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本能寺の変、黒幕は誰だ?日本史最大の謎、最新研究で迫る明智光秀の動機と深層
目次
はじめに:本能寺の変とは何か?日本史を揺るがした未解決事件
天正10年(1582年)6月2日早朝、京都の本能寺に滞在していた織田信長が、その腹心であったはずの家臣・明智(惟任)光秀によって襲撃され、自害に追い込まれました。全国統一を目前に控えたカリスマの突然の死は、日本の歴史の大きな転換点となっただけでなく、その動機や背後関係など、多くの謎に包まれています。事件から400年以上が経過した現代においても、「日本史最大のミステリー」として、私たちの知的好奇心を刺激し続けています。
この事件の特異性は、単に歴史上の大事件というだけでなく、「もし本能寺の変が起こらなかったら」という歴史のifを想起させ、また最も信頼していたはずの部下による劇的な裏切りという人間ドラマの側面も持つ点にあります。それゆえに、数多くの説が乱立し(一説には50以上とも言われます)、歴史ファンのみならず多くの人々を惹きつけてやまないのです。本稿では、この本能寺の変をめぐる諸説を、最新の研究動向も踏まえながら深掘りしていきます。
天正十年六月二日:本能寺で何が起こったのか
事件当日、天下人織田信長は中国地方の毛利輝元攻めの総司令官である豊臣秀吉(羽柴秀吉)からの援軍要請に応じるため、少数の供回りだけを連れて京都の本能寺に滞在していました 1。また、信長の嫡男で織田家当主の信忠も同じく上京しているなど、権力中枢の人物らが集まっていました。この状況は、信長らにとって最も手薄な瞬間の一つであり、光秀にとっては信長と信忠を排除する千載一遇の好機でした。
明智光秀は、秀吉への援軍に向かうと見せかけて進軍し、突如として本能寺を包囲。1万3000人とも言われる完全武装の明智軍に対し、信長を守る兵はわずか150~160人程度だったとされています 2。圧倒的な兵力差でした。当時の本能寺は、発掘調査などから堀や土塁を備えた「城」に近い防御機能を持っていた可能性も指摘されていますが、この兵力差の前にはなすすべもありませんでした。
謀反を知った信長は、「是非に及ばず」(仕方がない、議論の余地はない、などの意)と言い放ったと伝えられています 1。この言葉は、信長の当時の心境を示すものとして様々な解釈がなされていますが、彼の潔さや状況判断の速さを物語るものとも言えるでしょう。信長は自ら弓や槍を取って奮戦したものの、肘に槍傷を負い、寺の奥へと退きました。そして、明智軍に自身の首を渡すことを良しとせず、寺に火を放ち自害したとされています。その後、明智軍は二条御所にこもり迎撃に備えていた信忠を討ち果たし、京都を制圧しました。
信長の遺体は発見されなかったことも、この事件の謎を深める一因となっています。首の行方についても、家臣が密かに持ち出し葬ったとする説など諸説ありますが、確たる証拠はありません。遺体が見つからなかったことで、光秀は信長の死を天下に示すことができず、その後の権威確立に微妙な影を落とした可能性も否定できません。
謀反人・明智光秀:その人物像と謎に満ちた決断
謀反の首謀者である明智光秀は、その出自や信長に仕えるまでの経緯に不明な点が多い人物です。しかし、高い教養と優れた実務能力、そして武将としての力量を兼ね備え、信長の信頼を得て織田家中で重臣の地位にまで登りつめました 1。信長の政策を理解し、実行する有能な官僚としての一面も持っていたと考えられています。
本能寺の変の後、光秀は朝廷に多額の金銭を献上し、自らを新たな支配者として認めさせようとするなど、政権掌握に向けた動きを見せます 1。しかし、その支配は長くは続きませんでした。備中高松城から驚異的な速さで引き返してきた羽柴秀吉の軍勢に、京都近郊の山崎の戦いで敗北。その野望はわずか10数日で潰え去り(俗に「三日天下」とも呼ばれますが、実際にはもう少し長い期間でした 1)、光秀自身も逃走中に落命したとされています 1。
光秀が、なぜこれほど短期間で敗れ去ったのか。この点は、彼の謀反計画の周到さや、他の織田家重臣たちの動向予測に甘さがあったのではないかという疑問を投げかけます。有能な人物であったはずの光秀が、天下取りという大事業において、なぜこれほどまでに脆く崩れ去ったのか。この落差こそが、本能寺の変の謎を解く上で重要な鍵の一つであり、彼の動機解明を一層困難にしている要因と言えるでしょう。彼の行動には、どこか計画性の欠如が指摘されることも少なくありません 1。
光秀はなぜ信長を討ったのか?抹殺された動機の深層
本能寺の変における最大の謎、それは明智光秀がなぜ主君である織田信長を討ったのか、その動機です。この動機は、現代に至るまで確定していません 。しかし、長年にわたる研究や議論の中で、いくつかの主要な説が提唱されてきました。
怨恨説:積年の恨みが引き金か?
