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2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主人公に抜擢された小栗上野介とは?
2027年に放送されるNHKの大河ドラマは、日本の近代化に貢献した小栗忠順(おぐり ただまさ)の活躍を描いた「逆賊の幕臣」に決まりました。主演は松坂桃李さんが務めます。
小栗上野介忠順(1827-1868)は勘定奉行や外国奉行など財政・外交の要職を歴任し、勝海舟のライバルとも言われます。
66作目となる再来年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」は、江戸幕府の使節団としてアメリカを訪問した小栗上野介忠順が、帰国後に日本の近代化を進めようと奔走するも、その後、明治新政府に「逆賊」と見なされるまでの過程が描かれるようです。
幕府財政改革への貢献
文久2年(1862年)に勘定奉行に就任すると、幕府財政の立て直しに着手しています。
当時、幕府は海軍力増強のために諸外国から洋式船を購入していましたが、故障のたびに外国での修理が必要だったため、莫大な費用がかかりました。
巨額の出費が財政を圧迫する中、小栗は通訳の栗本鋤雲を通じて駐日フランス公使レオン・ロッシュとの協力関係を構築し、財政再建と近代化の一環として造船所建設の具体案を練り上げます。
小栗は財源確保のために 通貨制度の改革 にも取り組みました。万延元年(1860年)遣米使節に目付(監察)として参加し渡米した際、彼は米国政府との間で金銀比価の是正交渉を行っています。(日本が一方的に損をするような価格で金銀が取引されていました。)
交渉自体は最終合意に至りませんでしたが、彼の試みは幕府財政を守る先見的な施策といえます。
横須賀造船所の建設と海軍力強化
小栗上野介の事績の中でも特に有名なのが横須賀造船所(横須賀製鉄所)の建設です。
彼は幕府の海防力強化の必要性を強く認識し、文久3年(1863年)に造船所建設の建白書を提出しました。
当初、幕閣から強い反発がありました。勝海舟は、造船よりも船を操ることのできる人材の育成を優先すべきと主張しました。
しかし、第14代将軍徳川家茂はこれを承認し、翌元治元年11月には建設予定地を神奈川の横須賀に決定しています。
慶応元年(1865年)11月15日にはフランス人技師レオンス・ヴェルニーの指揮のもと着工されました。
建設費用は4か年総額240万ドルに及びましたが、小栗は万延二分金など貨幣の増鋳による発行益で賄う工面を行い、これにより「徳川幕府の埋蔵金」伝説の原因になったとも言われます。
この横須賀製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)の創設は、日本における本格的造船・軍需産業の礎となり、以後の日本海軍の発展に大きく寄与することになります。
横須賀造船所の運営にあたって小栗は思い切った人事を行い、フランス人技師ヴェルニーを所長(首長)に任命しました。
外国人を公式に要職に就けた初の例であり、この人事によって近代的な経営管理手法が日本に初導入されています。
具体的には、職務分掌(役割分担)や雇用規則、残業手当、社員教育、西洋式簿記、月給制など、企業経営・人事労務管理の基礎が造船所で実践されました。
これは日本における労務管理・企業経営の近代化の先駆けと言えます。
また造船所建設と並行して日本初のフランス語学校「横浜仏蘭西語伝習所」を設立し、ロッシュ公使の協力でフランス人教師を招いて本格的な授業を行いました。
日本最初の株式会社『兵庫商社』の設立
開国後の通商体制において小栗は、日本側の利益を確保すべく先見的な政策を打ち出しました。
日米修好通商条約(安政の仮条約)で約束されていた兵庫港の開港は、京都への外国勢力流入を警戒した朝廷(孝明天皇)の強い反対により一度延期された経緯がありました。
しかし列強諸国(特にイギリス公使パークス)は幕府に条約勅許(天皇の承認)と兵庫開港を迫り、慶応元年(1865年)9月には四カ国艦隊を兵庫沖に派遣する事態となりました。
最終的に孝明天皇は条約の勅許は与えたものの兵庫開港は猶予され、開港予定は慶応4年(1868年)まで先送りされます。
この兵庫開港問題を巡り、小栗は情勢を鋭く読み取りつつ日本側の主導権を握る策を講じました。
