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信長と光秀に狙われた男、織田信澄~知られざる本能寺の変のキーパーソン~
織田信長には数多くの親族や優秀な家臣がいましたが、そのなかでも高い能力を持ちながら歴史の表舞台で大きく語られてこなかった人物がいます。それが信長の甥にあたる織田信澄です。ゲームなどの作品では「津田信澄」として登場することが多いですが、実際の発給文書では「織田」姓を名乗り、「信住」と記されているものも確認されています。彼は明智光秀の娘婿でもあり、本能寺の変においてきわめて重要な「キーパーソン」となる可能性を秘めた人物でした。本記事では、数奇な運命を辿った織田信澄の生涯を解説します。
複雑な出生と織田家重鎮への出世
信澄の生い立ちは非常に複雑です。彼の父は信長の弟である織田信勝(信行)で、信澄が生まれた永禄元年(1558)に信長によって殺害されています。父親を亡くした信澄は、かつて父に仕えていた柴田勝家に養育されて育ちました。
成長した信澄は織田家の中で頭角を現します。天正3年(1575)には信長が東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)を切り取る際に行奉行を務めました。また、越前一向一揆の鎮圧では柴田勝家や丹羽長秀とともに一揆勢を大量に討ち取るなどの活躍を見せました。
その後、信澄は旧浅井家臣である磯野員昌の養子となり、近江高島郡(滋賀県高島市)の領地を引き継ぎます。のちに員昌が出奔すると、信澄は高島郡の支配権を握り、琵琶湖沿いに大溝城(滋賀県高島市)を築城しました。 この大溝城は、明智光秀の坂本城(滋賀県大津市)、羽柴秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)、そして信長の安土城(滋賀県近江八幡市)とを結ぶ「琵琶湖ネットワーク」の重要な一角を担っており、信澄は秀吉や光秀と肩を並べるほどの重要な役割を任されていたことが分かります。
信澄の活躍は戦場だけではありませんでした。信長が主催した1500人規模の相撲大会で執行責任者を務めたほか、安土宗論における警護をおこないました。また、安土城が完成した際には信長から休暇を与えられており、その働きぶりが信長から認められていたことがうかがえます。天正9年の「京都御馬揃え」では、信長の嫡男・次男・弟・三男に次ぐ五番目の序列で、とくに弟や三男と同じ10騎編成での参加となっており、織田一門の中でも特別扱いされる上位の存在でした。
その後、信澄は大坂に派遣され、本願寺退去後の大坂を治めることになりました。このときの信澄は、宣教師から「勇敢だが残酷」と評されており、どこか信長に通じる面が垣間見られたのかもしれません。
四国征伐と本能寺の変~悲劇の最後~
信澄を語るうえで欠かせないのが、明智光秀の娘婿であったという事実です。天正4年には光秀の丹波攻略を救援するなどの接点がありました。この事実が、信澄の運命を大きく狂わせることになります。
天正10年、信長が四国の長宗我部氏討伐を決めた際、信澄は総大将である織田信孝(信長の三男)を補佐する副将に大抜擢されます(そのほかの副将は丹羽長秀と蜂屋頼隆)。信澄はかつて三好家の養子になっていた時期もあるため、長宗我部氏を滅ぼした後は信澄に四国を任せる構想があったのかもしれません。
四国征伐に向けて準備が進むなか、運命の本能寺の変が勃発します。事件当日、四国征伐軍の主力は摂津に陣を構えていましたが、信澄は徳川家康を接待するために大坂城に滞在しており、別行動をとっていました。
クーデターの知らせを受けてパニックに陥るなか、総大将の織田信孝と丹羽長秀は、真っ先に大坂城にいる信澄を討ち取る行動に出ます。理由は、信澄が謀反の張本人である明智光秀の娘婿であったため、「光秀に加担しているのではないか」という疑心暗鬼に駆られたからです。 信澄自身は光秀の謀反を知らなかった可能性が高いとみられています。知っていれば家康接待のために陣を離れるようなことはせず、より迅速に光秀と合流するなどの準備ができたはずだからです。
なぜ信澄は討たれなければならなかったのか?
事情も聞かれずに討ち取られた信澄ですが、信孝や長秀の行動は単なる疑心暗鬼ではなく「合理的な判断」だったという見方があります。 光秀が信長を討った後、天下を治めて周りを納得させるためには大義名分として「擁立すべき人物」が必要でした。その際、明智家と縁戚関係にあり、織田家の血を引く優秀な信澄は、光秀にとって何としても手に入れたい最高の大義名分(カード)だったのです。もし光秀が信澄を擁立していれば、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。信孝や長秀は、その危険性を考慮して未然に芽を摘み取ったとも言えます。 育ての親である柴田勝家も、丹羽長秀が信澄を真っ先に討ったことに対して「まずもって然るべく候(よくやった)」と肯定する密書を送っていますが、これも当時の緊迫した状況下における苦渋の政治的判断だったと考えられます。
エピローグ
築城の名手として知られる藤堂高虎は、かつて信澄の家臣(母衣衆)として仕えていました。給料の不満から信澄のもとを出奔してしまいましたが、本能寺の変後に信澄の遺児である織田昌澄(明智光秀の孫にもあたる)を保護し、彼がその後大坂の陣に参加した際にも助命に奔走するなど、最後まで面倒をみています。もし高虎が出奔せずに信澄の腹心として大坂城にいれば、ともに討死していたかもしれず、歴史の不思議な巡り合わせを感じさせます。
父を信長に殺されながらも、己の才能で織田家上位の地位まで上り詰めた織田信澄。本能寺の変において、明智光秀の娘婿であるがゆえに「危険な大義名分」とみなされ、あっけなく歴史の波に飲み込まれてしまいました。あまり語られることのない人物ですが、戦国時代の動乱を象徴する重要な存在と言えるでしょう。





