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『今川氏滅亡』氏真は無能だったのか?恐るべき武田信玄、頼りにならない上杉謙信
桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、領主・今川義元を失った今川氏。
跡を継いだのは義元の息子である氏真ですが、この氏真の代で戦国大名としての今川氏は滅亡してしまいます。
今川氏滅亡の要因は、氏真が無能だったからというイメージが持たれておりますが、果たして本当にそうだったのでしょうか?
こちらの記事では、今川氏の滅亡までの経緯と氏真が本当に無能だったのかを検証していきます。
目次
今川氏滅亡の原因・遠州忩劇
桶狭間の戦い後、徳川家康が今川氏に反旗を翻しますが、遠江でもたくさんの国衆が今川氏から離反しました。
これは遠州忩劇とも呼ばれ、今川氏滅亡の原因の一つともなっています。
忩劇はひどく混乱している様子を意味しますが、具体的に遠州忩劇とはどのようなものだったのでしょうか。
家康に内通した井伊直親
遠州忩劇の始まりとされるのが、1562年の家康と井伊直親の内通です。
井伊家は井伊谷という地の国衆で今川家に仕えておりましたが、桶狭間の戦いで直親の養父である井伊直盛が戦死しました。
直親は井伊家生き残りのために家康と内通を始めますが、これが今川方に発覚し、氏真に誅殺されてしまいます。
なお、この直親誅殺は大河ドラマなどでもよく描かれますが、一次資料はなく井伊家の伝承によるもので、直親の離反については現在も研究が進められており、遠州忩劇に括るべきかどうかも議論がされています。
飯尾連龍の離反と粛清
井伊直親の裏切りに誅殺という形で対処した氏真でしたが、離反はこれだけでは終わりません。
1563年には、今川氏に仕えていた引間城主・飯尾連龍が今川家臣の岡部元信に攻撃を仕掛けました。
連龍はこの頃、家康と対面したという記録が残っており、氏真から家康に鞍替えしたと考えられます。
連龍にも裏切られた氏真ですが、1564年に赦免という形で連龍と和睦しました。
氏真は抵抗勢力を粛清するだけでなく、あえて許すことで懐の深いところも見せながら、無駄な戦を避けつつ、遠州忩劇を平定しようとしていたようです。
しかし、1565年に氏真は連龍を駿府に呼び寄せて誅殺しました。
こちらの事件に関する一次資料はありませんが、おそらく赦免され今川氏の武将に戻った連龍がまた不穏な動きを見せ始めた、あるいは氏真が連龍に対して疑心暗鬼になっていたなどが考えられます。
なお、連龍亡き後も連龍の家臣であった江間氏は家康と結び、今川氏と対立していきました。
各地で起きるクーデターと武田信玄の調略
反乱は他にも起きました。
遠江の山奥の方を拠点にしていた天野氏や奥山氏といった国衆も謀反を起こしたという記録が残っています。
ただし、天野氏と奥山氏の反乱は今川氏に対してというよりは一族内の跡継ぎ争いという様相が強く、遠州忩劇の混乱に乗じて跡継ぎの芽がない一派の人達がクーデターを起こし、戦になったものと言われています。
この反乱はそれぞれ今川派と反今川派という図式で行われましたが、最終的には勝った方がそれぞれ今川氏の配下となり、反今川派は今川氏によって鎮圧されました。
また、二俣城主の松井氏や今川御一家である堀越氏は、武田信玄の誘いに乗る形で今川氏から離反しています。
当時はまだ今川氏と同盟関係にあった武田氏ですが、遠江の国衆に対して調略を巡らせていたのです。
このように今川からの独立を明確にした家康や信玄の策略などの影響もあり、今川氏を裏切る国衆が続出したため、今川氏は満身創痍となっていきました。
領国の危機の中での関東出兵
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、三河では徳川家康が独立、遠江では遠州忩劇が起きている中、氏真は関東に兵を送っています。
自身の領国が危機に陥っているにも関わらず、なぜ氏真は兵を送らなければいけなかったのでしょうか?
それには当時の今川氏や氏真の立場が関係していました。
上杉謙信の関東侵攻
桶狭間の戦いが起きた頃、関東管領の上杉氏から依頼を受けた上杉謙信が関東に攻め込みました。
北条氏の台頭により領土を奪われていた上杉氏は、越後の長尾景虎(上杉謙信)に上杉の名前と関東管領の役職を譲り、北条氏を倒してもらおうとします。
これを了承した謙信は北条氏を攻めるために関東にやってきたのです。
三国同盟と若い氏真
今川氏は北条氏、武田氏と三国同盟を結んでおり、氏真は謙信から侵攻を受けている北条を助ける必要がありました。
そのため氏真は自身の領地が危機的状況であるにも関わらず、同盟を遵守して北条に援軍を送ったのです。
氏真が兵を送った詳しい理由はわかっておりませんが、北条氏康や武田信玄は氏真にとっては父親の世代に近いため、気を遣っていたのかもしれません。
また、後々のことも考えて北条に借りを作っておきたかったということも考えられます。
この時はまだ若かった氏真ですが、非常に高度な政治的判断が求められていたのです。
今川氏真の地道な領国経営
四方八方で問題を抱えていた氏真ですが、そんな中でも彼は逃げずに駿河・遠江の領国経営を行っておりました。
政を放り出して、蹴鞠などの貴族文化に耽っていた暗君というイメージもある氏真ですが、果たしてどのような領国経営を行っていたのでしょうか?
