- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 「我に七難八苦を与えたまえ」――滅亡してなお立ち上がった尼子再興軍の壮絶な戦い
「我に七難八苦を与えたまえ」――滅亡してなお立ち上がった尼子再興軍の壮絶な戦い
戦国時代には、一度滅亡の淵に沈みながらも、主家の復活を信じて何度も立ち上がった人々が存在しました。そのなかでもひときわ異彩を放つのが、山中鹿介を中心とした尼子再興軍です。「我に七難八苦を与えたまえ」という有名な祈りの言葉とともに、執念深く毛利氏に逆襲を試み続けた彼らの戦いは、敗者の美学を超えた圧倒的な生命力に満ちています。かつて山陰で強大な勢力を誇りながらも、なぜ尼子氏は滅亡し、そしていかにして再興の炎を燃え上がらせたのでしょうか。その壮絶な闘争の軌跡に迫ります。
栄華からの急転直下、名門尼子氏の滅亡
尼子氏のルーツは近江国の京極氏にあります。守護大名であった京極氏の領地が出雲国にも存在し、そこへ守護代として下向した尼子持久が出雲尼子氏の始まりとなりました。やがて時代が戦国へと移り変わる中、尼子経久の代には主家である京極氏を圧倒するほどの勢力を築き上げ、下剋上を成し遂げます。
戦国時代の最盛期には、尼子晴久が室町幕府から八カ国の守護に任命されるまでに成長しました。これは天文20年(1551)に大寧寺の変によって西国の大名である大内義隆が滅ぼされた際、京都で勢力回復を望んでいた将軍の足利義藤(のちの義輝)が、次なる有力者として晴久に大きく期待を寄せたことがきっかけでした。晴久には最高クラスの官職が与えられ、尼子氏は名実ともに西国の覇者となりました。
しかし、この栄華の裏で尼子氏の運命を狂わせる内紛が起きます。天文23年に起こった新宮党事件です。新宮党は晴久の叔父である尼子国久が率い、家中でも屈指の武力を誇っていました。しかし、国久らが晴久に対して謀反を企てているという噂が流れます。疑心暗鬼になった晴久は、新宮党の面々を会議と称しておびき寄せ、一斉に粛清してしまいました。この事件は、毛利元就の巧妙な謀略によるものとも、家中の主導権争いが原因とも言われていますが、いずれにせよ尼子氏の軍事力は致命的に低下し、毛利元就の台頭を許すこととなりました。
永禄3年(1560)に晴久が47歳の若さで急死すると、後を継いだ息子の義久は毛利元就の猛攻に直面します。義久は和睦を模索したものの、元就は攻撃の手を緩めず、尼子側の猛将である本城常光の寝返りや、経済的支柱であった石見銀山の喪失によって尼子氏は完全に孤立していきました。
永禄5年に毛利元就は1万5000の軍勢を率いて、尼子氏の本拠地である月山富田城の攻略に向けて出雲へと本格的に侵攻しました。元就は力攻めを避け、城の周囲を町や堀ごと囲んで長期包囲する惣構の陣を敷きました。翌年には元就の嫡男である隆元が急死する事態に見舞われますが、毛利軍は弔い合戦として攻勢を維持し、まずは支城である白鹿城を約80日間の籠城戦の末に陥落させます。勢いに乗る毛利軍は永禄8年に月山富田城への総攻撃を開始しました。徹底した包囲と猛攻の前に尼子軍は耐え切れず、永禄9年11月に城は開城し、当主の義久らが降伏・幽閉されたことで、尼子氏は滅亡しました。
尼子勝久の擁立と再興軍の電撃的な挙兵
大名としての尼子氏は滅びましたが、その家臣たちの心の中に再興の火は消えていませんでした。お家再興のために立ち上がったのが、山中鹿介幸盛と立原久綱です。彼らは滅亡から3年が経過した永禄12年6月、かつての新宮党の遺児であり、京都で僧侶となっていた尼子勝久を説き伏せて還俗させ、再興軍の総大将として担ぎ上げました。
再興軍は、隠岐の海賊衆である奈佐日本助らの協力を得て、島根半島の沖合に突如として数百艘の軍船を率いて姿を現します。この電撃的な挙兵は、3年の潜伏期間の間に周到に準備されたものだと考えられます。毛利元就が九州の大友宗麟との戦いに主力を割いており、出雲の防備が手薄になっていたという絶好の好機を見逃さなかったからです。
再興軍はすぐさま旧領の月山富田城を攻めますが、難攻不落の城を落とすことはできませんでした。しかし、毛利側に寝返っていた米原綱寛などの旧臣を再び味方に引き入れ、さらに地元の寺社や商人に特権を与えることで巧みに民心をつかみ、勢力を急速に拡大させていきました。
宿敵毛利との死闘、布部山の敗戦と執念の脱出
