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戦国時代はいつからいつまで? 定説なき時代の境界線を徹底解説
日本の歴史の中でも、特にドラマチックで人々の関心を集める「戦国時代」。群雄が割拠し、下剋上が横行した激動の時代として知られていますが、その具体的な期間「いつからいつまで」については、実は専門家の間でも意見が分かれ、明確な定説は存在しません。
本記事では、戦国時代の開始と終焉に関する主要な学説を、その根拠とともに詳しく解説し、なぜこの時代の区分がこれほどまでに複雑なのか、その背景にある歴史的要因を探ります。
目次
戦国時代の始まりはいつから? – 主要な学説とその根拠
戦国時代は、日本の歴史区分において室町時代後期から安土桃山時代を経て江戸時代初期に至る、約1世紀から1世紀半にわたる群雄割拠と戦乱の時代として広く認識されています 。
この時代は、中央政権であった室町幕府の権力が著しく低下し、各地の守護やその家臣、さらには国衆といった地域権力が実力をもって領国を支配し、地域権力同士の戦争が頻発した動乱期でした。
この「戦国時代」という呼称は、古代中国の春秋戦国時代に由来していることは注目に値します。
周王朝の権威が失墜し、諸侯が覇を競った中国の状況と、日本のこの時代の状況が類似していたため、この名が用いられるようになりました 。
これは単に戦乱が頻発したというだけでなく、既存の秩序が崩壊し、新たな秩序が模索された時代であったことを示唆しています。
この時代の始まりと終わりを特定しようとする試みは、まさにこの「戦乱と秩序崩壊」という現象がいつ顕著になり、いつ新たな安定した秩序へと収束したのかを見極める作業に他なりません。
しかし、この「戦国時代」が具体的に「いつからいつまで」を指すのかについては、研究者の間でも意見が分かれています。
これは、時代の大きな転換点をどこに置くかという歴史認識の違いや、重視する事象(政治体制の変化、社会構造の変容、特定の画期的事件など)が異なるためです。
歴史上の大きな変化は、ある日突然起こるわけではなく、多くの場合、徐々に進行する複雑なプロセスを経ます。
応仁の乱(1467年)開始説
従来、最も一般的な開始時期とされてきたのが、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱です 。
この説は、応仁の乱が室町幕府の権威を決定的に失墜させ、全国規模での戦乱と「下剋上」(身分の低い者が実力で上の者を倒して成り上がる風潮)の時代の幕開けとなった点を重視します 。
応仁の乱は、8代将軍足利義政の後継者問題や、有力守護である細川勝元と山名宗全の対立が複雑に絡み合い、全国の武士を巻き込む大規模な内乱へと発展しました。
約11年間に及んだこの戦乱は、幕府のお膝元である京都を焦土と化し、幕府の統治能力を著しく低下させました 。
幕府が自らの首都で起こった10年以上にわたる紛争を鎮圧できなかったという事実は、その無力さを全国に示すこととなり、野心的な地方領主たちが台頭する隙を生み出しました。この権力の空白こそが、「戦国」という状況を生み出す肥沃な土壌となったのです。
この乱を通じて、守護が領国の統治を家臣である守護代に任せきりにした結果、守護代が実力を蓄え、主家を凌駕する例が現れ始めました。
また、農民や地侍による一揆も多発し、既存の支配体制が大きく揺らぎました。
例えば、細川勝元が応仁の乱中に朝倉孝景を守護の地位と引き換えに味方に引き入れた行為は、従来の身分秩序の壁を壊す「下剋上」の始まりと見なされ、応仁の乱開始説の根拠の一つとされてきました 。
応仁の乱およびその後に見られた下剋上の風潮は、単なる個人の野心の発露ではなく、権力の正統性が世襲的な地位から実際の軍事力や政治的手腕へと移行したことを示すものでした。
このイデオロギーの変化こそ、戦国時代の本質的な特徴の一つと言えるでしょう。
ただし、足利義尚の時代(応仁の乱直後)はまだ室町幕府の権力が相当程度残存していたという視点から、応仁の乱の勃発直後よりもやや遅い時期を開始点とする議論も存在します 。
これは、時代の変化が一朝一夕に起こったのではなく、漸進的なプロセスであったことを示唆しています。
明応の政変(1493年)開始説
近年、特に有力視されているのが、明応2年(1493年)に管領細川政元が将軍足利義稙(よしたね)を廃し、新たに足利義澄を擁立した明応の政変を開始時期とする説です。
