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どうする家康・33話『裏切り者』ネタバレ解説!信雄の単独講和、真田昌幸の軍略、石川数正の出奔
「どうする家康」33話『裏切り者』では、ついに家康の重臣・石川数正の出奔が描かれました。
物語後半の見せ場の一つとして期待されていたシーンでしたが、とても印象に残るものになりましたね。
また、「どうする家康」33話では、数正の出奔劇の他にも、歴史的に重要な出来事がいくつか描写されていました。
今回の記事では、ドラマで描かれなかったエピソードも交えて、「どうする家康」33話『裏切り者』をネタバレ解説をしたいと思います。
※本記事は史実解説のためネタバレを含む内容の可能性があります。予めご了承くださいませ
織田信雄の身勝手な単独講和
まず一人目の裏切り者と言ってもいいかもしれませんが、最初に描かれたのは織田信雄の単独講和でした。
周りを豊臣秀吉方に囲まれた信雄は、家康に断りなく単独で秀吉と講和を結んでしまいました。
この身勝手ともとれる信雄の行動ですが、彼なりに仕方ない事情もあったとされています。
まずは、ドラマでは描かれなかった信雄の単独講和の真意を深掘りしていきましょう。
9月6日 1度目の和睦交渉
長久手の戦いでの家康の大勝利の約5ヶ月後の9月6日、信雄・家康家臣らと秀吉との和睦交渉が行われていました。
一進一退の攻防が続く中、この和睦交渉は秀吉の側から打診があったものと言われています。
ただし、家康が秀吉との和睦を拒否したため、この交渉は決裂してしまいました。
9月16日 戸木城の陥落
1度目の和睦交渉の10日後の9月16日、秀吉方の武将・蒲生氏郷によって信雄の城である伊勢国・戸木城が攻略されました。
信雄の本拠地・清州城からほど近い戸木城の陥落は、信雄にとって精神的ダメージの大きなものであり、単独講和の要因になったとされています。
信雄にしてみれば、1回目の和睦交渉を拒んだ家康に対して「ほら見たことか!」と思ったのかもしれません。
11月11日 織田信雄がついに単独講和
このようにしてじわじわと信雄の周囲が秀吉方によって陥落していく中、家康も清須へと援軍を差し向けるなど信雄救済を計っていましたが、11月11日に信雄はついに秀吉と会見。
こうして信雄は秀吉と単独講和を結ぶことになったのです。
信雄は、一部の領地を秀吉に割譲した上、娘を人質として秀吉に差し出しました。
織田信雄の生涯については、以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
天下人の息子『織田信雄』戦国乱世を生き抜いた異能生存体。家系図も紹介!
11月20日 豊臣秀吉が従三位権大納言に
11月20日、秀吉は朝廷から「従三位 権大納言」に任じられました。
これは、信雄の「正五位下 左近衛中将」を上回るものであり、名実ともに秀吉が信雄よりも上に立つ立場となったのです。
戦国時代といえば実力主義というイメージがあるかもしれませんが、朝廷がお墨付きを与える公的な官職も大きな意味を持っていたのです。
豊臣秀吉の攻勢
秀吉は、このように巧みに朝廷工作をし、後に関白という貴族のトップの官職にまで上り詰めることになります。
ここからは、信雄・家康との戦いを終えた秀吉が、天下人となるに至る攻勢を見ていきましょう。
3月 紀州征伐で石川数正も同行
天正13年(1595)3月には「紀州征伐」と呼ばれる遠征を行い、雑賀衆・根来衆を殲滅することに成功しました。
ちなみに、この戦いの際に家康の次男・秀康が秀吉の陣中見舞いをしていますが、ここに石川数正も同行しています。
織田信長をも苦しめた雑賀衆・根来衆をもろともしない秀吉の強大な軍事力を目の当たりにした数正は、のちに秀吉との徹底抗戦を訴える徳川家中にあって、ただ一人真っ向から反対の立場を取ることになるのです。
6月 越中征伐
同年6月、秀吉は越中の佐々成政の攻略にも成功しています。
「どうする家康」33話では描かれませんでしたが、このタイミングで、秀吉は家康に対し追加の人質を要求しています。
成政と家康は秀吉との共闘を誓い合っていた間柄だったため、越中攻めの際に家康が成政に味方することを警戒したためです。
この人質要求を家康は拒否しますが、結局成政を助けることはありませんでした。
7月 関白就任
そして翌7月、秀吉は関白に就任しました。
「どうする家康」33話でも言われていたように、秀吉は天皇の次という非常に高いポジションに就き、征夷大将軍より立場が上となったのです。
俗説として、「秀吉は征夷大将軍になりたかったが、出自が卑しいため関白止まりだった」と言われることがありますが、関白は征夷大将軍よりも家柄の縛りが厳しい職のため、この言説は完全に誤りです。
豊臣秀吉がどのようにして関白にまでのし上がったのか、以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
秀吉はなぜ「豊臣」になったのか?関白就任までの流れを解説!