最も古くから語られ、また一般にも広く知られているのがこの怨恨説です。信長から受けた苛烈な叱責や暴力、屈辱的な扱いが積み重なり、光秀の堪忍袋の緒が切れたというものです。具体的なエピソードとして、徳川家康を饗応する際に用意した料理が腐っていたとして信長に折檻された話や、武田攻めの戦功を巡る意見の対立から暴行を受けた話などが伝えられています 1。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』にも、信長が家臣に対して能力以上の過度な要求を突きつけ、それが達成できなかった場合には残忍な仕打ちを科したといった記述が見られ、当時の武将たちが信長に対して抱いていた潜在的な恐怖や不満をうかがわせます 9。ただし、フロイスはこれが光秀の直接の謀反の動機であるとまでは記していません。
現代的評価:これらの具体的な饗応失敗談などのエピソードは、江戸時代初期に成立した軍記物である『川角太閤記』などに記されたものが多く、史料的根拠としては薄いと見なされることが一般的です 10。しかし、信長の苛烈で激しやすい性格は複数の記録からうかがい知ることができ、光秀との間に緊張関係が存在した可能性は否定できません。特定の事件が引き金になったというよりは、日頃のストレスや不満が蓄積した結果という見方もできます。この説の根強さは、信長の一般的なイメージと、人間的な感情に根差した動機を求める心理が背景にあるのかもしれません。
野望説:天下取りの野心か?
下剋上の気風が色濃く残る戦国時代にあって、光秀が信長を排除し、自らが天下人になろうとしたという説も有力なものの一つです。信長の死によって生じる権力の空白を突き、天下を掌握しようという野望を抱いたとしても不思議ではないという考え方です。
本能寺の変後の光秀が、朝廷に対して工作を行ったり、自らの支配を正当化しようとしたりする動きを見せたことが、この説の根拠の一つとされます。
現代的評価:光秀に天下取りの野望があったとしても、変後の行動計画があまりにも無策で、計画性に乏しいという批判が多くなされます。事前に他の有力大名との同盟を密約したり、他の織田家重臣たちへの根回しをしたりといった、天下を狙う上で不可欠な周到な準備が見られない点が大きな疑問点です。しかし、福知山市が実施した「本能寺の変 原因説50総選挙」では、この野望説が依然として高い支持を集めており 13、ドラマチックな展開を好む歴史ファンの心情を捉えているのかもしれません。野望という動機自体は戦国武将として理解しやすいものの、その実現に向けた戦略の欠如がこの説の最大の弱点と言えるでしょう。
信長暴政阻止説(正義説):暴君を止めるための義挙か?
