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【日本100名城】美しすぎる北条の城『山中城』障子堀など見どころ満載!
「日本百名城」の1つに数えられる後北条氏の山中城は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐で激戦地となった城です。
見どころの1つである「障子堀」は、その整然とした美しさで有名な一方、山中城には障子堀だけではなく、畝堀や櫓、馬出など、戦国時代や城が好きな人にとって興味深い多くの見どころがあります。
今回は実際に現地の写真を使いながら、山中城の歴史や構造などを解説していきます。
戦国時代の城攻めや防衛戦、築城技術などを知りたい人は、ぜひ読んでみてください。
山中城とは?築城から落城まで
まずは山中城とはどのような城なのかについて紹介していきます。
山中城は伊豆北部にある山城で、後北条氏によって天文年間から永禄年間(1530~1560年)の戦国時代末期に築城されました。
標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及び、山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた天然の要害です。
武田の甲斐と今川の駿河との国境に接しており、相模の小田原城を本拠とする北条氏にとっては、西の守りを担う重要な拠点でした。
豊臣秀吉の小田原征伐では、韮山城・足柄城とともに最前線の防衛拠点として重視され、堀や出丸などを大改修したそうです。
しかし、山中城にいた4千の北条軍による必死の防戦も虚しく、天正18年(1590年)3月29日、6万3千の豊臣軍による総攻撃で落城してしまいました。
三ノ丸から元西櫓まで見どころ解説
ここからは山中城の下部にある三ノ丸から元西櫓までの見どころを解説していきます。
山中城はなんと言っても障子堀が有名ですが、それ以外にも堀や櫓などの見どころが数多くあります。
また、城内の寺には小田原征伐で戦死した武将の墓もあるため、ここで山中城の見どころをくまなくチェックしていきましょう。
武将の墓もある三ノ丸堀
三ノ丸堀は三ノ丸の西側を南北に走っている堀です。
山中城の各曲輪を囲む堀の多くは、城の縄張りに沿って堀り割ったり、畝を堀り残したりして自然の地形を加工したものでした。
しかし、三ノ丸掘は山中城の中では異色で、自然の谷の中央に縦の畝を設けた二重堀にしているのです。
現在は空堀となっていますが、当時は水が流れる水濠でした。
また、三ノ丸にある宗閑寺の境内には、城主・松田康長(まつだやすなが)や副将・間宮康俊(まみややすとし)のほか、豊臣家臣の一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)の墓があります。
一柳直末
元亀元年(1570年)から秀吉に仕えてさまざま合戦で活躍した武将。
小田原征伐の山中城の戦いでは先鋒を務め、鉄砲で胸を撃たれて討ち死にしました。
古参の家臣である直末の死を知った秀吉は、持っていた箸を落として絶句し、三日間悲しみに暮れていたと伝わっています。
貴重な水源「田尻の池」
三ノ丸から北に向かうと、元々あった湿地帯を築城時に盛土で区切った田尻の池と箱井戸があります。
山城においては水を蓄える施設が城の生命線であるため、田尻の池は重要な溜池の1つだったのかもしれません。
築城時の池の面積は約148平方メートルで、水は三ノ丸に流れていたようです。
池の西側は「馬舎」と言い伝えられており、馬の飲み水などに使われていたのではないでしょうか。
一方、箱井戸は城の兵士の飲料水に使われていたようです。
西ノ丸畝堀
西ノ丸畝堀は、「畝」を堀の方向に対して直角かつ一定間隔に走らせた構造です。
畝とは?
