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築山殿(瀬名)の最期とは?裏切りの真相。悪女か平和主義者か
NHK大河ドラマ「どうする家康」で有村架純さんが演じる築山殿こと「瀬名」。
徳川家康の最初の正室(正妻)でありながら、敵対する武田家と内通した疑いを受け、夫である家康の命で亡くなった人物です。
徳川家を裏切った「悪女」として描かれることが多い築山殿(瀬名)ですが、最近の研究によってどんどん新しい事がわかってきて、そのイメージが変わりつつある人物でもあります。
今回の記事では、築山殿(瀬名)の生い立ち~壮絶な最期まで解説し、また本当に徳川家を裏切っていたのか?について迫っていきます。
目次
築山殿(瀬名)の生い立ち
築山殿(瀬名)について考察する上で、まずはどのような状況で生まれ、どのような生い立ちだったのか確認していきましょう。
築山殿(瀬名)は、今川家の親戚である関口家の女性とそこに婿入りした関口氏純との間に生まれました。
父親の関口氏純の実家である瀬名家から取ってつけられた通称が「瀬名」という名前です。
実は築山殿(瀬名)の本当の名前は伝わっておらず、あくまで「瀬名」は後世につけられた名前とされています。
そして、今までは築山殿(瀬名)の母親は今川家の当主である今川義元の妹と言われていましたが、最近の研究によると今川義元の妹ではなく単なる関口家の女性であったといわれています。
それでも関口家は今川家に連なる家柄ですので、家格が低いというわけではなかったようです。
また、年齢についても詳しくは分かっておらず、研究者の方たちの推定によると徳川家康と同じ年か少し上と言われています。
今川家とは?
・今川家とは、駿河国に一大勢力を築いた戦国大名のこと
・一族のルーツは足利将軍家御一家で、由緒あるお家柄
徳川家康との結婚・出産
厚遇される家柄で生まれた築山殿(瀬名)は、なんと人質として住んでいた徳川家康(当時16歳)と結婚することになります。
そのため、家格の高い家柄に生まれた築山殿(瀬名)は、人質である家康と結婚させられるのを嫌がっていた。そのような描き方をした映画やドラマ、ゲームはこれまでに多くありました。
しかし、ここ最近の研究によってこの説が変わってきています。
従来の説であれば家康は人質として辛い生活を送っていたと言われていましたが、実際のところ家康は武将として大切に扱われていて、将来は今川家を支える武将として厚遇されていたのでは、という説が有力になってきています。
家康は今川義元の「元」の字をもらったくらいですので(当時の名前は松平元康)、今川家から将来を渇望されていたと推測できます。
瀬名も瀬名で、今川義元の妹の娘だったという説も変わってきているので、「人質の家康なんかに嫁ぎたくない~」と嫌がることはなかったのでは、と考えられます。
築山殿(瀬名)と家康が結婚することで、家康が城主である岡崎城の支配を維持しようという今川義元の狙いがあったとも考えられます。
そして、結婚してから2年後に長男の徳川信康と長女の亀姫を出産しました。
立て続けに二人を出産しているので、この頃は夫婦の仲もそれほど悪くなく、むしろ良かったのではないかと推測できます。
瀬名奪還作戦はなかった?!
これまでの従来の説では、桶狭間の戦いで織田信長に敗北したのをきっかけに徳川家康は、岡崎城に帰って独立することになり、その際に元いた今川家と対立してしまい、今川家の駿府に留まった築山殿(瀬名)と子供たちを取り返す必要があったとされていました。
この瀬名奪還作戦は、大河ドラマ「どうする家康」でも2回に渡って描かれた場面です。
しかし、最近の研究によると徳川家康が岡崎城に入ることを今川氏真は了承していて、築山殿(瀬名)も一緒に岡崎城に送ったが息子の信康は人質として駿府に残ったというのが最新の説で有力になってきています。
なので、築山殿(瀬名)を助けようという話はそもそもなかったかもしれません。ただ、信康が残っていたのは事実なので、信康を救出する何かしらの動きはあったと考えられます。
信康が命を取られずにずっと生かされていたのは不思議ですが、信康からしたらおじいちゃんにあたる関口氏純が庇ってくれたという資料は残っています。
もしくは今川氏真が信康に利用価値を感じて生かしていたのかもしれません。
その後家康は、人質交換で信康を自分の元へ戻すことに成功しています。
築山殿(瀬名)の父・関口氏純は切腹させられなかった?!