織田信長の政策は、比叡山延暦寺の焼き討ちや伊勢長島一向一揆の殲滅など、敵対勢力に対して極めて非道なものであったとされます。また、信長が自らを神格化しようとする動きを見せたり、さらには明国征服という壮大な計画を企てたりするなど、その野心は際限なく拡大し、戦乱の世が終わる気配はありませんでした 1。こうした信長の「暴政」に対し、正義感の強いとされる光秀が、天下万民のために、あるいは伝統的な秩序を守るために、自らの身を挺して信長を阻止しようとした、という説です。
ルイス・フロイスも、信長が自らを神格化し、安土城下に自身の神社まで建立させたと批判的に記述しています。
現代的評価:この説は、光秀を理想化しすぎているという見方があります。信長の政策や行動が、一部の宗教勢力から強い反発を買っていたことは事実です。しかし、光秀が純粋な正義感からのみ行動したと断定するには、彼の内面を示す史料が乏しく、多分に推測の域を出ません。信長の行動が「暴政」であったかどうかは、評価の立場によっても変わるため、客観的な動機としては確立しにくい側面があります。
四国説:長宗我部元親との関係と窮地の打開策か?【有力説】
近年、本能寺の変の動機として最も有力視されているのが、この「四国説」です。当時、土佐の戦国大名である長宗我部元親は、四国統一を進めていました。織田信長は当初、明智光秀を介して元親の四国平定を黙認、あるいは支援する姿勢を見せていたとされます。光秀の重臣であった斎藤利三は元親と姻戚関係にあり、光秀自身も長宗我部氏との外交交渉における取次役として深く関与していました。
ところが、天正9年(1581年)頃から信長は四国政策を転換。元親に対して、土佐と阿波の一部を除く領地の割譲を要求し、これに従わない場合は武力で討伐する方針を示しました。さらに、競争相手でもある秀吉が元親と敵対していた三好氏を支援する動きも見せ始めます 16。この急な方針転換により、長年、信長と元親の間を取り持ってきた光秀は、取次としての面目を失い、政治的に極めて苦しい立場に立たされたのです。
この状況を打開し、自らの政治的生命と長宗我部氏との関係を守るために、信長を討つという強硬手段に出たのではないか、というのが四国説の骨子です。近年発見された「石谷家文書(いしがいけもんじょ)」などの史料からは、信長と元親の対立が深刻化していたこと、そしてその板挟みとなっていた光秀(あるいは斎藤利三)の苦しい立場が具体的に裏付けられつつあり、この説の信憑性を高めています。
現代的評価:四国説は、怨恨説や野望説のような光秀個人の感情や抽象的な野心に求めるのではなく、具体的な政治的状況と、その中で光秀が置かれた客観的な立場を背景としている点で、より具体的な動機として説得力を持つと評価されています。多くの歴史研究者が支持、あるいは最有力説の一つとして注目しており、今後の研究次第ではさらに詳細が明らかになる可能性を秘めています。
黒幕は存在したのか?歴史の闇に蠢く陰謀論
明智光秀の単独犯行ではなく、その背後で糸を引いていた「黒幕」がいたのではないかという説も、本能寺の変を語る上で欠かせないテーマです。光秀ほどの知将が、なぜあれほど無謀とも思える行動に出たのか、そしてなぜあれほど早く敗れ去ったのか。その疑問が、黒幕の存在を想起させるのかもしれません。候補として名前が挙がる人物や勢力は多岐にわたります。
豊臣秀吉黒幕説:最大の受益者の周到な策略か?
本能寺の変の後、いち早く光秀を討ち、信長の後継者争いで主導権を握り、ついには天下人へと駆け上がった豊臣秀吉。このことから、「事件の最大の受益者」として、古くから黒幕ではないかと疑われてきました。
主な根拠として挙げられるのは、第一に、備中高松城攻めの際に秀吉が信長に送った不自然とも思える援軍要請です。これが信長を京都におびき出すための策略だったのではないかという見方です。第二に、事件発生を知った後の驚異的な速さでの「中国大返し」と、その後の光秀討伐の手際の良さです。これらは事前に事件を知っていた、あるいは計画に加担していたからこそ可能だったのではないか、というわけです 5。
現代的評価:秀吉の行動の手際の良さは確かに注目に値しますが、彼を黒幕とする直接的な証拠は存在しません。中国大返しについても、秀吉の卓越した危機管理能力と情報収集能力、そして部下たちの奮闘の結果と解釈することも可能ですし、事前に何らかの情報を得ていたとしても、それが黒幕であったことを意味するわけではありません 5。最新の研究では、この説は否定的な見方が多くなっています。結果的に最も利益を得たからといって、それがすなわち計画者であるとは限らないのです。
徳川家康黒幕説:虎視眈々と機会を狙っていたか?