畑で種を蒔くために細長く盛り上げた部分。
堀を越えて攻め込むには畝の上を一列になって進むしかないため、守る側は非常に守りやすい構造と言えます。
また、畝はローム層を台形に堀り残して作ったものであり、合戦に使われていた当時はローム層が露出してすべりやすかったのかもしれません。
人が落ちれば畝の急峻な傾斜で脱出は難しかったでしょう。
二ノ丸の防衛線 元西櫓
西ノ丸と二ノ丸の間には、周囲を深い空堀に囲まれた元西櫓があります。
当初は名前がわからず「無名曲輪」と呼ばれていましたが、調査が進み元西櫓と名前がつけられました。
元西櫓と二ノ丸虎口との間にある堀には橋が架けられており、元西櫓から橋をわたる敵を迎撃できる構造だったそうです。
また、架けられていた橋は木橋だったようで、敵が攻め寄せた際は破壊して進路を妨害することも可能でした。
城の核となる山中城本丸から北ノ丸へ
ここからは城の核と言える山中城の本丸に迫っていきましょう。
山中城の本丸は他の曲輪と比べて規模は小さいですが、内部には天守櫓や兵糧庫を設けており、城をきちんと守る重要な役割を果たしていました。
また、本丸の北にある北ノ丸は本丸の次に重要な曲輪と考えられており、ここも山中城の重要な見どころと言えますね。
本丸を守る構造の見どころを解説
二ノ丸から東に向かうと、本丸を守る「本丸堀」と「櫓台」が待ち構えています。
本丸堀はとても深い畝堀で、二ノ丸と本丸をつなぐ橋もかなり狭かったことから、敵を迎撃しやすい構造だったと言えるでしょう。
本丸自体の規模は小さいですが、防御機能は隣接する二ノ丸と補完し合っていたのかもしれません。
一方、山中城で一番高い位置にある「天守櫓」には、一辺7.5メートルのほぼ正方形で盛り上がった天守台と呼ばれる場所があります。
ここには井楼や高櫓があったと思われますが、櫓の柱穴は植樹で攪乱しており、発掘調査では実態を確認できていません。
また、本丸の南には兵糧庫があったとされる場所もあります。
本丸に次ぐ重要拠点「北の丸」
本丸の北には「北ノ丸」が設けられています。
北ノ丸は天守櫓に次ぐ高地に位置しており、一般に曲輪の重要度は天守櫓との距離と高さに比例するため、北ノ丸が重要な曲輪だったことが伺えますね。
また、北ノ丸堀は当時より2メートル以上埋まっているものの、築城時は要害としてかなり深い堀だったのでしょう。
堀は山中城全域を囲むように掘られた水のない空堀ですが、石を使わずこれだけ急な堀を構築するには、高い築城技術が求められたはずです。
山中城の最大の見どころ、障子堀
ここからは山中城最大の見どころと言える障子堀と、そこに隣接する西櫓を解説していきます。
障子堀は攻め寄せる敵を寄せ付けない堅牢さを持つとともに、障子のように区切られた形状は美しさを兼ね備えているとも言えるでしょう。
また、西櫓は攻撃と防御の機能を併せ持った優れた拠点であり、山中城を知る上で欠かせない重要な要素と言えます。
複雑に組まれた西の丸の障子堀
障子堀は西櫓と西ノ丸の中間にある太い畝から両曲輪に畝を走らせた堀と、西ノ丸の北側に畝を複雑に張り巡らせた堀を指します。
障子堀とは?
内部を畝状に堀り残して区切った堀。
侵攻する敵の動きを妨害するとともに、区画の底にいる敵は動きが止まるため、弓矢や鉄砲で狙いやすくなります。
水が貴重な山城においては、水濠に代わる重要な防御策となっていました。
このような複雑な構造は「北条流堀障子」の変形と考えられており、学術上の価値も高いでしょう。
現在は保護のために堀は植栽されていますが、当時は土がむき出しで深さも3メートルほどあったそうです。
さらに一帯は湿地帯でぬかるみに足を取られるため、一度落ちれば自力の脱出は不可能だったと言われています。
美しく整備された現代の姿とは裏腹に、非常に協力な防御機能を持っていますよね。
攻撃と防御を兼ね備えた西櫓
西ノ丸の障子堀を越えた先にある西櫓は「馬出」の機能を持っていました。
馬出とは?
城の虎口(出入り口)の前に堀を隔てて設けられた小さな曲輪。
敵の侵入を防ぐだけではなく、兵を置いて弓矢や鉄砲で攻撃することも可能で、攻撃と防御の機能を併せ持っていました。
西櫓の周囲には土塁と堀を巡らし、防衛時は西ノ丸虎口を利用し、攻撃時は西櫓を起点に堀の南の土橋と北の木橋を用いたのでしょう。
後北条氏の馬出は正方形の形状だったことから、「角馬出」とも呼ばれています。
ちなみに甲斐武田氏はこの馬出を数多く作っており、馬出の土塁と堀が丸かったため「丸馬出」と呼ばれていました。
美しすぎる北条の城『山中城』|まとめ
今回は後北条氏の名城・山中城を解説しました。
有名な障子堀はもちろん、畝堀や馬出などのさまざまな構造を持った堅牢な山城だったことが伺えますね。
山中城は豊臣軍によって陥落したことは事実ですが、城の随所に工夫を凝らした名城であることには変わりません。
城から見える街・空・海の雄大な景色も見どころの1つであり、機会があればぜひ1度訪れてみてはいかがでしょうか。
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