この事件は、室町幕府の将軍が有力な家臣によって一方的に廃立されるという、前代未聞の事態でした。これは将軍権力のさらなる失墜と、幕府体制そのものの構造的な変質を象徴する出来事と評価されています 。
応仁の乱が幕府の「統制能力の欠如」を示したのに対し、明応の政変は幕府が有力家臣に「支配される」対象へと転落したことを明確にした点で、より決定的な時代の転換点と見なされることがあります。
細川政元がこの政変時に将軍直属の親衛隊とも言える奉公衆を解体したことは、将軍が独自の軍事力を失い、有力大名の傀儡となる傾向を一層強めた決定的な出来事として、この説の重要な論拠となっています。
さらに、明応の政変は中央政権の動揺が直接的に地方の勢力図に影響を及ぼし始めた点でも重要です。例えば、伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼして伊豆国を奪取した事件は、この政変と連動していた可能性が指摘されています。
将軍が有力家臣の意のままになるという中央の状況は、地方の武将たちにとってもはや幕府の権威を顧みることなく、実力で領国を拡大する動きを加速させる要因となりました。
このように、中央の政治的破綻が地方の群雄割拠を直接的に促進したという点で、明応の政変を戦国時代の本格的な始期とする見解は説得力を持ちます。
その他の開始説と議論のポイント
上記の二つの主要な説以外にも、戦国時代の開始時期についてはいくつかの見解が存在します。例えば、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方足利茶々丸を追放した延徳3年(1491年)を始期とする説もその一つです。
これは、伝統的な権威であった堀越公方を一介の武士が実力で打倒したという、下剋上の象徴的な事件として捉えられています。
これらの議論のポイントは、結局のところ、どの出来事を「戦国的状況」の本格的な開始と見なすか、つまり「下剋上」の風潮や「幕府権威の失墜」がどの程度顕著になった時点を画期とするか、という点に集約されます。
伊勢宗瑞の伊豆討ち入りのような比較的早い時期の出来事を重視する説が存在することは、「戦国的状況」が日本全国で均一に始まったわけではない可能性を示唆しています。
中央での大きな変動(応仁の乱や明応の政変)以前から、地方によっては幕府の権威の低下や在地勢力の自立化が進んでいたと考えられます。
中央の事件は、そうした地方の動きを加速させた、あるいは追認したという側面もあるかもしれません。したがって、戦国時代の開始時期をめぐる議論は、時代の変化の多層性と地域差を反映しているとも言えるでしょう。
【表1】戦国時代開始時期の主要学説比較
戦国時代の開始時期に関する主要な学説を以下の表にまとめました。これにより、各説が重視する出来事とその理由が一目で比較できます。
学説 | 年代 | 主要な出来事 | 主な根拠 |
---|---|---|---|
応仁の乱説 | 1467年 | 応仁の乱勃発 | 幕府権威の決定的失墜、全国的戦乱の開始、下剋上風潮の顕在化 |
北条早雲伊豆討入説 | 1491年 | 伊勢(北条早雲)による堀越公方追放 | 伝統的権威の実力による打倒、下剋上の象徴的事件 |
明応の政変説 | 1493年 | 細川政元による将軍廃立(明応の政変) | 将軍権力の傀儡化、奉公衆解体による幕府軍事力の喪失、幕府体制の構造的変質 |
これらの説は、それぞれ戦国時代という時代の本質を異なる側面から捉えようとする試みであり、いずれも歴史学的な検討に値するものです。
戦国時代の終わりはいつまで? – 多様な終期論とその背景
戦国時代の終期についても、その始まりと同様に複数の説が存在します。これは、天下統一事業の進展や、新たな政治体制の確立をどの時点と捉えるかによって見解が異なるためです。「戦国時代」という区分自体が、室町時代後期と重なる部分を持つため、その終焉は「安土桃山時代」の開始や「江戸時代」の成立と密接に関連しています。
織田信長の台頭と時代の画期
織田信長の急速な勢力拡大と天下一統事業は、戦国時代の終焉を語る上で重要な指標となります。信長の行動が、既存の戦国大名のあり方や戦乱の様相を大きく変えたと評価されるためです。
1568年(信長上洛)説
織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った永禄11年(1568年)を戦国時代の終期とする説があります。この説は、信長が中央政治に関与し、新たな統一権力への道を切り開いた点を重視します。