そして築山殿(瀬名)のお父さんである関口氏純は、築山殿(瀬名)も子供たちも全員家康の方へ行ってしまい跡継ぎがいない可哀想な状況になってしまいました。
一方で家康は織田信長と同盟を組み、今川家との対立をずっと続けていたので、今川氏真がついに怒って関口氏純に切腹を命じたのでした。
築山殿(瀬名)は父の死因である信長とともに家康も恨んでいた可能性があった、と従来の説ではいわれていましたが、これも新しい説によって覆されました。
『松平記』によると切腹と記されていましたが、さらに信用性の高い『関口伊豆守氏純』と著名された半物により切腹は否定されており、城を没収されるような罰はあったかもしれませんが命までは取られなかったようです。
ですので、築山殿(瀬名)も家康に対してそこまで恨みを持っていたわけではないと推測できます。
松平記
徳川氏創業の事績を記した資料の一つ。
作者は不詳で、家康の祖父松平清康の死から、築山殿(瀬名)と息子の信康の死までを記している。
築山殿(瀬名)の置かれていた状況
徳川家康と織田信長は同盟を結びましたが、信長は城を落としたりどんどん勢力を拡大している最中だったので、家康は信長に頭が上がらない状態でした。
そして信長と同盟を結ぶために、息子の信康と織田信長の娘の五徳の結婚を約束させています。当時の信康と五徳の年齢は9歳であったと言われています。
そんな中、家康は織田家と敵対する強敵、武田家との闘いに備えて、岡崎城から浜松城へ本拠地を移すことになりました。これには織田信長の意向もあったと所説あります。
浜松城は武田軍が支配している高天神城のすぐ近くで、家康は最前線で指揮を執ることになったのです。
このタイミングで、築山殿(瀬名)と長男の信康、信康の正室である五徳は岡崎城に残ることになり、家康とは別居状態になりました。
15年間ほど続いた家康との同居生活は終わり、その後家康は他に違う女との子供も生まれて、段々と気持ちが離れていたのではないかともいわれています。
天正3年(1575年)大岡弥四郎事件
そして別居後の生活で大事件が起こります。
ドラマでも描かれましたが、徳川家康を研究する方の中では特に注目されている事件で、大岡弥四郎という人物が築山殿(瀬名)のところにやってきて、「謀反を起こさないか」と企ててくる事件です。
更にこの時、築山殿は唐の国の医者を自分の屋敷に出入りさせており、確実な資料はないのですがその医者と不倫していたのではないかともいわれたりしています。
家康とは別居中でお互いの気持ちが離れてきているのではないかという中、大岡弥四郎そこを狙ってきたのかもしれません。
大岡弥四郎は「武田勝頼の正室(再婚)になって、息子の信康も武田家の武将として優遇しますから武田側に付きませんか?」といった内容で築山殿(瀬名)を誘ったのではないかと考えています。
この頃の武田勝頼はかなり強くて、いつ滅ぼされてもおかしくない緊張状況の中、築山殿(瀬名)からすれば自分と息子の信康がしっかりと厚遇されるのであれば、家康を見限って武田側に付くという選択肢をとってもおかしくない状況だったと考えられます。
信康の家臣たちもこの状況のやばさから、裏切ろうとした者も少なくなかったと考えられます。
「武田強すぎるから降伏しよう。」「いや俺は織田さんについていくよ!」「謀反を起こして武田側になってやろうぜ!」と家臣たちの気持ちもばらついていたことでしょう。
最終的には謀反が起こる直前でこの事件の首謀者である大岡弥四郎と他の志望者が処罰されて、なんとかこの謀反事件が起こらずに済みました。
ですが、下手したら謀反されていたかもしれないという、徳川家はかなり不安なギスギスした状況になりました。
大岡弥四郎事件
1575年、岡崎町奉行であった大岡弥四郎が徳川側であったのにも関わらず敵対する武田勝頼と内通し、武田軍へ岡崎を引き入れようとした大事件