当時、信長の同盟者であった徳川家康も黒幕候補の一人として名前が挙がることがあります。一説には、信長が家康の勢力拡大を警戒し、家康暗殺を計画していたとも言われます。それを察知した家康が、先手を打って光秀を動かした、あるいは光秀と共謀して信長を排除したというものです。
事件当時、家康は信長の招きで堺に滞在しており、本能寺の変の一報を受けると、伊賀の険しい山道を通って命からがら三河へ帰国しました(いわゆる「神君伊賀越え」)。この苦難に満ちた逃避行は、家康が事件の被害者であったことを示すとも、逆に黒幕であったがゆえに周到に計画された逃走劇であったとも、両様に解釈されています。
現代的評価:家康が事件後に旧武田領を確保するなど、結果的に勢力を拡大した側面はありますが 18、黒幕とするには証拠が不十分です。むしろ、信長とは強力な同盟関係にあり、信長の死は家康にとっても大きな危機であったとする見方が一般的です。伊賀越えの苦難は、彼が事件を予期していなかったことを示唆しているとも言えます。この説を支持する研究者は現在では少数派です。
朝廷黒幕説:天皇の権威回復を狙った動きか?
織田信長は、正親町天皇に譲位を迫ったり、暦の改変を一方的に要求するなど、朝廷に対して強い圧力を加えていたとされます。これに対し、天皇を中心とする朝廷勢力が、その権威を回復し、信長のこれ以上の専横を阻止するために、光秀に信長排除を命じたのではないか、という説です。
根拠としては、事件後に関白の近衛前久が事件への関与を疑われて一時的に都から逃亡したことや、光秀と朝廷の取次役であった神官・吉田兼見の日記『兼見卿記』に、本能寺の変前後の記述に関して不審な改竄の跡が見られることなどが挙げられます。
現代的評価:信長と朝廷の関係は、単純な対立関係ではなく、緊張と協力が混在した複雑なものでした。信長は朝廷に多額の経済的支援を行うなど、朝廷を保護する 天下人としてあり続け、その立場に応じて活動を行っています23。当時の朝廷が主体的に光秀を操り、信長暗殺という大事業を成し遂げさせるほどの政治力や軍事力を持っていたかについては疑問が残ります。直接的な証拠は見つかっておらず、近年の研究では朝廷黒幕説は否定的な見解が多くなっています 12。朝廷の動きは、事件後の権力構造の変化に対応しようとした結果と見る方が自然かもしれません。
足利義昭黒幕説:追放された将軍の復権計画か?
織田信長によって京都から追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭が、毛利輝元などの庇護を受けながら、反信長活動を継続していました。この義昭が、光秀に信長打倒を働きかけ、室町幕府の再興を目指したのではないか、という説です。
この説の有力な根拠の一つとされたのが、光秀が山崎の戦いの直前に書いたとされる手紙の中に、「(足利)義昭様を京都にお迎えしたい」といった趣旨の記述が見つかったことです 12。これは、光秀が義昭の復権を視野に入れていたことを示すものと解釈されました。
現代的評価:義昭に反信長の動機が十分にあったことは確かですが、当時の義昭に全国の大名を動かすほどの政治力や影響力があったかについては疑問が呈されています 25。もし義昭が黒幕であるならば、自身を庇護していた毛利氏に伝えていないはずがなく、毛利氏と秀吉が和睦する必要がありません。光秀の書状についても、本能寺の変後の混沌とした状況下で、自らの行動を正当化し、支持を集めるために義昭の権威を利用しようとした可能性も考えられます。他の黒幕説と同様に決定的な証拠はなく、支持する研究者は限られていますが、一部では依然として検討の対象となる説ではあります。義昭は、光秀にとって利用価値のある駒であったかもしれませんが、光秀を操るほどの力はなかったと見るのが一般的です。
その他の黒幕候補たち:イエズス会、仏教勢力、堺商人など
上記の他にも、様々な人物や勢力が黒幕候補として名前が挙がっています。
例えば、イエズス会です。信長は当初キリスト教を保護しましたが、次第に自らを神格化するような動きを見せたため、イエズス会がこれを布教の障害と考え、光秀を操って信長を排除しようとしたという説です。光秀の娘・玉(ガラシャ)がキリシタンであったことも、この説と関連付けて語られることがあります 1。
また、信長によって徹底的に弾圧された本願寺などの仏教勢力が、その恨みから光秀と結託したという説もあります。さらに、信長の経済政策によって既得権益を脅かされた堺の商人たちが、光秀に資金援助をして謀反を唆したという説も存在します 2。
現代的評価:これらの説は、いずれも状況証拠や憶測に基づくものが多く、学術的な支持はほとんど得られていません 。それぞれの勢力に信長を排除する動機があったとしても、実際に光秀を動かすだけの手段や影響力を持っていたか、そして光秀がそれに乗るだけの理由があったかという点では、具体的な証拠に乏しいと言わざるを得ません。これらの説は、歴史のミステリーをよりドラマチックにする要素として語られることはあっても、本能寺の変の真相に迫るものとしては疑問符が付きます。
【表】本能寺の変:主要な動機説・黒幕説の比較
