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【戦国時代の幕開け】応仁の乱って何のこと?分かりやすく簡単に解説
戦国時代が始まったきっかけになったと言われている「応仁の乱」ですが、具体的にはいったいどのような戦いだったのでしょうか?
10年以上続き、様々な要因が重なり合った複雑な戦いである「応仁の乱」を今回は簡単に分かりやすく解説していきます。
応仁の乱はなぜ起こったのか
応仁の乱が起こった理由を解説する前に時代背景を簡単に解説します。
応仁の乱が起こった室町時代は足利将軍家が権力を握っていた時代で、室町幕府によって政治が運営されていました。
とは言っても将軍家のみで日本を支配していたのではなく、幕府の中枢には守護大名と呼ばれる人がいて、彼らがそれぞれの国を任されていました。今でいうところの知事のような感じですね。
特に力を持っていた守護大名には山陰地方を中心に勢力を伸ばした山名氏、四国を中心に治めていた細川氏などが挙げられ、彼らは室町幕府の政治にも強い影響力を持つようになりました。
応仁の乱が勃発した時は、8代将軍の足利義政が幕府のトップを担っていました。
一般的に応仁の乱が起こったきっかけは将軍の後継者争いであると思っている人が多いですが、実際は後継者争いを含めた様々な要因が重なって起きた反乱だったのです。
応仁の乱が起きた理由|①後継者争い
応仁の乱の直接的な原因としてあげられるのはやはり将軍の後継者争いです。
8代将軍である足利義政には嫡子がおらず、将軍の引退を考えた際に出家していた弟の足利義視に後を継がせようとしました。
ところが足利義視が後継者として決まった翌年、足利義政の妻である日野富子が足利義尚を出産したのです。
自分の息子を将軍にしたい日野富子は義政に対して義尚を将軍にするように申し立て、義正も後継者の変更を申し出ますが、すでに跡継ぎとして決まっていた義視が反対したため将軍家は「義視派」と「義尚派」に対立してしまいます。
つまり、幕府内で大きな分裂が起きてしまったのです。
そこで伊勢貞親(いせさだちか)という幕府の側近の陰謀により義視に謀反の嫌疑がかけられますが、管領の細川勝元と守護大名の山名宗全により義視の疑いが晴れ、伊勢貞親は幕府を追い出されることになります。
応仁の乱が起きた理由|②大名の対立と家督争い
応仁の乱が長引いた理由は、有名大名の対立と家督争いが戦いに関係していたからと言われています。
この時幕府の要職に就いていた三管領や四職の中で家督争いが勃発しており、中でも管領を歴任していた畠山家の畠山義就と畠山政長の家督争いは特に大きく、それぞれを山名宗全と細川勝元が支持したことで山名氏と細川氏の対立が深まっていきました。
結果としては義就派が勝利して畠山家の家督争いは決着がつきますが、この争いが原因で細川勝元と山名宗全の関係は決裂し、勢力争いが始まります。
文化人だった足利義政
元々跡継ぎとして育てられたわけではなく政治能力も低かった足利義政ですが、文化人としても非常に優れた人物でした。
室町時代前期に栄えた「北山文化」を後押しした祖父の足利義満の影響を受けた義政は、応仁の乱の後に東山に山荘を作りそこに銀閣を建て「東山文化」を誕生させました。
銀閣寺は世界文化遺産に登録されており、金閣寺と並んで京都の名所として毎年多くの観光客で賑わいを見せています。
東山文化の特色は「わびさび」で、水墨画や茶の湯、生け花など現代にも受け継がれている文化を形成しました。
1467年応仁の乱勃発
将軍家の跡継ぎ問題や畠山家の家督争い、それによって引き起こされた大名の対立など様々な要因が重なりあって、いよいよ1467年に応仁の乱が勃発します。
義視の後見人であった細川勝元と義正の妻である日野富子が義尚を将軍にするため山名宗全に後ろ盾を頼んだためそれぞれが権力を握るために各地の守護大名を引き連れ対立しました。
西軍と東軍に分かれて対立
一度は決着がついた畠山家の家督争いもこの争いに乗じて再度勃発するなど大名家の家督争いも絡み合い、義尚を擁立した山名宗全率いる西軍と義視を擁立した細川勝元率いる東軍に分かれて争いの幕が上がりました。
西軍 | 東軍 |
---|---|
山名宗全 | 細川勝元 |
畠山義就 | 畠山政長 |
足利義尚 | 足利義視 |
日野富子 | 足利義政 |
応仁の乱初期は将軍の後ろ盾もあり兵力差で東軍が勝っており、西軍を降伏の一歩手前まで追い込みました。
その結果、当初の後継者である義視を引き継がせようとする動きが進みます。
大内家の参戦・義視の裏切り
東軍に押し負けそうになっていた西軍でしたが、もともと細川家と日明貿易の利権争いをしていた大内家が西軍に参戦しました。
西日本の4ヶ国をまとめていた大名の大内政弘の参戦により、西軍は東軍に占領されていた拠点を奪還し、争いは拮抗状態に突入していきます。
この時、東軍はかつて幕府を追い出された側近の伊勢貞親を復帰させました。
後継者争いで将軍家が対立したとき、伊勢貞親の陰謀によって命を危険にさらされた義視は西軍に寝返ります。
他にも守護大名の下についていた守護代の寝返りなど泥沼化した応仁の乱は本来の後継者争いという原因を忘れ、いつの間にか義視をバックにつけた西軍と義尚をバックにつけた東軍といった大混乱状態になっていました。
西軍 | 東軍 |
---|---|
山名宗全 | 細川勝元 |
畠山義就 | 畠山政長 |
足利義視 | 足利義尚 |
大内政弘 | 足利義政 |
(西軍と東軍の表にでている人物名は主要人物のみで他にも三管領や四職などの守護大名も参戦していました。)
応仁の乱の結果は?誰が義尚の跡継ぎになったの?