勢力を拡大する再興軍の前に、ついに毛利氏の本隊が立ちはだかります。元亀元年(1570)、毛利氏は若き当主の毛利輝元を総大将とし、吉川元春と小早川隆景という最強の両翼が脇を固める大軍を吉田郡山城から出撃させました。ここに、尼子再興軍と毛利軍による天王山ともいえる布部山の戦いが発生します。
戦いは極めて激しいものとなりましたが、組織力と兵力で勝る毛利軍の前に、尼子再興軍は大敗を喫してしまいます。この敗戦により、再興軍の有力者であった横道兵庫助秀綱が討死し、さらに中心人物であった秋上庵介宗信が毛利側に寝返るなど、再興軍は一気に瓦解していきました。
布部山の大敗によって再興軍の兵たちは散り散りになり、さらに元亀2年6月には山中鹿介が吉川元春に捕らえられてしまいます。しかし、鹿介の凄みはここからでした。彼は監禁されていた城の中で、重い下痢に苦しんでいるふりをして幾度もトイレに駆け込み、油断した監視の隙を突いて脱出することに成功したのです。
生還した鹿介は、再び尼子勝久と合流し、不屈の闘志で次の機会を狙いました。因幡国の鳥取城を奇襲して一時的に占拠し、勢力の回復を図りましたが、頼みとしていた山名豊国が毛利に寝返るなど、裏切りと敗走の連続を余儀なくされます。その後も若桜鬼城を拠点に抵抗を試みたものの、吉川元春の猛攻の前にまたしても城を追われることとなりました。
天下人織田信長との同盟と上月城の悲劇
自力での領地奪還が困難になった再興軍は、急速に勢力を拡大していた織田信長を頼って上洛し、支援を求めます。当時、信長は毛利氏と同盟関係にあったため、表向きは再興軍への支援を否定していましたが、実際には将来の毛利戦の先兵として彼らを保護していました。
天正5年(1577)、羽柴秀吉の中国攻めが本格化すると、秀吉は播磨と備前の境目にある上月城を攻略し、城に尼子勝久や山中鹿介ら尼子再興軍を配置します。信長にとって、毛利との戦いが避けられない中で尼子軍を盾にすることは都合が良く、再興軍にとっても宿敵への復讐を果たす絶好の機会でした。
しかし、またしても運命は彼らを見放します。天正6年、上月城に入った尼子軍を潰すため、吉川元春と小早川隆景率いる3万の大軍が城を完全に包囲しました。秀吉は急いで救援に向かいましたが、毛利の圧倒的な大軍を前に立ち尽くすしかありませんでした。追い打ちをかけるように、播磨の別所長治が織田を裏切って挙兵します。信長は秀吉に対し、上月城を見捨てて別所氏の守る三木城の攻略に専念せよという冷酷な命令を下しました。
秀吉は尼子軍を見捨てることを惜しみ、また織田の悪名が広まることを恐れて懸命に撤退命令の再考を訴えましたが、信長が方針を変えることはありませんでした。こうして尼子再興軍は、完全な捨て駒とされたのです。救援を絶たれた上月城は降伏し、尼子勝久は城兵の助命と引き換えに切腹しました。一方、捕らえられた山中鹿介は、毛利の本領へ護送される途中に闇討ちによってその生涯を閉じました。享年34歳、終わりなき挑戦の幕切れでした。
泥臭い生への執着が残したもの
山中鹿介という人物は、戦国時代に美徳とされた潔い死を嫌い、最後の最後まで生にしがみついた異色の武将でした。主君である勝久が自害した際にも、鹿之は命乞いとも取れる嘆願を行い、生き延びようとしました。この行動には、降伏を装って隙を突き、吉川元春の首を狙おうとしたという説や、勝久から尼子再興の遺志を託されたためだとする説など、多くの解釈があります。
敵にどれだけ嘲笑されようとも、どれだけ無様であろうとも、生き抜いて目的を遂げようとした鹿介の生き様は、現代を生きる私たちの胸にも深く刺さります。彼が求めたのは単なる名誉ではなく、尼子氏の再興という執念そのものでした。
尼子再興軍の挑戦は悲劇的な結末を迎えましたが、その志は途絶えませんでした。鹿介の娘婿であった亀井茲矩は、上月城の戦いの際には秀吉の軍勢に従っていたため、この難を逃れていました。茲矩はその後も秀吉のもとで活躍し、鳥取城攻めなどの功績により1万石を超える大名へと昇進します。この亀井家は関ヶ原の戦いを経て江戸時代にも大名として存続し、尼子の求心たちの血脈と意志を後世へと伝える懸け橋となったのです。
本来の悲願であった出雲の領土奪還こそ叶いませんでしたが、彼らが七難八苦の果てに見せた不屈の精神は、今なお色褪せない輝きを放ち続けていることでしょう。





