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戦国武将の身長はどれくらい?戦国時代の平均身長と有名武将の身長
戦乱の世で戦いを繰り広げ、多くの歴史を残してきた戦国武将。
歴史を辿るとどの武将も大きな功績を残しており、その時代において圧倒的な存在感を放っていたことが伝わります。
これほどの人物であれば「体も大きかったのでは」と思う方もいると思いますが、実際のところ武将たちの身長はどのくらいだったのでしょうか。
今回は歴史に名を残した方々の身長に加えて、当時の平均身長も紹介していきます。
目次
戦国時代の武将の平均身長は?
昔の人は現代の人よりも低身長だったといわれていますが、どのくらい小さかったのでしょうか。
戦国時代の平均身長は男性が157cm、女性が145cm程度とされており、男性の身長は160㎝にも及びませんでした。
同様に女性も145㎝程度とされており、男性と同じく小柄な印象が見受けられます。ただあくまで平均身長であるため、戦国時代の全ての方が低身長だったかといえばそうではありません。
現に200㎝近い武将も存在していた記録も残されており、恵まれた体格の人もいればそうでなかった人もいたといえるでしょう。
現在の日本人の平均身長はどれくらい?
現在の日本人の平均身長は男性が約170㎝、女性が約160㎝となっています。
戦国時代の身長に比べると男女共に10㎝以上の差があり、昔よりは身長が高くなっていることが分かります。ただ戦国時代より平均身長が高くなっているものの、近年の平均身長にはあまり変化がなく、停滞傾向にあるのも事実です。
戦国時代の人々はなぜここまで平均身長が低かった?
現在に比べると平均身長が低い戦国時代の人々ですが、なぜこんなにも身長が低かったのでしょうか。
それは現代とは違った生活が大きく関係しています。
ここからは平均身長が低かった理由について見ていきましょう。
非常に貧しい食生活を送っていた
1日の食事といえば「朝・昼・晩」の3食を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
現代では1日3食摂ることが多くなっていますが、実は戦国時代の食事は1日2食が一般的でした。
1度の食事で多く食べていたと言われているものの、当時の人々は戦に出陣したり、畑仕事をしたりと肉体労働が多かった点を考えると、1日2回では満足のいく食事を摂れていなかった可能性も十分考えられます。
また戦国時代の平均身長が低かった理由として、質素な食事だった点も理由の1つです。
この時代主に食べていたのは玄米や漬物、味噌汁など。それぞれ栄養素は十分にありましたが、カルシウムは十分に摂れていれていなかった可能性もあります。それは、当時牛よりも馬の方が重宝されており、現在のように牛乳は飲んでいなかったとされているからです。
そのため食事だけでは十分にカルシウムを摂取できず、身長に伸び悩んでいたことも一説として考えられるでしょう。
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戦国時代における身長の重要性とは?
戦いにおいて身長が高いほど、相手に威圧を与えられるメリットがありますが、身長が低いと戦に不利というわけではありません。
身長が低いと小回りが効くうえ、馬に負担がかからないため馬を使った戦いに向いているともいえます。また身長が低くても歴史に名を刻んだ武将はいるため、そこまで身長は重要でなかったと考えられるでしょう。
ただ身長が低い武将たちは、見た目で馬鹿にされることも多々あり、苦い思いをした武将も存在しました。
そのため低身長の武将は「力では負けないように」と腕を磨き、見た目に反した実力を持っていたのではないかとも考えられます。
【10名厳選】背の高い武将と有名武将の身長を紹介
男性の平均身長が160㎝とされていますが、人によって個人差があり、150㎝台の武将や200㎝を超えるほどの大きな武将もいます。
ここからは戦国武将たちそれぞれの身長について紹介していきます。
三浦義意(227cm)
現在の平均身長と比べてもかなりの高身長にあたるのが三浦義意(みうらよしおき)。
1496年(明応5年)に生まれた三浦義同(みうらよしあつ)の息子です。戦国時代では刀や槍を使った戦いをする人が多い中、三浦義意は「金砕棒」と呼ばれる金棒のような武器を使って戦に挑んでいました。
当時、男性の平均身長は160㎝とされていましたが、その数字を遥かに上回る身長を持っているうえ、振り回すのは金砕棒。威圧感を放つ見た目に、怯んだ敵兵も少なからずいたかもしれません。
真柄直隆(220cm)
同じく200㎝越えの身長を持っているのが、真柄直隆(まがらなおたか)。
1536年(天文5年)に生まれ、身長220㎝・体重は250㎏近くと恵まれた体を持っていたといわれています。