泥沼化し本来の争いの目的も見失って膠着状態であった応仁の乱ですが、ついに勝元と宗全の間で和睦交渉が始まりました。
1474年には義政は隠居し、息子である義尚に将軍の座を譲ることで事態は終結に向かっていきました。
山名宗全と細川勝元が死去
しかし、同年の1474年に山名宗全と細川勝元が相次いで死去してしまいます。
山名家と細川家の後継者は応仁の乱を終わらせるため講和交渉を開始しますが、大内政弘と畠山義就はこれに反対します。
大内政弘は九州・山陰地方から京都へ大軍を率いて遠征に来ていたため何の利益もなく帰国するということはできず、また応仁の乱に乗じて家督争いをしていた畠山義就は戦いに決着をつけないまま争いが終結してしまうことは受け入れられませんでした。
決着はつかず引き分け
ここで応仁の乱終結に動いたのが足利義政の妻である日野富子でした。
日野富子は大内政弘に対して高い官位を与え出世させることで帰国するように仕向けます。
畠山義就は宿敵である畠山政長が既に京都を去っていたため、それを追い河内国へ移動します。
そうして1478年、約11年間にわたり約30万の軍勢が争った応仁の乱は、争いの中心であった京都から誰もいなくなったことにより終結しました。
この時代の争いでは勝者が領土を手に入れたり地位が上がったりするのが普通ですが、応仁の乱では大きな得をした武将はおらず、引き分けという結果に終わります。
11年に及ぶ戦いで京都が焼け野原に
11年に及ぶ戦いで京都は焼け野原になってしまいました。
公家や町人たちが京都から脱出するほど悲惨な状態だったそうです。
花の御所や天皇の住まいである御所も燃えてしまい、激戦地となった相国寺を始め天龍寺・清水寺・伏見稲荷大社・金閣寺などの建物は全焼し、現在残っているものは全て再建されたものです。
他にも文化的価値のある史書や歌集も燃えてしまったと考えられており、応仁の乱がなければ京都には今も文化的な建物や資料が残り、また違った発見があったかもしれません。
一方で、公家や町人が京都から脱出したことによって地方に京都の文化が広まり、小京都と呼ばれるような町が発展したそうです。
戦国時代の幕開け
応仁の乱の影響で室町幕府の権力は低下し、幕府が守っていた秩序は崩壊してしまいます。
京都での争いは終結しましたが、地方では小さな争いが繰り広げられていました。
下剋上の風潮が現れる
11年間に及んで京都を舞台に応仁の乱が起こっていたため、守護大名たちの領国は部下である守護代によって治められていました。
そうして徐々に力をつけ始めた守護代は、応仁の乱で戦力を消耗した守護大名に反乱を起こすようになります。
こうした身分の低いものが高いものを力で倒す下剋上の風潮が各地で現れ、戦国時代が幕を開けました。
一揆の多発
応仁の乱の混乱に乗じて反乱を起こしたのは守護代だけではありませんでした。
各地で武士や農民による一揆が多発したのです。
例えば、京都南部の山城国で国人と言われる地侍が農民と団結して守護大名を追い出し8年間自治を行った山城国一揆や、一向宗の信者たちが行った一向一揆が挙げられます。特に加賀の一向一揆では守護大名を倒してから約100年もの間守護不在で自治が行われていました。
応仁の乱を簡単にわかりやすく解説|まとめ
今回は複雑な応仁の乱について原因や争いの流れなどを簡単に解説しました。
応仁の乱の重要なポイントをもう1度まとめます。
・1467年に将軍家の跡継ぎ争いがきっかけで起こった戦い
・西軍の山名宗全と東軍の細川勝元による権力闘争
・有名大名の家督争いや利権争いなどが絡み合い長期化した
・約11年に及ぶ戦いは引き分けで幕を閉じる
・応仁の乱の終結後、下剋上の風潮が現れて戦国時代が幕を開けた
応仁の乱がきっかけで室町幕府が機能しなくなり、内乱の時代である戦国時代に突入していくことになります。
一方で京都の文化が地方へ広がったり、現在にも引き継がれている東山文化の誕生など文化面の発展においては大きな影響を与えた戦いであったと言われています。