信長の上洛は、室町幕府の権威を一時的に回復させた側面も持ちますが、実質的には信長自身が中央の権力を掌握する第一歩であり、戦国大名の枠を超えた新たな統一者としての性格を示し始めたと解釈できます。
かつてこの1568年説は伝統的な見解では有力でしたが、近年では信長権力を他の戦国大名と質的に区別しない見方が強まり、より後の年代を終期とする説が重視される傾向にあります 1。1568年時点の信長を、依然として将軍を擁立し他の戦国大名と争う存在と見なすならば、この年は戦国時代の終わりではなく、むしろ新たな段階に入ったと捉えることができます。戦国時代の終焉には、より根本的で安定した広範な戦乱の停止が求められるでしょう。
1573年(義昭追放)説
織田信長が将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府が事実上滅亡した天正元年(1573年)を終期とする説は有力です。
250年以上続いた武家政権である室町幕府の終焉は、時代の大きな区切りと見なされます。幕府の存在を基準とする時代区分からすれば、この年を終期とすることが穏当であるという指摘もあります。
この出来事により、名実ともにかつての中央権力が消滅し、新たな統一権力の樹立が不可避となった状況が明確になりました。
戦国時代が室町幕府の弱体化と共に始まったと考えるならば、その幕府の完全な消滅は、一つの時代の終わりを画定する論理的な出来事と言えます。これにより、旧体制への回帰の可能性が断たれ、全く新しい権力構造への移行が決定づけられたのです。
1576年(信長安土移転)説
信長が安土城へ移り、本格的な中央政権の拠点とした天正4年(1576年)を画期とする説もあります。
安土城の築城は、信長の絶大な権威と新たな支配体制の象徴と見なされ、これをもって安土桃山時代の開始とする見方とも連動します。
安土城は単なる軍事拠点ではなく、壮麗な天守を持ち、新たな政治の中心地としての意図が込められていました。
室町幕府滅亡後、信長が旧体制とは異なる独自の権力基盤を確立した象徴として、この安土への移転を重視する考え方です。戦国時代を中央集権の欠如と群雄割拠と定義するならば、安土城のような新たな権力中枢の出現は、その時代の終わりを示唆すると言えるでしょう。
豊臣(羽柴)秀吉による天下一統と終期
豊臣秀吉による実質的な天下一統が達成された時点を戦国時代の終期とする考え方です。具体的には、天正18年(1590年)の小田原合戦による北条氏滅亡と、それに続く奥羽仕置をもって、全国の大名が秀吉の支配下に組み込まれたことを重視します。
秀吉は、太閤検地や刀狩といった全国規模の政策を通じて、統一的な支配体制を確立しようとしました 。
これにより、戦国大名が各地で割拠し、互いに争う状況は実質的に終焉を迎えたと見なすことができます。1世紀以上にわたって続いた「群雄割拠」という戦国時代の基本的な特徴が、秀吉の統一事業によって解消されたという点が、この説の大きな根拠です。全国規模での(強制的なものであれ)平和が達成されたという意味で、1590年は大きな画期と言えます。
徳川家康と江戸時代の幕開け
徳川家康による新たな武家政権の確立を戦国時代の終焉と捉える説も有力です。これにはいくつかの段階が考えられます。
まず、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの家康の勝利です。
この戦いで豊臣政権内部の対立が決着し、家康が実質的な天下人としての地位を固めました。次に、慶長8年(1603年)の江戸幕府成立です。家康が征夷大将軍に就任し、新たな武家政権が正式に発足したこの年は、政治体制の大きな転換点となります。
そして、最も広義に戦国時代の終焉を捉える説として、豊臣氏が完全に滅亡した慶長20年(元和元年/1615年)の大坂夏の陣の終結をもって、約150年続いた戦乱の時代が終わり、本格的な泰平の世(江戸時代)が始まったとする見方があります。
この1615年説は、戦乱の完全な終息という点で非常に分かりやすい区切り方です。
秀吉による1590年の天下統一は、彼の死後、再び有力大名間の権力闘争を招きました。関ヶ原の戦いはその結果であり、徳川家康が勝利したものの、豊臣家は依然として大坂に勢力を保っていました。
大坂の陣で豊臣氏が滅亡したことにより、徳川氏に対抗しうる最後の有力勢力が消滅し、徳川幕府による永続的な支配体制が確立されました。
武家諸法度や参勤交代といった諸制度の整備と合わせて、この時点をもって戦国的な不安定さが完全に払拭されたと考えることができます。
安土桃山時代との関係性
