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鳥取城|秀吉の兵糧攻め『鳥取の飢え殺し』と吉川経家の悲劇
鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある久松山(きゅうしょうざん)(標高263m)に築かれた山城で、戦国時代における山陰地方の要衝として重要な役割を果たした。天正9年(1581年)に羽柴秀吉が行った兵糧攻め「鳥取の飢え殺し」は、戦国史上最も凄惨な城攻めとして知られ、守将・吉川経家の悲劇的な最期と共に歴史に刻まれている。現在は国指定史跡「鳥取城跡 附 太閤ヶ平」として整備され、2025年3月には中ノ御門・渡櫓門の復元が完成し、新たな見どころとして注目を集めている。
目次
歴史 – 因幡の要衝から悲劇の舞台へ
中世の成り立ちと山名氏の拠点化
鳥取城の起源は、室町時代の天文年間(1532~1555年)に、因幡守護であった山名誠通が久松山の山頂に城を築いたことに始まるとされる。しかし、それ以前から久松山には城砦が存在した可能性も指摘されている。山名氏は但馬を本拠とする名門だが、因幡守護家としてこの地に拠点を置き、在地支配を進めていった。
しかし、当時の因幡国は守護の権威が揺らぎ、国衆たちが割拠する不安定な情勢にあった。特に尼子氏の後援を受ける山名誠通と、毛利氏と結んだ国衆・武田高信との間で激しい抗争が繰り広げられ、鳥取城は何度も城主が入れ替わる争奪戦の焦点となった。この複雑な勢力関係が、後の悲劇へと繋がる土壌を形成していった。
毛利方の在地支配と織田方の中国攻め
毛利元就が中国地方の覇権を握ると、因幡国も事実上毛利の勢力圏に組み込まれ、鳥取城には毛利方の城将が置かれた。しかし、天正年間に入り、織田信長が天下一統事業を本格化させると、その勢力は中国地方にも及ぶ。信長の命を受けた羽柴秀吉は、「中国攻め」の総大将として但馬国から因幡国へと進軍した。
天正8年(1580年)、秀吉は一度目の鳥取城攻めを行い、城主・山名豊国を降伏させる。その後、城内の反織田派が毛利氏に救援を要請し、毛利輝元は一族の吉川経家を新たな城主として鳥取城へ派遣した。これが、天正9年(1581年)の壮絶な籠城戦の幕開けであった。
開城後の織豊系整備と近世城郭化
天正9年の開城後、鳥取城は秀吉の家臣・宮部継潤の支配下に入り、山上ノ丸を中心に織豊系城郭としての改修が施された。石垣の導入や曲輪の整備が進み、より防御力の高い城へと姿を変えていく。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)には池田長吉が6万石で入城し、鳥取藩が成立した。
その後、寛永9年(1632年)には岡山藩主・池田光政のいとこにあたる**池田光仲(みつなか)**が入封し、鳥取藩は32万5千石の大藩となる。光仲は山麓の「山下ノ丸」を大規模に拡張整備し、御三階櫓や御殿、複数の櫓門を配した近世城郭としての体裁を整えた。これにより、鳥取城は戦国時代の要塞である「山上ノ丸」と、江戸時代の政庁である「山下ノ丸」が一体となった、他に類を見ない二層構造の城郭となったのである。以後、鳥取城は池田家12代の居城として幕末まで存続した。
戦い – 「鳥取の飢え殺し」と吉川経家の悲劇
天正9年(1581年)兵糧攻めの全貌
秀吉は二度目の鳥取城攻めに際し、因幡・伯耆両国が今までの戦争により兵粮が欠乏していたこともあり、兵粮攻めを選択した。また、秀吉方が鳥取周辺の米を買い占めていたとする話や周辺の住人約2000人を鳥取城内に追いやることで、城内の兵粮不足を加速させたとする話もある。。
さらに秀吉は、若狭国の水軍を動員して日本海を海上封鎖。陸路だけでなく、海からの兵糧搬入ルートも完全に遮断した。こうして鳥取城に兵糧がほとんどない状態を作り上げた上で、天正9年6月、約2万の大軍を率いて鳥取城を包囲。この戦いは「戦国末期における因幡最大の戦い」として記録されている。
太閤ヶ平と付城群の戦略
秀吉の本陣は、城の東1.5kmに位置し、城全体を見下ろせる「本陣山」山頂に築かれた。ここは現在「太閤ヶ平(たいこうがなる)」と呼ばれ、国指定史跡となっている。秀吉はこの本陣を中心に、鳥取城を囲む山々に約70もの付城(陣城)や土塁、堀を配し、総延長12キロメートルにも及ぶ鉄壁の包囲網を敷設した。これは戦国期における最大規模の包囲戦として知られ、秀吉の卓越した戦術眼を示すものとして高く評価されている。
吉川経家の籠城と自刃
守将の吉川経家は、石見国福光城主であり、吉川元春の子元長とも関係が深い武将であった。経家は毛利輝元からの再三の要請を受け、敗戦濃厚な鳥取城の守将という困難な役目を引き受けた。因幡国は兵粮が毛利方の予想に反して少なく、危険な任務であったため、経家は鳥取城在番にあたって過大な恩賞を要求している。経家は城内の兵糧が少ないことを知りつつも、約1,500の兵と共に籠城を開始する。
