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千両役者も被差別民!?江戸時代の役者の地位と規制
目次
江戸時代の役者の社会的地位と法的規制
「推し活」という言葉がすっかり定着した現代ですが、実は江戸時代の庶民も“推し”の役者に夢中になっていました。
芝居小屋には大勢の観客が詰めかけ、人気役者には贈り物が殺到し、舞台での名演技には「〇〇屋!」と屋号を呼ぶ声援が飛び交う——。
一方で、そんなスターたちは身分制度の枠外に置かれ、「河原者」と呼ばれて差別の対象にもなりました。
幕府からは厳しい規制が課され、贅沢を咎められることもしばしば。それでも彼らは芸を磨き、町人文化の中心として輝き続けました。
今回は、江戸時代の役者たちがどのような立場に置かれ、制約を受けながらも人気を博していたのかを掘り下げていきます。
役者の社会的地位(身分制度上の位置づけ)
江戸時代の歌舞伎役者は、士農工商の四民の枠外に置かれ、「河原者(かわらもの)」あるいは「河原乞食」と呼ばれる被差別身分と同列に扱われました。
そのため、公には苗字を名乗ることが許されず、居住地も正規の町から外れた場所に限られるなど、町人よりも下位の存在とされていました。
しかし、一方で歌舞伎は都市庶民に熱狂的に支持され、人気役者は「千両役者」と呼ばれるほどの高給を得て、市井のスターとして憧れの的でもありました。
その派手な生活ぶりは幕府の倹約令の対象となることもあり、寛政年間(1789~1801)には役者の年俸上限が千両から五百両に引き下げられました。実際には手当などで千両近い収入を得る者もいたようです。
時代が下るにつれて役者の地位は向上し、幕府も彼らを町人扱いとするようになりました。
屋号を苗字代わりに名乗ることが許され、観客が掛け声で「〇〇屋!」と役者の屋号を呼ぶ伝統もこうした背景から生まれましたのです。
それでも「河原者」という差別意識は根強く、幕末においても名優の家族が子供の役者志望を反対する例があったといいます。
明治維新後、政府は役者を「俳優」と改称し、1887年には天皇の歌舞伎御観覧が実現するなど、近代に入ると社会的評価が向上しました。
幕府・藩による役者への法的規制
江戸幕府および各藩は、歌舞伎役者や興行に対して風紀の取り締まりと奢侈(贅沢)の禁止を目的に、たびたび規制を行いました。
まず、寛永6年(1629年)には女性だけの「女歌舞伎」が公序良俗を乱すとして全面禁止され、承応元年(1652年)には「若衆歌舞伎」も禁止されます。
これにより、成人男性のみが演じる「野郎歌舞伎」へと移行し、この過程で女形(おやま/おんながた)が誕生しました。
演目の規制も厳しく、現実の事件を題材にしたり情死(心中)を扱う作品はしばしば禁止されました。
享保8年(1723年)には、心中事件を助長するとの理由で心中物の上演や出版が禁止されます。
衣装や所作についても規制があり、女形は元服した成人男性の髪型にすることが義務付けられ、舞台衣装も華美になりすぎないよう制限されました。
庶民の派手な服装を禁じる倹約令の影響を受け、役者も絹織物や鮮やかな染色の衣装を制限されましたが、彼らは裏地や見えにくい部分に凝るなどして、粋を示す工夫を凝らしています。
興行に関する統制と罰則
江戸幕府は都市の治安維持と風俗取締りのため、原則として江戸市中では公許の劇場のみ興行を認め、「江戸三座」(中村座・市村座・森田座)に営業を限定しました。
さらに天保の改革(1841~1843年)では娯楽が厳しく制限され、歌舞伎も例外ではありませんでした。
天保12年(1841年)に発生した火災を口実に、中村座と市村座は浅草聖天町へ強制移転させられ、役者には「町人と交際するべからず」「外出時は編笠着用」などの厳しい生活規制が課されます。
また、七代目市川団十郎が贅沢を咎められ、江戸所払い(追放処分)となるなど、役者に対する締め付けは極めて厳しいものでした。
しかし、水野忠邦の失脚により改革は頓挫し、歌舞伎も再び活気を取り戻すのです。
役者の出自や役者になる方法
役者になる方法は、大きく分けて世襲と弟子入りの二通りがありました。
中期以降は名家が多く現れ、人気役者の多くは役者の家に生まれた二世・三世でした。
名跡は養子や高弟に相続されることも多く、血縁に限らず才能のある者が名跡を継ぐ仕組みが確立されます。
一方で、地方の旅芝居一座から江戸・上方の大芝居に認められ、出世する者もいました。
役者社会は徒弟制度が厳格で、劇場内部には序列があり、下級役者から少しずつ昇格する仕組みでした。
歌舞伎役者と能役者の違い
同じ芸能でも、能役者と歌舞伎役者では江戸時代の身分的な位置づけが大きく異なりました。
能楽は武士社会の式楽(公式儀式の芸能)として幕府に保護され、能役者は武士身分に取り立てられ、俸禄(石高による給与)を与えられました。
各藩でも、大名が能楽師を召し抱え、士分として遇しました。
一方で、歌舞伎は町人文化の娯楽とされ、役者は制度的に低い身分に抑えられました。
しかし、能楽師は幕府儀式などに縛られたのに対し、歌舞伎役者は自由な興行活動が可能であり、人気次第で莫大な収入を得たり町人社会での交流を楽しんだりできました。
幕末には能役者から歌舞伎役者へ転身する者も現れ、自由な活動を求める動きも出ています。
まとめ
江戸時代の役者は、当初極めて低い身分に置かれ、法的規制の対象となっていましたが、その制約の下で逞しく芸能文化を発展させ、町人社会の支持を背景に独自の地位を築きました。
明治維新後には役者の社会的評価も向上し、やがて「俳優」として公的に認められる存在へと変化していったのです。
参考文献
『新版 歌舞伎事典』 日本芸術文化振興会、ジャパンナレッジ版
『国史大辞典』 吉川弘文館、ジャパンナレッジ版
『日本国語大辞典』 小学館、ジャパンナレッジ版
「役者・俳優」 歌舞伎事典、日本芸術文化振興会
「河原者」 『新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典』 ジャパンナレッジ
「江戸時代から『推し活グッズ』はあった? 歌舞伎が現代に残した“3つの影響”」PHPオンライン(PHP研究所)
「はじまり」 歌舞伎の歴史、ユネスコ無形文化遺産 歌舞伎への誘い
「江戸のファッションリーダーは男の娘だった!?」 Tokyo Art Navigation
「近松門左衛門と心中のはなし」 たのしい!古典芸能
「大阪の部落史委員会」
「歌舞伎と寄席の禁止(江戸検お題『徳川将軍15代』)」 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録
「データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム」
「第2幕 華やかな推し 歌舞伎役者」 本の万華鏡 第34回 推し活狂想曲|国立国会図書館
「能楽トリビア:Q116:能は、どのように江戸幕府の式楽となったの?」
「歌舞伎取り締まりと役者の身分」 高知大学学術情報リポジトリ
文・大泉燐