小栗は貿易による富の流出入を統制し利益を上げるため、慶応2年(1866年)に関税率改訂交渉に尽力する一方で、フランスとの経済関係を密にしながら江戸・大坂・京都(三都)の有力商人たちと提携し全国的な物流掌握を図りました。そして開港に備えて慶応2年4月、幕府に対し 「兵庫商社」設立 の建議を行い、6月5日には三井や鴻池ら豪商を糾合して半官半民の兵庫商社を発足させています。
資本金は当時破格の100万両にも達し、日本商人が資本力不足で不利な交易条件を強いられている状況を打破する狙いがありました。
兵庫商社は開港後の貿易取引を独占し、日本産品が外国商人に不当に安値で買い叩かれるのを防ぐ意図がありました。つまり、兵庫港開港後に日本側が貿易の主導権と利潤を確保するための統制経済策であり、幕府直営の「大商社」を先駆けて設立したのです。
明治政府による評価と歴史的評価の変遷
鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗走すると、小栗は徹底抗戦を唱えましたが受け容れられず慶応4年1月に幕府を罷免されます。
その後、領地の上野国権田村(現群馬県高崎市倉渕町)に隠居しましたが、新政府軍の追討を受け捕縛され、慶応4年閏4月6日(1868年5月)に処刑されました。
罪状は明確でなく、戦争が終結する前の私刑にも等しいもので、のちの史家から「さしたる理由もなく斬首された」とも評されています。
維新直後の明治政府にとって、小栗の存在とその功績は触れられたくないものであり、公式記録から彼の名が抹消されがちでした。
明治政府主導の歴史観の中で、長らく小栗は「幕府の無謀な抵抗を主張した人物」「無益な浪費をした幕臣」といった負のイメージで語られることが多かったのです。
しかし時代が下るにつれ、次第に客観的な評価が行われるようになりました。
明治中期以降になると旧幕臣や維新立役者からも小栗を再評価する声が上がっています。
元佐賀藩士で総理大臣も務めた大隈重信は、小栗の業績について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と述べ、明治維新の指導者たちが実は彼の先見的政策にならったに過ぎないと語りました。
大隈は小栗の遠縁(妻・綾子が小栗の従妹)でもあり、幼少期に小栗家に預けられていた縁からその薫陶を受けていた面もあります。
また明治の元帥海軍大将・東郷平八郎は、明治45年(1912年)7月、東郷は小栗の養子・貞雄とその息子を自宅に招き、「日本海海戦に勝利できたのは、小栗氏が製鉄所・造船所を建設してくださったお陰である」と直接感謝の言葉を述べ、五徳(仁義礼智信)と記した書を贈呈しています。
これは日本海軍の礎を築いた小栗への最大級の賛辞であり、旧幕側の人物に対する異例の評価でした。
近年の研究による再評価
平成以降、多くの郷土史家や研究者が小栗の残した資料を発掘し、新たな知見を提示しています。
例えば歴史家の坂本藤良は著書で兵庫商社の創設に着目し、小栗を「近代的株式会社を創始した最後の幕臣」と評しました。
また作家の佐藤雅美は『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(2007年)で小栗の生涯を丹念に描き、その人格と信念に迫っています。佐藤は特に「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」という小栗の有名な言葉(東善寺に伝わる句)に注目し、国の未来を見据えた開明的思想家として評価しています。
また、歴史作家の原田伊織が著書『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』(2017年)で、小栗をはじめ幕末幕府の技術官僚たちの功績が意図的に歴史から消されてきたと論じ、大きな反響を呼びました。
原田は「幕末の日本でいち早く近代化を推進した小栗は『徳川近代』を象徴する幕臣である」と位置づけ、明治政府が彼を粛清したのは維新の美名の裏にある権力闘争の側面を示すものだと指摘しています。
このような視点は従来の維新史観を見直し、幕府側にも近代日本の礎を築いた功労者がいたことを強調するものです。
以上のように、小栗上野介忠順の評価は時代とともに大きく変遷しました。処刑直後の汚名から、次第にその先見性が再認識され、現在では幕末から明治への過渡期における最重要人物の一人とみなされています。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、どのように小栗忠順が描かれるのでしょうか。
文・大泉燐