戦国時代の終期を考える上で、安土桃山時代(織豊時代)との区分が重要になります 。
一般的に、織田信長が室町幕府を滅ぼした1573年から徳川家康が江戸幕府を開く1603年まで、あるいは信長の安土城移転(1576年)から関ヶ原の戦い(1600年)や大坂夏の陣(1615年)までを安土桃山時代とすることがあります。
この安土桃山時代を戦国時代と区別し、信長・秀吉の時代を特に「織豊(しょくほう)時代」と呼ぶ区分も存在します 。
この場合、それ以前を狭義の戦国時代と定義することになります。
「戦国時代」を文字通りの「群雄割拠の戦乱期」と捉え、「安土桃山時代」を「統一政権形成期」として区別するのか、あるいは安土桃山時代をも含めて広義の戦国時代(戦乱から統一へ至る過渡期)と捉えるかで、終期の設定は大きく変わってきます。
安土桃山時代という時代区分が設定されていること自体が、戦国時代の終わりから江戸時代の始まりへの移行が、それ自体独自の性格を持つ重要な時期であったことを示しています。
したがって、戦国時代の終焉を論じることは、この過渡期である安土桃山時代の開始と本質をどう捉えるかという問題と不可分なのです。
【表2】戦国時代終期時期の主要学説比較
戦国時代の終期に関する主要な学説を以下の表にまとめました。これにより、各説が重視する出来事とその画期性が明確になります。
学説 | 年代 | 主要な出来事 | 主な根拠 |
---|---|---|---|
信長上洛説 | 1568年 | 織田信長が足利義昭を奉じ入京 | 新たな統一権力への始動、中央政治への本格的介入 |
室町幕府滅亡説 | 1573年 | 信長が義昭を追放し室町幕府滅亡 | 旧中央権力の完全消滅、新たな政治体制への移行明確化 |
信長安土移転説 | 1576年 | 信長が安土城へ移る | 新たな統一政権の拠点確立、安土桃山時代の開始 |
小田原説 | 1590年 | 豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし天下 | 実質的なの達成、群雄割拠時代の終焉 |
関ヶ原合戦説 | 1600年 | 徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利 | 新たな覇権の確立、豊臣政権の実質的終焉 |
江戸幕府成立説 | 1603年 | 家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府開府 | 新たな安定政権の樹立、江戸時代の開始 |
大坂夏の陣終結説 | 1615年 | 徳川氏が豊臣氏を滅ぼし大坂夏の陣終結 | 戦乱の完全終結、徳川幕府体制の盤石化 |
これらの終期論は、戦国時代という長い動乱が、どのような過程を経て終息し、新たな時代へと移行していったのかを多角的に示しています。
戦国時代を特徴づける要素と時代区分の複雑性
戦国時代の時代区分が複雑である背景には、この時代が持ついくつかの際立った特徴が関係しています。これらの要素の出現と終焉をどう捉えるかが、年代設定の議論に影響を与えています。
「下剋上」と社会構造の変化
戦国時代を象徴する言葉の一つが「下剋上」です。これは、家臣が主君を倒したり、農民が領主に抵抗したりするなど、従来の身分秩序が実力によって覆される現象を指します。
応仁の乱以降、この風潮が顕著になり、守護に代わって守護代や国衆が台頭し、中には斎藤道三や伊勢宗瑞のように実力で大名にのし上がった人物も現れました。
豊臣秀吉も低い身分から天下人となった代表例です。
この社会変動は、旧来の権威や家柄よりも個人の実力や才覚が重視される時代の到来を意味しました。
下剋上は単なる機会主義的な裏切り行為の連続ではなく、権力と正統性の基盤そのものが根本的に変化したことを示しています。
世襲的な地位も、具体的な軍事力や統治能力が伴わなければ維持できないという認識が広まったのです。
この継続的な社会的・政治的再編のプロセスこそが戦国時代であり、その「終わり」は、このような権力の流動性が収束し、新たな安定した(そして下剋上が容易には起こらない)階層秩序が確立された時点と定義することができます。
徳川幕府による厳格な大名統制や身分制度の固定化は、まさにこの下剋上の時代に終止符を打つものでした。
戦国大名の出現
室町幕府の権威低下に伴い、守護に代わって全国各地に「戦国大名」が台頭しました 。彼らは、守護代や国人など様々な出自を持ち 、実力で獲得した領国を直接支配しました。