8月 四国征伐
翌8月には、秀吉は四国の長宗我部元親を降伏に追いやりました。
四国の統一が間近だった元親でしたが、ここで彼の領国は土佐一国となってしまいました。
ただし、北条のように完全に滅ぼされたわけではないため、土佐一国を安堵されただけでも高待遇だったと言えるのかもしれません。
ちなみに、秀吉の弟の羽柴秀長が四国征伐の総大将を務めていたため、「どうする家康」33話で描かれたような、秀長が真田昌幸のもとに挨拶に行くということは実際にはあり得なかったと思われます。
第一次上田合戦
ここで、話を家康に戻しましょう。
ついに表裏比興の者・真田昌幸が家康の前に立ちはだかる「第一次上田合戦」が描かれました。
昌幸は持ち前の天才的な軍略で、7,000の軍勢を誇る徳川軍に対し、たった2,000の軍勢で勝利を収めました。
この第一次上田合戦の顛末について、史実とドラマの比較を交えつつネタバレ解説したいと思います。
昌幸の天才的な軍略
第一次上田合戦において、徳川軍の7,000の部隊を率いていたのは、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉といった歴戦の猛者たちです。
ただし、総大将である家康は、秀吉の牽制のため浜松城に残っていたため不在でした。
昌幸は、徳川軍に川を越えさせて本拠地である上田城の二の丸に誘引し、あえて籠城戦を選択しました。
この時の上田城には柵が巡らされており、一度入ると簡単には出ることができないような作りにされていたと言われています。
そうして出口を失った徳川軍を、砥石城に配備した昌幸の息子・真田信幸率いる別働隊に背後から襲わせることで見事勝利をおさめたと言われています。
ただし、第一次上田合戦の詳細な記述は二次史料によるところが多く、実情ははっきりと分かっていないのが現状です。
徳川軍の敗因は?
徳川軍が、3倍以上の兵力差がありながら敗北を喫した要因は何だったのでしょうか。
『三河物語』によると、徳川軍の練度が低かったとされています。
柵が張り巡らされていたのならば火を放って焼き払うのが鉄則ですが、第一次上田合戦に従軍した兵士は経験の浅い新人が多く、昌幸の術中にまんまと嵌ってしまったと言われています。
ただし、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉といった歴戦の武将が率いていることから、新人が多く練度が低かったという『三河物語』の記述には疑問符も付くでしょう。
また、もう1つの敗因として、徳川軍は現地の信濃国国衆らも多数動員していたため、統率をとるのが難しかったという指摘もあります。
徳川家康に仕えた家臣達については、以下の記事で詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
徳川十六神将を徹底解説!家康を支えた家臣団の名前一覧
真田信繁は上杉氏の人質としていた
真田家の人物として有名な、後に家康を追い詰めることになる真田信繁(幸村)ですが、この時は人質として上杉氏のもとにいました。
「どうする家康」33話では、上田城にいる昌幸・砥石城にいる信幸・上杉氏のもとにいて第一次上田合戦には参戦していない信繁の3人が揃うシーンがありましたが、実際には彼らはそれぞれ別の場所にいたとされています。
「どうする家康」初登場となった信繁でしたが、『真田丸』で堺雅人さんが演じた信繁を彷彿させるような、どこか懐かしい信繁でしたね。
石川数正の出奔
そして、物語後半では遂に石川数正の出奔が描かれました。
「どうする家康」の後半の大きな見どころとなるこの大事件ですが、実際にはどのような経緯があったのでしょうか。
この章では、石川数正の出奔の背景について、順を追ってネタバレ解説します。
9月 真田昌幸が秀吉の臣下に
第一次上田合戦で徳川軍を退けた真田昌幸は、9月に秀吉に接近。
正式に配下となりました。
それ以前からも、上杉氏を経由して秀吉には間接的に協力する形ではありましたが、ここで名実ともに秀吉の臣下となったのです。
真田昌幸は、コロコロと主君を変えながら戦国乱世を見事に生き抜いた天才です。詳しくは以下の記事をご確認ください。
どうする家康解説!生き残りの天才『真田昌幸』家康を翻弄する”表裏比興の者”
10月 小笠原貞慶が秀吉に寝返る
そして10月には、信濃国の武将・小笠原貞慶が秀吉に寝返ります。
家康に恩があり、直前まで家康のために戦っていた貞慶でしたが、ここに来て急な出奔となりました。
「どうする家康」33話では触れられていませんでしたが、この小笠原貞慶こそ、石川数正出奔のキーマンだったとも言われています。
貞慶の息子が数正のもとに人質として送られており、数正は貞慶の面倒を見る役目も任されていました。
つまり、貞慶の裏切りは数正の責任問題にもなり、徳川家中で居場所を失った数正は、貞慶と同じように家康を裏切って秀吉のもとへと出奔することになったと言われています。
11月 数正→康輝→吉輝
「どうする家康」では「石川数正」で統一されていましたが、この出奔の直前に家康から「康」の一字を貰い「石川康輝」と改名していました。
ところが、数正出奔後は、秀吉から「秀」の字を貰って「石川吉輝」と名乗るようになるのです。
かつて家康が今川義元から貰った「元」の字を捨てたように、元の主君から貰った名前を捨てるという行為は、元の主君への敵対の意思表示にもなる非常に重いものです。
伯耆守→出雲守
そして、このタイミングで数正は伯耆守から「出雲守」へと受領名を変えています。
元々、伯耆守という受領名は自称にすぎないものだったとされていますが、関白・秀吉によって正式に出雲守へと任官されたのです。
家康から貰った名前を捨て、秀吉から名前と役職を与えられ、数正は名実ともに秀吉の臣下として生きていくことになりました。
石川数正の出奔については、以下の記事で詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
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「どうする家康」33話で、松重豊さん演じる石川数正の出奔シーンは印象的なものになりましたね。
「ずっと殿と一緒でござる」という台詞を残して家康のもとを去っていくシーンは感動的でした。
また、松本潤さん演じる主人公・家康も、旧来のナヨナヨした姿からは一変して貫禄が出てきましたね。
これには、前述のように「秀吉には頑として屈しない」という史実の家康の態度を反映しているようにも思えます。
家康の今後にも期待が膨らみますね。