天生7年(1579年)五徳の十二か条の訴状
問題はまだまだ続きます。
そんな中で築山殿(瀬名)の息子の信康の正室である五徳と姑である築山殿(瀬名)の関係性が悪化します。嫁姑問題ですね。
この問題も詳しい資料がなく後世で作られた話かもしれませんが、実家を滅ぼされた織田家に対して良いイメージを持っていない築山殿(瀬名)と信長の娘である五徳は相いれない関係だったのではと推測されています。
五徳も徳川家康の上司的な立場である織田信長の娘ということもあり、格下の武将の息子に嫁入りしている状況なので、築山殿(瀬名)と衝突していたのではと後々に作られた話かもしれません。
また、五徳の夫である信康がかなり性格の激しい人物に育ってしまい、簡単に人を殺めてしまうことがあったと『三河物語』に記されています。
五徳はそんな信康を信用できなくなり、徳川家を監視して報告する役目もあったので、織田信長に相談する手紙で「信康がひどい」「築山殿(瀬名)が武田家と内通している」といった内容をまとめた十二か条を信長へ送ったのでした。要するにチクったわけですね。
武田家と内通しようとした大岡弥四郎事件は信長の耳までは届いていませんでしたが、五徳からの情報で信長も「どうなっているだ家康!」と怒ってしまい、家康に築山殿(瀬名)と信康の処罰を命じました。(三河物語より)
織田信長はこの時も強敵武田家と激しい戦いを続けていたので、徳川家から裏切者がでるのは非常に痛手になる状況です。
そして家康の弁明の使者として向かったのが酒井忠次ですが、その忠次が織田信長に全然弁明できずに処罰を受け入れてしまって、最終的に家康は築山殿(瀬名)と信康の処罰を進めることになりました。
これらは『三河物語』に記された内容です。この書は徳川家康を悪く書けないバイアスがかかって、家康を良く見せようと偏った記述かもしれませんので、正確な情報として捉えるには注意が必要です。
三河物語
江戸時代初期に著された大久保忠教作の徳川創業史。
徳川史観による偏った記述が目立つため扱いには注意が必要。
築山殿(瀬名)の壮絶な最期
五徳のチクりにより築山殿(瀬名)と息子の信康は命を落とすことになります。
家康は息子である信康を殺害することになり、武田家との内通容疑の発端となる築山殿(瀬名)も同様に殺されることになりました。
築山殿(瀬名)は岡崎城を追放されてから20日後に命を落とし、信康も追放から1か月後に殺されました。
なぜすぐに殺されなかったのかについては、家康自身が二人を救える方法はあるのではないかと悩み苦しんでいた可能性が考えられます。
築山殿の最期に関しては、確実な情報は残されておらず、後世の資料にしか記録されていません。そのため、具体的な死因や経緯は不明です。
ただ当時の価値観では、いくら大名であっても自分の正室を殺害することは非常に稀な例ですので、家康が築山殿(瀬名)を殺害したのではなく、築山殿が自害した可能性も考えられます。
この事件は徳川家康の人生においても最も困難な出来事の一つであったと言えるでしょう。
築山殿は自身の命を犠牲にして徳川家を守ろうとしたのか、あるいは実際に謀反を企てていたのかについては明確な情報は存在しません。
築山殿(瀬名)の最期!裏切りは本当だったのか?悪女か平和主義者か|まとめ
天下統一を達成し江戸幕府を開いた征夷大将軍・徳川家康。
その最初の正室であり、一緒に困難を乗り越えてきた築山殿(瀬名)。
しかし、謀反の疑いをかけられ、家康の命によって息子の信康とともに築山殿(瀬名)も命を落とします。
実際の歴史でも明確にされていない部分が多いですが、いずれにしても、築山殿の最期は悲劇的なものでした。
大河ドラマ「どうする家康」では、有村架純さんが演じる築山殿(瀬名)の最期がどのように描かれるのか、松本潤さんが演じる家康はどのような判断をするのか、非常に楽しみです。