本能寺の変をめぐる複雑な諸説を理解するため、主要な「光秀の動機説」と「黒幕説」について、その根拠、反論・疑問点、そして現代における学術的な評価を以下の表にまとめました。
説の名称 | 主な提唱者/関連人物 | 主な根拠 | 反論/疑問点 | 現代の評価/有力度 |
---|---|---|---|---|
光秀の動機説 | ||||
怨恨説 | – | 信長による叱責・暴力の逸話。フロイスの記述。 | 逸話の史料的根拠が薄い(後世の創作が多い)。 | 俗説に近いが、信長の苛烈な性格は事実。単独動機としては弱い。 |
野望説 | – | 下剋上の風潮 。変後の政権掌握の動き。 | 変後の計画性のなさ。 | 依然人気はあるが、学術的には疑問視。 |
信長暴政阻止説 | – | 信長の非道な政策、神格化の動き 。 | 光秀の理想化。光秀の真意を示す史料なし。 | 一部共感はあるが、客観的動機としては弱い。 |
四国説 | 長宗我部元親、斎藤利三 | 信長の四国政策転換。光秀の立場の窮地。「石谷家文書」。 | 長宗我部元親から信長への従属を示す書状の存在。 | 有力説。具体的状況証拠が多く、支持する研究者多数。 |
黒幕説 | ||||
豊臣秀吉黒幕説 | 豊臣秀吉 | 最大の受益者 不自然な援軍要請、中国大返し | 直接的証拠なし。行動の解釈は多様 | 近年は否定的見解が多い |
徳川家康黒幕説 | 徳川家康 | 家康暗殺計画説 結果的な利益 。 | 伊賀越えの苦難。証拠不十分。 | 支持する研究者は少ない。 |
朝廷黒幕説 | 正親町天皇、近衛前久、吉田兼見 | 信長の朝廷への圧力。近衛前久の逃亡、『兼見卿記』の改竄。 | 朝廷の実行力への疑問。直接的証拠なし。 | 近年は否定的見解が多い。 |
足利義昭黒幕説 | 足利義昭 | 将軍復権の動機。光秀の義昭宛書状。 | 義昭の影響力への疑問。書状の解釈。 | 一部で検討されるが、主流ではない。 |
イエズス会黒幕説 | ルイス・フロイス | 信長の神格化への危機感。光秀の娘ガラシャがキリシタン。 | 直接的証拠なし。憶測の域を出ない。 | 学術的支持はほぼない。 |
なぜ真相は謎のままなのか?史料の限界と解釈の多様性
本能寺の変の真相が400年以上もの間、謎に包まれ続けている最大の理由は、光秀自身がその動機を明確に語った一次史料が存在しないことです。
現在残っている光秀の言い分は、事件後の6月9日に配下にあった長岡(細川)藤孝に宛てた書状のみです。ここで、光秀は本能寺の変を藤孝の嫡男で娘婿の忠興を取り立てるために起こしたと述べ、畿内近国を平定したのち光秀自身は身を退き、光秀嫡男の光慶と忠興に運営を委ねるとしています。
ただし、この書状では、光秀が本能寺の変を起こした直接的な理由が書かれているわけではありません。現段階では、事件前後の行動などからその意図を推測するしかなく、それが多様な解釈を生む根本的な原因となっています。
また、事件直後の混乱期や、その後の歴史が勝者である豊臣秀吉の視点から編纂された可能性も考慮しなければなりません。
例えば、当時の貴族や神官が記した日記類も貴重な史料ですが、筆者の立場や保身のために、記述が意図的に歪められたり、改竄されたりしている可能性が指摘されています。
その代表例が、神官・吉田兼見の日記『兼見卿記』で、光秀との関係を隠蔽するために、後に書き換えられたことが分かっています。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した『日本史』のような、外国人による客観的と見なされがちな記録も、当時の日本の情勢を知る上で非常に貴重です。
しかし、そこには文化的なバイアスや、情報源の偏り、あるいは本国への報告という目的意識などが介在している可能性も否定できません。
さらに、江戸時代以降に書かれた軍記物語の多くは、読者の興味を引くために脚色や創作が加えられており、史実とフィクションの境界が曖昧になっている場合があります。これらの物語が、本能寺の変のイメージ形成に大きな影響を与えてきたことも事実です。
これらの要因が複雑に絡み合い、一つの「真相」にたどり着くことを困難にしています。限られた史料をどのように解釈するか、どの史料の信憑性を重んじるかによって、導き出される結論も変わってくるのです。この史料の制約と解釈の多様性こそが、本能寺の変を永遠のミステリーたらしめていると言えるでしょう。
結論:本能寺の変が現代に問いかけるもの
本能寺の変の真相は、依然として完全には解明されていません。
しかし、長年にわたる研究の積み重ねにより、いくつかの傾向が見えてきています。
近年の研究では、特定の黒幕が光秀を操ったとする壮大な陰謀論よりも、明智光秀個人の動機、特に「四国説」に代表されるような具体的な政治的要因が重視される傾向にあります。
怨恨説や野望説も、光秀の複雑な心理の一端を示している可能性はありますが、それら単独では事件の全てを説明するのは難しいとされています。そして、数多く提唱されてきた黒幕説の多くは、具体的な証拠に乏しく、多分に憶測の域を出ないものが多いのが現状です。