井伊谷の徳政令
氏真が行った政策の中でも有名なのが井伊谷の徳政令です。
当時、井伊領内の農民達は相次ぐ戦の影響もあり困窮していました。
氏真はそんな農民達を救うため、借金を帳消しにする徳政令を発布しました。
『おんな城主 直虎』でもこの井伊谷の徳政令は描かれていますが、詳しい内容については現在も研究が進められています。
楽市による商業振興
氏真は商人が自由に営業できる楽市を実施して商業振興を行ったと記録されています。
楽市と言えば、織田信長の楽市・楽座が有名ですが、氏真は信長よりも1年早くこの楽市を行っていました。
厳密には近江の六角氏が最初に楽市政策を始めたとも言われておりますが、氏真は政治的なアンテナを張りつつ、のちに評価されるような政策も取り入れたのです。
用水問題の解決
氏真は水の足りない地域に井戸を作ったり、川の氾濫が起きないように堤防を作るなど、用水問題にも着手しておりました。
用水と言えば武田信玄が得意としているイメージがありますが、氏真も同じように用水問題を解決していたのです。
このように信長や信玄が評価されるような政策を氏真も行っていたことを考えると、彼が決して無能ではなかったことが見えてくるのではないでしょうか。
今川氏真の後半生について詳しく解説している記事もございますので、こちらも併せてご覧ください。
『今川氏真』長篠の戦にも参戦!?旧領復帰を諦めなかった「ばかなる大将」
武田信玄の駿河侵攻と今川氏の滅亡
地道に領国経営を行っていた氏真でしたが、戦国大名としての今川氏は残念ながら滅びることとなります。
その最大の要因となったのは武田信玄の駿河侵攻です。
なぜ同盟関係にあった武田氏は駿河を攻めてきたのでしょうか?
ここからは武田信玄の駿河侵攻と今川氏の滅亡までを解説していきます。
武田・織田の同盟と義理の兄弟・義信の幽閉
遠州忩劇や謙信の関東侵攻など大変なことが立て続けに起きる中で、武田信玄も不穏な動きを見せ始めます。
なんと織田信長と同盟を結んだのです。
境界に美濃が接する領地をお互いに持つ信玄と信長はこの時利害が一致しており、信長の養女が信玄の四男・武田勝頼と結婚することとなりました。
これに対して不満を持ったのが、信玄の嫡男・義信です。
義信は氏真の妹を妻にしており、義理の父・義元の仇である信長と手を結ぶことに納得がいきませんでした。
義信は自身の家来と示し合わせて、信玄に対して謀反を起こそうとしますが、この企ては失敗して義信は幽閉されることとなります。
謙信との内通から今川上杉同盟へ
同盟を結んでいるものの、遠州忩劇の際に家臣を調略したり、親の仇である信長と手を結び、義理の兄弟である義信を幽閉したりなど、氏真にとって信玄は信頼できる同盟相手ではありませんでした。
そこで氏真は、同盟を結んだ状態ではありますが、信玄が攻めてきた時のために上杉謙信と内通を始めます。
なお、このタイミングで氏真は武田領内への塩留を行っております。
甲斐・信濃は海がなく、塩は同盟相手である今川からの輸入に頼っていたため、この塩留は武田にとって死活問題でした。
ちなみにこの状況を見た謙信は、武田の領国の人達を救うために塩を送ったと言われており、これが「敵に塩を送る」ということわざの語源と言われています。
このような今川と武田の危うい関係性の中で、義信の自害という事件が起きました。
義信の死により、信長の娘と結婚している勝頼が信玄の跡継ぎにほぼ確定したため、今川にとってはいよいよ看過できない状況となりました。
そこで氏真は謙信と正式に同盟を結び、武田との戦いに備えていきます。
なお、信玄の方もこの時すでに今川を攻めるための密約を三河の徳川家康と結んでおりました。
謙信の越中侵攻と信玄の駿河侵攻
今川と武田の間に緊張が走る中、動きを見せたのは謙信です。
しかし、謙信が動いた先は武田のいる甲斐・信濃ではなく越中でした。
多くの武将から頼りにされていた謙信は、越中にも問題を抱えていたのです。
しかし、氏真からすればこの謙信の越中侵攻は計算外でした。
信玄は謙信が攻めてくる心配のないこのタイミングで三国同盟を破棄し、駿河侵攻を開始します。
今川氏滅亡
信玄の駿河侵攻が始まると、今川家臣達は次々と信玄に寝返りました。
同盟を結んでいる謙信からの援軍はもちろんなく、あっという間に駿府は陥落してしまいました。
信玄は侵攻開始前から今川氏の配下の武将達に氏真を裏切るよう根回ししていたのです。
その後、氏真は命からがら懸川城に入りますが、そこに家康が攻めてきます。
懸川城の籠城戦では氏真も必死の抵抗を見せましたが、結局は信玄と家康の挟み撃ちにあい、戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
『今川氏滅亡』氏真は無能だったのか?恐るべき武田信玄、頼りにならない上杉謙信|まとめ
本能寺の変以降、みるみるうちに今川氏を滅亡させてしまった氏真。
結果だけ見ると偉大な父の跡を引き継ぐことができなかった暗君に見えますが、その実像を追っていくと、必死でもがきながら懸命に領地を治めようとしていたことがわかります。
氏真は武田信玄や上杉謙信といった大物達に振り回され、戦国時代という渦の中に飲み込まれるように没落していきました。
しかし、決して無能とは言えないだけに、時代や環境がほんの少し違っていれば、氏真は名君になれたかもしれませんね。
今川家のルーツに関しては以下の記事で詳しく解説しております。こちらも併せてご覧ください。
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