籠城は約4か月に及んだが、城内はすぐに食糧が尽き、牛馬や草木の根まで食い尽くす地獄絵図と化した。餓死者が続出し、中には人肉を食らう者まで現れたと伝えられる。この惨状に9月末には、経家が自らの切腹と将兵の命乞いを秀吉に申し出るほど、城内の飢饉状態は逼迫していたが、秀吉は経家の申し出を拒絶した。城内の反織田派の山名豊国旧臣を処罰することで、今後離反者が出ないようにする必要があったからである。。天正9年10月下旬、経家は反織田派の山名豊国旧臣らとともに、切腹して壮絶な最期を遂げた。吉川元春やその子の元長は経家の忠義を賞賛し、名誉な死として毛利氏において後世まで伝えられたが、毛利氏の援軍は鳥取城に届かなかったことからすると、実際には捨て駒にされたのである。
兵糧攻めの凄惨さと歴史的評価
開城後、秀吉は城兵に粥を与えたが、飢餓状態だった人々が急に食事を摂ったことで、かえって命を落とす者が続出したと『信長公記』などに記録されている。これは現代医学で「リフィーディング症候群」として知られる現象であり、兵糧攻めの悲惨さを物語る逸話である。この「鳥取の飢え殺し」は、三木城の「三木の干殺し」と並び、秀吉の冷徹な合理主義と戦術の巧みさを示す戦国史上最も凄惨な城攻めの一つとして評価されている。
アクセス – 最新の交通情報(2024-2025年)
公共交通でのアクセス
- JR鳥取駅から徒歩約20~30分
- 100円循環バス「くる梨」緑コース等を利用
- 「仁風閣・県立博物館」下車、徒歩数分で中ノ御門へ
- 運行状況は公式サイトで要確認
車でのアクセス
- 専用駐車場なし – 周辺有料駐車場利用
- 鳥取市観光作成の「駐車場マップ(PDF)」参照推奨
- 混雑時・イベント時は満車となるため公共交通推奨
- 最新駐車場情報は2024年3月版PDFで確認可能
営業・見学情報
史跡鳥取城跡(久松公園)は見学自由(随時)。仁風閣は2023年12月29日から約5年の長期保存修理で休館中(令和11年度中再開予定)。ガイダンス施設「鳥取城跡・仁風閣展示館」は月曜休館等の運用あり。
見どころ – 復元建物と特異な遺構群
2025年完成!中ノ御門・渡櫓門
令和3年(2021年)から始まった復元工事が令和7年(2025年)3月に完了し、4月26日に盛大な開門式が行われた。この門は山下ノ丸(三の丸)の正門にあたり、江戸時代の絵図や古写真、発掘調査の成果を基に忠実に木造復元された。大手(正面)からの登城ルートの歴史的景観が大きく回復し、鳥取城の新たなシンボルとして注目されている。
天球丸と球面「巻石垣」
二の丸上段に位置する天球丸は、城主の居館があったとされる重要な曲輪である。その特徴的な名称は、池田光政の幼名「天球」に由来するとも言われる。ここの石垣は、城郭における全国唯一の球面石垣構造として知られ、「巻石垣」と呼ばれる。文化4年(1807年)頃に背後の山からの崩落を防ぐために築かれたと考えられており、2012年に復元が完了した。その独創的なデザインと高い技術力は、江戸後期の石工技術の到達点を示す貴重な遺構である。
太閤ヶ平(本陣山)見学
城から東に1.5kmの本陣山山上にある太閤ヶ平は、秀吉の鳥取城攻めを理解する上で欠かせない史跡である。発掘調査に基づき、本陣跡や周囲の陣城跡が良好に保存・整備されている。ここからは鳥取城跡全体と鳥取平野が一望でき、秀吉がどのように包囲網を敷き、城を監視していたかを手に取るように理解することができる。
山上ノ丸への登城路
山下ノ丸から山頂の本丸・天守台への登城は、本格的な山登りとなるため登山装備が推奨される。主要なルートには、比較的緩やかな「中坂コース」、急峻な「東坂コース」、かつての搦手道であった「西坂コース」がある。山上には天守台のほか、二の丸、三の丸、宝蔵、井戸跡など、戦国時代の山城の遺構が数多く残されており、中世山城の雰囲気を色濃く感じることができる。山頂からは鳥取市街と日本海の絶景が望める。なお登城コースでの熊の目撃情報が何件か確認されているため、登城する際は十分に注意していただきたい。
周辺観光 – 城下町と鳥取の魅力
歴史・文化施設
- 仁風閣(国重文/明治洋館・長期休館中)
- やまびこ館(鳥取市歴史博物館)
- 鳥取県立博物館(常設・企画展)
- 宝隆院庭園・宝扇庵(見学可能)
自然・景観
- 久松公園(桜の名所・ライトアップ)
- 鳥取砂丘(定番観光地)
- 因幡万葉歴史館
- 白兎海岸(神話の舞台)
観光プラン
- 半日プラン:鳥取城跡→仁風閣周辺→砂丘
- 1日プラン:城跡→太閤ヶ平→博物館群
- 歴史コース:城跡→やまびこ館→旧城下町
- 宿泊:鳥取駅周辺に集中
編集者:相模守