戦国大名は、領国内の土地や人民を一元的に支配する「領域権力」と呼ばれる強固な支配体制を築き上げました。そのために、独自の法律である「分国法」(家法)を制定し、家臣団の統制や領民支配の基準としました。
代表的な分国法には、今川氏の「今川仮名目録」、朝倉氏の「朝倉孝景条々」、武田氏の「甲州法度之次第」などがあります。
室町時代の守護が理論上は幕府の地方官であったのに対し、戦国大名は事実上の主権国家の君主として振る舞ったという違いがあります。
彼らは独自の法を定め、検地を行い、家臣団を組織し、領国経済の振興を図りました。戦国時代の終焉は、これらの独立性の高い「領国」が、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康による統一事業を通じて、新たな全国的枠組みの中に再編・従属させられていく過程と捉えることができます。
徳川幕府下の幕藩体制は、大名が依然として藩(領国)を治めるものの、その権限は幕府によって厳しく制限され、もはや主権国家とは言えないものへと変質しました。
鉄砲伝来(1543年)の衝撃と時代の転換
天文12年(1543年)の鉄砲伝来は、戦国時代の様相を大きく変える画期的な出来事でした。ポルトガルから種子島に伝わったとされる火縄銃は、瞬く間に国内で模倣生産が進み、堺や国友などが主要な生産地として発展しました 1。
鉄砲の導入は、従来の合戦戦術を根本から変革しました。個人の武勇に頼る一騎討ちから、訓練された足軽鉄砲隊による集団戦法へと戦闘の主役が移り変わりました。
特に天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける織田信長の鉄砲隊の組織的運用とその効果は、戦国武将たちに衝撃を与え、鉄砲の重要性を決定づけたと言われています。
また、城郭の構造も鉄砲戦に対応して大きく変化しました。従来の山城に加え、平山城や平城が出現し、防御施設として石垣が多用され、天守や櫓(やぐら)といった高層建築物が発達しました 。
鉄砲は、戦国時代の権力闘争における「加速装置」として機能したと言えます。大量生産や購入、新戦術の開発が可能な大名に有利に働き、弱小勢力の淘汰と権力の集中を早めました。
この技術革新は、多極的な戦国状態の終焉へと向かう流れを後押しした重要な要因です。
さらに、鉄砲への対応を迫られた城郭建築の進化は、多大な資源と高度な技術を要し、これもまた有力大名への権力集中を促す一因となりました。
この建築技術の変遷は、戦国後期から安土桃山時代にかけての軍事革命の具体的な現れであり、時代の大きな特徴の一つです。
国史大辞典では、この鉄砲伝来を境に戦国時代を前期と後期に区分する見方が提示されており、鉄砲の普及が大名間の優劣を加速させ、統一政権成立への道を開いたと分析されています。
まとめ:戦国時代「いつからいつまで」の多角的な視点
これまで見てきたように、戦国時代が「いつからいつまで」かという問いに対する答えは一つではありません。
応仁の乱(1467年)や明応の政変(1493年)に始まり、織田信長の上洛(1568年)、室町幕府滅亡(1573年)、豊臣秀吉の天下統一(1590年)、江戸幕府成立(1603年)、そして大坂夏の陣(1615年)に至るまで、様々な時点が時代の画期として提唱されています 。
ある資料では「時代の区分は、後世の人間たちが便宜的に作ったものなので、それを厳密に覚える必要はありません」と述べられていますが、同時に大まかな歴史の流れを理解することの重要性も示唆されています。
重要なのは、それぞれの説がどのような歴史的変化や出来事を重視しているのか、その根拠は何かを理解することです。これにより、戦国時代という激動の時代を多角的に捉え、その複雑な様相と歴史的意義をより深く理解することができます。
戦国時代の時代区分に関する議論がこれほどまでに多様であること自体が、この時代が日本の社会に与えた変革の深さと広範さの証左と言えるでしょう。
もし変化が表面的であったり、容易に定義できるものであったりしたならば、これほどの学術的な見解の相違は生まれなかったかもしれません。
開始と終焉を特定する難しさは、まさにこの時代が経験した社会的、政治的、軍事的激変の深刻さを反映しています。したがって、「いつからいつまで」という問いは、単に年代を確定する問題ではなく、長い歴史的変革のプロセスそのものを考察する貴重な視点を提供してくれるのです。
それぞれの説が提示する画期は、この大きな歴史の転換における重要な節目を照らし出しており、それらを比較検討することで、私たちは歴史のダイナミズムをより深く学ぶことができるのです。