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【福島正則】豊臣秀吉の甥にして猛将!その栄光と悲運の生涯を徹底解説
豊臣(羽柴)秀吉の甥として、戦国の世を駆け抜けた猛将、福島正則(ふくしま まさのり)。その名は、「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」の筆頭として、また関ヶ原の戦いでの活躍、そして悲運の改易(かいえき:領地や身分を没収されること)など、数々のドラマチックなエピソードと共に語り継がれています。
この記事では、そんな福島正則の生涯を、豊臣家との関わりを中心に、歴史ファンの方にも分かりやすく解説していきます。彼の武勇、人間味あふれる逸話、そして時代の波に翻弄された姿を一緒に見ていきましょう。
目次
秀吉の血縁、福島正則の出自と初期の活躍
福島正則は、永禄4年(1561年)、尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で福島正信の子として生まれたと言われています。
母が豊臣秀吉の伯母である木下氏とされるため、正則は秀吉の従兄弟にあたります。この血縁が、彼の運命を大きく左右することになります。
幼い頃から秀吉に仕え、その才能を見出された正則は、天正6年(1578年)の三木合戦(みきかっせん)で初陣を飾り、武功を挙げました。
そして彼の名を一躍有名にしたのが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦です。
この戦いで正則は、一番槍(いちばんやり)の功名をあげ、敵将・拝郷家嘉(はいごう いえよし)を討ち取るという大活躍を見せました。
これにより、加藤清正(かとう きよまさ)らと共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、その中でも最高の5,000石の所領を与えられたとされています。この戦功は、豊臣政権内での彼の地位を確固たるものにする大きな一歩となりました。
しかし、この「七本槍」という呼称やその武功については、後世の創作であるという説や、実際には9人いたという説もあり、その評価は歴史家の間でも議論があるようです。
豊臣政権下での躍進と朝鮮出兵
賤ヶ岳合戦以降も、正則は秀吉の主要な戦いに従軍し、武功を重ねていきます。
小牧・長久手合戦、四国平定、九州平定、小田原合戦と、歴戦の武将としてその勇猛ぶりを発揮しました。
そして、文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)、いわゆる朝鮮出兵にも参加。第一次朝鮮出兵(文禄の役)では五番隊の主将として渡海し、各地で戦いました。
秀吉からの信頼は厚く、伊予国今治(いよのくに いまばり)11万石、後に尾張国清洲(おわりのくに きよす)24万石の大名へと出世を遂げました。
秀吉の血縁者として、また豊臣恩顧(とよとみおんこ:豊臣家から特別の恩恵を受けた)の中心人物として、その存在感を増していきました。
関ヶ原合戦と福島正則の決断
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、豊臣政権内部では対立が先鋭化します。
特に、正則らは石田三成(いしだ みつなり)らとの間で深い溝が生じていました。そのなかで発生したのが、七将(細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、加藤清正、浅野幸長、黒田長政)による石田三成襲撃事件でした。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦が勃発します。この時、福島正則は徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に与しました。
豊臣恩顧の大名がなぜ家康に味方したのか?その背景には、三成への強い反発があったと言われています。また、「豊臣家を守るためには、もはや家康の力を借りるしかない」という苦渋の判断があったのかもしれません。
小山評定(おやまひょうじょう:東軍諸将が今後の対応を話し合った会議)では、いち早く家康支持を表明し、他の豊臣恩顧大名の動向に大きな影響を与えたという話が伝わっています。
本戦では、東軍の先鋒(せんぽう)として宇喜多秀家(うきた ひでいえ)隊と激戦を繰り広げ、東軍勝利に大きく貢献しました。