この日本史最大のミステリーが現代の私たちに問いかけるのは、歴史上の大事件でさえ、必ずしも一つの明確な答えがあるとは限らないということです。残された限られた史料から、多角的に物事を考察し、歴史の複雑性や多様な解釈の可能性を理解することの重要性を示唆しています。
歴史ファンにとっては、この謎解きのプロセスそのものが尽きない魅力であり続けています。そして、考古学的な発見や新たな史料の発見、あるいはAI技術を用いた分析など、研究手法の進展によって、今後も新たな「真相」が提示される可能性を秘めているのです。
本能寺の変をめぐる探求は、これからも続いていくことでしょう。
参考ウェブサイト
織田信長と本能寺の変!黒幕は誰?明智光秀の謎と真相に迫る – 戦国 BANASHI, 5月 18, 2025にアクセス、 https://sengokubanashi.net/history/honnouji-kuromaku/
本能寺の変、「本当の裏切り者」は誰なのか 教科書が教えない「明智光秀 …, 5月 18, 2025にアクセス、 https://toyokeizai.net/articles/-/167293?display=b
過去の放送内容 – 世界の何だコレ!?ミステリー – フジテレビ, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.fujitv.co.jp/sekainonandakore/archive/20200819.html
www.city.fukuchiyama.lg.jp, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/uploaded/attachment/18378.pdf
【豊臣秀吉の生涯】本能寺の変の黒幕!?秀吉が天下を取るまで …, 5月 18, 2025にアクセス、 https://sengokubanashi.net/person/hideyoshi-honnouji-kuromaku/
「本能寺の変」最大の謎、信長の首はどこへ消えたのか? – ダイヤモンド・オンライン, 5月 18, 2025にアクセス、 https://diamond.jp/articles/-/326770?page=4
shirobito.jp, 5月 18, 2025にアクセス、 https://shirobito.jp/article/1367#:~:text=%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%8B%E3%82%89%E9%87%8D%E8%87%A3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E9%AB%98%E3%81%8F,%E3%80%8C%E6%80%A8%E6%81%A8%E8%AA%AC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%A9%E2%80%A6%E3%80%82
高等学校日本史B/織田信長・豊臣秀吉 – Wikibooks, 5月 18, 2025にアクセス、 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%83%BB%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
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「信長への怨恨」でも「黒幕がいた」でもない…最新研究でわかった明智光秀が本能寺の変を起こした本当の理由 きっかけは四国の長宗我部元親との交渉決裂 – プレジデントオンライン, 5月 18, 2025にアクセス、 https://president.jp/articles/-/86387?page=1
本能寺の変/ホームメイト – 刀剣ワールド, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.touken-world.jp/tips/7090/
日本史ミステリー「本能寺の変」はなぜ起きた? 明智光秀”黒幕”説に迫る – 和樂web, 5月 18, 2025にアクセス、 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/4562/
明智光秀「本能寺の変 原因説50 総選挙」3万人の“推し説”投票結果発表!【#HNG50】 – 福知山市, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/hng50result.html
