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伊達政宗が眼帯で片目を隠す理由は?肖像画が眼帯を付けていないワケ
伊達政宗(だてまさむね)は戦国時代に活躍した武将であり、現在では「独眼竜政宗」として多くの人々に人気がある人物です。
伊達政宗は眼帯をつけているイメージがありますが、なぜ眼帯で片目を隠しているのでしょうか?
この記事では、政宗の眼帯について以下の内容を記載しています。
- 伊達政宗が片目になった理由
- 伊達政宗が片目を隠す理由
- 肖像画の伊達政宗が眼帯をしていない理由
記事の後半では、伊達政宗のオッドアイ説とハーフ説について解説していますので、ぜひ最後までご覧ください。
目次
伊達政宗はなぜ片目(隻眼)になった?
伊達政宗が片目になった理由は諸説ありますが、幼少期の病気により失明したためと言われています。
米沢城城主である伊達家の嫡男として産まれ、家督を継ぐことになる政宗にとって片目を失ったことは大きな損失でした。
その醜い姿から母親の愛情を十分に受けられず、若いころの政宗は内気で暗い性格となってしまいます。
いつから右目が見えなくなったのか
伊達政宗は1571年、5歳のときに天然痘にかかります。
当時の天然痘は伝染力と致命力が高く、発症するとその半分は命を落とすと言われた程に恐ろしい病気でした。
政宗は幸い命を落とさずに済みましたが、右目を失明することとなります。
飛び出していた眼球を、政宗の重臣であった片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)が刀でえぐり取り、その痛みに耐えるよう鼓舞したとされています。
伊達政宗が片目(隻眼)を隠すのはなぜ?
病気により右目を失った伊達政宗は、自分自身を恥じるようになりました。
当時天然痘により顔に痣が残ることは醜く嫌われる理由とされていたため、本人だけではなく母親や親戚も政宗を恥じており、右目のない政宗では君主にはなれないとさえ言われていた程です。
しかし教育係の僧侶、虎哉宗乙(こさいそういつ)から勉学を学ぶとともに心の強さについて説かれ、政宗は己の弱さを克服し真の強さを身につけていきます。
そして伊達家の当主として奥州を手に入れた後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)に仕えながらその名を轟かせていきます。
なぜ伊達政宗の肖像画は眼帯をしていないのか
現存する政宗の肖像画や木像は、片目であることを確認できるものが僅かにありますが、眼帯姿の肖像画は残っていません。
政宗本人は親からもらった身体に欠陥があることを親不孝だと感じ、片目であることを気にしていたため、肖像画を描く際は片目がない状態ではなく、両目とも描かせたと言われています。
伊達家の菩提寺である端厳寺本堂には等身大の政宗の木造がありますが、右目が若干小さくなっているものの、両目ともきちんと残っています。
眼帯をしている政宗の肖像画は一切存在しておらず、あくまでも私たちのイメージの中で眼帯姿が描かれているだけなのです。
当時の伊達政宗は眼帯をしていたのか
そもそも当時の政宗は眼帯をしていなかったと言われています。
現代では伊達政宗といえば眼帯というイメージが定着していますが、史実では政宗が眼帯をしていた証拠は存在しません。
刀の鍔を眼帯に利用していたという説もありますが、そのような洒落た施しは架空の姿でしかないのです。
眼帯姿が定着した理由は、1942年の映画「独眼竜政宗」で政宗が眼帯姿で演じられ、その後もドラマやゲームで度々眼帯姿が描かれるようになったためです。
しかしすべての政宗が眼帯姿となっているわけではなく、右目に布をかぶせただけのときもあれば、眼帯も何もせずに傷がつけられつぶれた目のときもありました。
政宗にとっては恥じと感じていた片目ですが、眼帯姿になることで逆にかっこいい武将の象徴となり、人気を得るようになりました。
また、現在私たちが日常で使う「伊達男」や「伊達めがね」などの「伊達」という言葉は、伊達政宗が由来とされています。
政宗は片目を失いながらも強く生き抜き、派手な逸話が多く残されているため、政宗にちなんでおしゃれで男らしい男性を「伊達男」と呼ぶようになっています。
政宗の甲冑「黒漆五枚胴具足(くろうるしごまいどうぐそく)」は黒い鎧が綺麗に輝き、兜につけられた大きな金色の三日月飾りはとても派手で目立ちますよね。
「伊達ではない」という言葉も同様に政宗が由来であり、派手な外見は見掛け倒しではなく実力が備わっているという意味で使用されているため、政宗は自分の片目になった姿を派手な装いでカバーしていたのかもしれません。
伊達政宗の生涯については下記動画でシリーズで解説しています。気になる方はぜひ合わせてご覧ください!
伊達政宗のオッドアイ説・ハーフ説は本当なのか
眼帯以外にも、伊達政宗の目についてはさまざまな角度から検証されています。
- 伊達政宗はオッドアイだった
- 伊達政宗はハーフだった
政宗について深掘りし、1つずつ解説していきます。
伊達政宗がオッドアイと言われる理由
伊達政宗の目は病気で失明したのでなく、オッドアイだったという説があります。
オッドアイとは眼球の虹彩異色症により、左右の眼球の色が異なることです。
政宗が病気のためにオッドアイになったのか、生まれつき両目の色が異なっていたのかは定かではありません。
一部では眼球をえぐり取った説も否定されていることから、オッドアイ説が浮上するようになりました。
オッドアイは非常に稀であるため、その姿を隠すために眼帯をしていたのではないかと検証されています。
伊達政宗がハーフと言われる理由
伊達政宗はスペイン人とのハーフだったのではないかとも言われています。
政宗は仙台藩主になった後、スペインへ使節団を送るなど積極的に海外と交流していたこともあり、スペイン人とのハーフ説が出てきました。
また、政宗の母である義姫(よしひめ)が夢の中で銀髪の僧侶に「あなたの腹を貸してほしい」と声をかけられ、その後政宗を身籠ったという話が政宗の出生の逸話として残っています。
しかし、仙台市にある政宗の墓「瑞鳳殿」を再建する際の調査において、発掘された骨から政宗は東北人であることが確認されています。
確かな根拠は残っていないため、政宗はハーフではないと考えて問題ないでしょう。
伊達政宗が眼帯で片目を隠す理由は?肖像画が眼帯を付けていないワケ|まとめ
ここまで伊達政宗が片目になった理由や片目を隠す理由、眼帯姿の肖像画が存在しないワケを解説してきました。
- 政宗は幼少期に病気で失明した
- 政宗は片目である自分を恥じていた
- 政宗に肖像画に眼帯姿を描かせなかった
政宗は片目を失いながらも真の強さを身につけ、立派な戦国武将として名を残しました。
独眼竜という個性が魅力となり、史実では確認できないながらも眼帯姿が定着するほど、多く人々に愛され続けている人物です。
▼主な参考文献