戦後、その功績を認められ、安芸国(あきのくに)広島と備後国(びんごのくに)鞆(とも)で49万8千石という大大名に取り立てられました。
これは、毛利輝元(もうり てるもと)が支配していた中国地方の要衝であり、家康がいかに正則の働きを評価していたかがうかがえます。
しかし、この選択が後に彼の運命を大きく狂わせることになるのです。
広島藩主としての治績と苦悩
広島に入封した福島正則は、藩政の確立に力を注ぎます。検地(けんち:田畑の面積や収穫量を調査すること)の実施、城下町の整備、治水事業など、領国経営にも手腕を発揮しようとしました。
広島県に残る記録からは、彼が家臣団の統制や年貢制度の確立、産業振興にも取り組んでいたことがうかがえます。
しかし、その一方で、豊臣家への忠誠心と徳川幕府への配慮との間で板挟みとなり、苦悩したと言われています。特に、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の処遇を巡っては、複雑な立場に置かれました。
大坂の陣では、家康から江戸城の留守居役を命じられ、豊臣家滅亡をなすすべなく見守るしかなかった、という説もあります。
「猪武者(いのししむしゃ)」と評される勇猛さとは裏腹に、義理人情に厚い一面も持ち合わせていたと言われる正則。
酒癖が悪く、それが原因で名槍「日本号(にほんごう)」を黒田家の家臣・母里太兵衛(もり たへえ)に飲み取られたという逸話は有名です(この逸話が「黒田節」の元になりました)。
また、酔って家臣に理不尽な切腹を命じ、翌朝後悔して号泣したという話も伝わっており、人間味あふれる人物像が浮かび上がってきます。ただし、これらの逸話のどこまでが史実かは定かではありません。
まさかの改易、福島正則の晩年
元和5年(1619年)、福島正則に最大の悲劇が訪れます。広島城を無断で修築したとして、武家諸法度(ぶけしょはっと)違反を咎められ、安芸・備後49万8千石の領地を改易されてしまったのです。
この「無断修築」については、いくつかの説があります。
台風で破損した箇所を修繕しただけだったという説、幕府に届け出はしたが些細な点を問題視されたという説、あるいは許可がなかなか下りず待ちきれずに着手したという説などです。
真相は定かではありませんが、幕府にとっては、豊臣恩顧の有力大名である福島正則を取り潰す絶好の口実となったのかもしれません。
当時、二代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は、幕府の権威を確立するため、豊臣恩顧の大名に対し厳しい姿勢で臨んでいました。
加藤清正の子・忠広(ただひろ)も後に改易されており、これら一連の処分は、豊臣色の強い大名を排除しようとする幕府の意図があったと見ることもできます。正則は、信濃国高井野(しなののくに たかいの:現在の長野県高山村)と越後国魚沼(えちごのくに うおぬま)に合わせて4万5千石に減封(げんぽう:領地を減らされること)となりました。かつての栄光を思えば、あまりにも寂しい処遇でした。
失意の晩年を送ったとされる正則ですが、高井野では治水事業に尽力し、「千両堤(せんりょうづつみ)」と呼ばれる堤防を築いたという伝説も残っています。しかし、これも史実として確認されているわけではありません。
寛永元年(1624年)、福島正則は64歳(数え年)の生涯を閉じました。
死後、幕府の検使が到着する前に遺体を火葬したことが咎められ、残りの領地も没収されたと言われています。
武勇で名を馳せ、一時は50万石近い大名にまで上り詰めた男の最期としては、あまりにも寂しいものでした。
福島家のその後については諸説ありますが、正則の子・正利(まさとし)の系統が3千石の旗本(はたもと:将軍直属の家臣)として存続を許されたという説が有力視されています。
まとめ ~福島正則の魅力とは~
福島正則の生涯は、まさに戦国乱世の激動を体現したものでした。
豊臣秀吉の縁者という出自、賤ヶ岳の七本槍としての勇名、関ヶ原での苦渋の決断、そして大大名からの転落。その人生は、栄光と悲運が交錯するドラマに満ちています。
「猪武者」と評される一方で、義理人情に厚く、家臣や領民を思いやる一面も伝えられています。酒での失敗談も、どこか人間臭さを感じさせ、現代の私たちにも親近感を抱かせる要因かもしれません。
時代の大きなうねりの中で、自らの信念と豊臣家への想いの間で揺れ動き、そして翻弄された福島正則。彼の生き様は、私たちに多くのことを教えてくれます。
この記事が、あなたが福島正則という武将、そして彼が生きた時代に、より一層の興味を持つきっかけとなれば幸いです。
編集者:相模守