戦いの際は「太郎太刀」と呼ばれる長い刀を振り回していたことでも有名で、姉川の戦いでは本多忠勝(ほんだただかつ)との一騎打ちをした説もある人物です。
織田信長(185cm)
尾張の統一を果たし、最期は本能寺にて命を絶ったことで有名な織田信長(おだのぶなが)も身長が高かった武将の1人でした。
織田信長は長篠の戦いで初めて大量の鉄砲を使い、長篠城の陥落を防いだ人物でもあります。
最期は家臣の明智光秀(あけちみつひで)に裏切られて命を断つことになりましたが、生前は多くの歴史を残した人物です。
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上杉謙信(180cm)
上杉謙信(うえすぎけんしん)は1530年(享禄3年)に誕生した上杉家16代当主で、22歳にして越後統一を果たした人物です。
上杉謙信は相当の酒飲みだったことでも有名で、酒が原因で死亡した説も浮上していますが、謎は包まれたままとなっています。
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伊達政宗(推定159.4cm)
公益財団法人の瑞鳳殿公式HPでは、戦後行われた発掘調査により、伊達政宗の身長が159.4㎝であると紹介されています。(参考:三藩主の墓とその遺品)
伊達政宗といえば「独眼竜政宗」で名を馳せており、優れた力を持っていました。
しかしまだ幼い頃は内気な性格をしており、天然痘により変わった自身の顔にコンプレックスを持っていたという話もあります。
天下は取れなかった生涯となってしまいましたが、戦国時代に大きな影響を与えた1人には変わりありません。
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徳川家康(159cm)
征夷大将軍の座まで上りつめ、江戸幕府を誕生させた徳川家康(とくがわいえやす)。
当時の平均に近い身長ではあったものの、現在からすると低身長といえます。
幼い頃は人質として過ごしていた時期もあり、他の戦国武将とは少し違った幼少期を過ごしていたのが特徴です。
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真田幸村(158cm)
真田信繁(さなだのぶしげ)こと真田幸村(さなだゆきむら)は大坂の陣で活躍した武将です。
誕生したのは1567年(永禄10年)または1570年(元亀元年)と、生まれ年が定かになっていない謎の多い人物です。
最期を飾る戦い「大坂の陣」では勝利には至らなかったものの、徳川家康を追い込むほどの活躍を見せ、その歴史は今もなお語り継がれています。
豊臣秀吉(推定154cm)
織田信長の下で着々と成果を上げた豊臣秀吉(とよとみひでよし)もこの時代からすると身長の低い方の人物でした。
実際に豊臣秀吉と会ったことがあるイエズス会宣教師ルイス・フロイスの「フロイス日本史」には、秀吉について「秀吉は身長が小さく、また醜悪な容姿の持ち主」と言及されてあります。
豊臣秀吉といえば、織田信長の弔い合戦で明智光秀を破った話が有名です。
「泣かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の意味の通り、前向きな性格を持った人物といわれ、世を平和にしたいという思いから刀狩令を出したともいわれています。
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武田信玄(153cm)
三英傑の1人に数えられる織田信長を一時は追い詰め、三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄(たけだしんげん)。
流れは完全に武田軍であったものの病に悩まされ、人生の幕を閉じた人物です。もともと体が弱かった武田信玄ですが、実は身長も低かったといわれています。
最期は病に倒されてしまったものの生前は大きな功績を残し、戦国時代に大きな波を立てた人物ともいえるでしょう。
毛利元就(152cm)
毛利元就(もうりもとなり)は中国地方を統一した実力者。
たった一代で統一するといった偉業を成し遂げています。
小さい身ながらも統一するほどの実力を持っており、さらには優しい心を持っていたといわれている人物です。
戦国武将の身長はどれくらい?戦国時代の平均身長と有名武将の身長|まとめ
戦国時代の平均身長は今よりも低かったものの、中には平均身長を遥かに上回る巨体の武将も存在しました。
200㎝を超える人は今の時代でも大きく感じますが、戦国時代からすると規格外の大きさで相当な圧を放っていたのではないでしょうか。
有名な武将は意外と小さい方も多く、体格に頼らず実力でのし上がってきた方が多かったのかもしれませんね。