、これは後世の創作と言われています。
同時代や江戸時代の史料には記録がなく、江戸時代後期の「三河後風土記」という謎の史料に記録が残っているのみで、この部分が切り取られて後世のドラマや小説で描かれていきました。
犀ヶ崖では夜営中の武田軍を急襲
家康は撤退後も果敢に武田軍への逆襲を仕掛けています。
特に大久保忠世(おおくぼただよ)が犀ヶ崖で夜営している武田軍を急襲した話が有名で、このとき忠世は夜陰に紛れて100余りの鉄砲衆で武田軍に釣瓶打ちを仕掛けました。
このように徳川軍が夜襲に成功したのは、浜松城一帯の地理を把握していたからかもしれません。
ちなみにこのとき武田軍は浜松城を落城させるかどうかの軍議を行っており、織田や北条、上杉の動きを警戒した春日虎綱の提案で、浜松城の総攻撃をしなかったと伝わっています。
家康は多くの武将と兵を失う
武田軍は有名な武将が戦死していませんが、徳川軍は2千人と多くの戦死者を出したと伝わっています。
徳川方にも家康が討ち取られた誤報が流れたという記録が残っており、それだけ現場は混乱していたのでしょう。
また、武将では浜松城にいた夏目広次(なつめひろつぐ)が家康敗走の知らせを聞いて出陣し、家康の盾となって死んだと伝わっています。
本多忠勝の伯父である本多忠真(ほんだただざね)は、三方ヶ原の戦いで殿を務めて討ち死にしました。
織田軍では平手汎秀が家康からの挨拶がなかったことを恨んで突撃し、玉砕したと伝わっています。
一方、水野信元はすぐに合戦から逃亡して岡崎まで撤退しました。
以下の記事では武田信玄の死因や名言など詳しく解説しております。是非こちらも併せてご覧ください。
武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説
『三方ヶ原の戦い』を地図や陣形を使って解説|まとめ
今回は地図や陣形を使いながら、三方ヶ原の戦いが起きた経緯や合戦の詳細について解説しました。
三方ヶ原の戦いは家康の若さから信玄に惨敗したと言われていますが、家康も事情があって信玄に挑み、徳川軍も善戦したことがわかったのではないでしょうか。
また、三方ヶ原の戦いに至るまで、複雑な政治や外交の駆け引きがあったことも興味深いですよね。
合戦の史料が不足してまだ不明な部分も多くありますが、研究が進めば三方ヶ原の戦いの真相に近づけるかもしれません。
今後も新たな史料の発見などに期待しましょう。