完訳フロイス日本史 (3(織田信長篇 3)) (中公文庫 S 15-3), 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%8C%E8%A8%B3%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%883%E3%80%89%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E%E3%81%A8%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89%E2%80%95%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E7%AF%87-3-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9-%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9/dp/4122035821
明智光秀の謀叛の理由…“本能寺の変”めぐる黒幕の存在「全11説」を一挙公開, 5月 18, 2025にアクセス、 https://dot.asahi.com/articles/-/77955?page=2
四国政策に原因? 足利義昭が黒幕? 史料が語りかける「明智光秀 …, 5月 18, 2025にアクセス、 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8286?p=1
「信長への怨恨」でも「黒幕がいた」でもない…最新研究でわかった明智光秀が本能寺の変を起こした本当の理由 きっかけは四国の長宗我部元親との交渉決裂 (2ページ目) – プレジデントオンライン, 5月 18, 2025にアクセス、 https://president.jp/articles/-/86387?page=2
【読者投稿欄】「本能寺の変」は誰が真犯人だと思いますか – 攻城団, 5月 18, 2025にアクセス、 https://kojodan.jp/enq/ReadersColumn/18
本能寺の変の謎(明智光秀による犯行なのか、黒幕がいるのか) – 攻城団ブログ, 5月 18, 2025にアクセス、 https://kojodan.jp/blog/entry/2019/02/24/120553
ふとした疑問 | 章詳細 – monogatary.com, 5月 18, 2025にアクセス、 https://monogatary.com/episode/547006
本能寺の変、明智光秀の動機は四国にあり!?陰謀論を総括し真の原因をさぐる – Japaaan, 5月 18, 2025にアクセス、 https://mag.japaaan.com/archives/229598
本能寺の変『徳川家康黒幕説』は成立するのか?考察してみた #どうする家康 – YouTube, 5月 18, 2025にアクセス、 https://m.youtube.com/watch?v=WScCbKK-Hts
仲良し?対立?信長と朝廷の関係構築!【織田信長シリーズ③】 – 塾講師ステーション, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.juku.st/info/entry/1334
「本能寺の変」の証拠隠滅か⁉ 明智光秀と親交のあった人物が半年 …, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.rekishijin.com/28497
本能寺の変は突発的、黒幕いない」 光秀講演会で呉座勇一さん – 両丹日日新聞, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.ryoutan.co.jp/articles/2020/02/89901/
近世国家成立過程における武家と天皇との関係は、戦前から注目され多くの研究が積み重ねられてきた。本論文 – CORE, 5月 18, 2025にアクセス、 https://core.ac.uk/download/pdf/144432968.pdf
「本能寺の変」の黒幕? 京都のラストエンペラー 足利義昭の野望, 5月 18, 2025にアクセス、 https://kyotolove.kyoto/I0000277/
本能寺の変に黒幕はいた?! 明智光秀の動機から信長の遺体の行方まで、最新研究をもとに有力説を検証! – Pen Online, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.pen-online.jp/article/012428.html
15代将軍・足利義昭が「黒幕」だった!? 「本能寺の変」の“すごい真相” 糸を引いていたのは誰なのか? 秀吉、朝廷、毛利、長宗我部… – 歴史人, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.rekishijin.com/40859
1582年「本能寺の変」~違った角度から見る~|WEBコラム|商品 …, 5月 18, 2025にアクセス、 https://www.sugita-ace.co.jp/column/2022/entry3499.html
▼参考文献
柴裕之『織田信長ー戦国時代の「正義」を貫く』(平凡社、2020年)
柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、2020年)
編集者:相模守