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壇ノ浦の戦いをわかりやすく解説!平家軍の敗因はなんだった?
勢力を拡大する平氏と源氏の合戦で、ようやく決着をつけられた「壇ノ浦の戦い」。
源・平が深く関わっていることは知っているものの、何が原因で平氏が負けたのか知らない方もいるのではないでしょうか。
今回は戦いが起きた背景や平家軍の敗因、入水した人物についてわかりやすく解説しています。
壇ノ浦の戦いの背景と共に敗因を知りたい方はぜひチェックしてみてください。
壇ノ浦の戦いとは?
壇ノ浦の戦いとは、現在の山口県下関市にあたる、長門国赤間関壇ノ浦で1185年(寿永4年)に行われた戦いです。
この戦いは、およそ6年にも及ぶ源氏と平氏の長い戦いに終止符を打った歴史に残る戦いとなりました。
ここからは壇ノ浦の戦いが起きた背景と決戦場所、戦いの詳細をわかりやすく解説していきます。
壇ノ浦の戦いが起きた背景
壇ノ浦の戦いが起きた理由には、源氏と平氏の関係が大きく関わっています。
平氏は1156年(保元元年)に発生した保元の乱や1159年(平治元年)に発生した平治の乱にて勢力を大きく拡大させていました。
加えて娘・平徳子(たいらのとくこ)を高倉天皇(たかくらてんのう)に入内させたことや、日宋貿易をしたことによってさらに平氏は大きな存在感を放ったとされています。
そして娘の徳子は後の安徳天皇(あんとくてんのう)である言仁親王(ときひとしんのう)を出産。
このとき、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の幽閉に加え、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が、平氏の圧力により親王の地位を与えられずにいたため、平氏の行いに苦言を呈していた人々もいたとされています。
そこで以仁王と手を組んだのが、平氏を良く思っていなかった源頼政(みなもとのよりまさ)だったのです。
この出来事がきっかけで、後の壇ノ浦の戦いへと発展したのでした。
決戦場所は彦島
壇ノ浦の戦いの決戦場所は彦島。瀬戸内海を点々としていた平氏でしたが、源範頼(みなもとののりより)の勢力が拡大していたため、陸上には逃げ場がなかったとされています。
そのため、移動できる場所は陸上以外に限られてしまい、平氏の拠点である彦島で決着をつけたのでした。
勝ったのは源氏軍
激しい勢力拡大があり、始めは有利だった平氏軍でしたが、この有利な戦況は最後まで続きませんでした。
それは1180年(治承4年)に起こった富士川の戦いや、平清盛(たいらのきよもり)が病死したことが関係しています。
清盛がこの世を去った後、1184年(寿永3年)に起こった一ノ谷の戦いや1185年(寿永4年)に起こった屋島の戦いでは平氏軍が負け、平氏のバランスは崩れていきました。
そして最終的には源氏軍が有利な状況に立ち、平氏軍は勝利を掴めなかったのです。
義経軍と範頼軍は真逆の攻め方をしていた
壇ノ浦の戦いにて形勢逆転した戦況が注目されていますが、実は源義経(みなもとのよしつね)と範頼が行う真逆の戦い方も注目されています。
義経の戦い方は積極的に攻める姿勢を見せ、着々と先へ進んでいきました。
人手は進みながら確保しており、独自の判断でスムーズに進行していったとされています。
一方で範頼は源頼朝(みなもとのよりとも)の意見を聞きながら、慎重に足を進めていきました。
人手も坂東から連れてきた武士と共に進行し、義経とは真逆の進み方をしていたことがわかります。
慎重に行動している範頼にとっては義経の行動はあまり良い印象は持たれません。
自己判断で進む義経を見て、頼朝も良く思っていなかったといわれています。
平家軍の敗因は?
一時は勝利を掴み取ると思われた平氏ですが、戦況が覆り負けを喫してしまいます。
これは船の数はもちろんのこと、さまざまな条件が組み合わさったことが関係しているでしょう。
平氏の敗因として考えられるのは以下の4点です。
・阿波重能の裏切り
・潮の流れ
・八艘飛び
・義経の戦い方
合戦につきものの裏切り行為はもちろん、勢力の強さや個人の力量によって源氏は勝利できたのではないでしょうか。
ここからはそれぞれをわかりやすく解説していきます。
阿波重能の裏切り
平家の敗因はまず、阿波重能(あわしげよし)の裏切りが大きく関係しているといわれています。
重能は元々平氏だったのにも関わらず、なぜ裏切り行為を働いたのでしょうか。
それは息子が捕虜として源氏に捕らえられたことが原因でした。
重能は息子を助けようと敵兵へ寝返ったのです。
しかし重能の裏切りは誰にもバレていなかったわけではありませんでした。
平知盛(たいらのとももり)には気づかれていましたが、平宗盛(たいらのむねもり)は聞く耳を持たなかったとされます。
その結果、重能の裏切り行為によって平氏の作戦が筒抜けになってしまい、平氏の敗北へとつながったのでした。
潮の流れ
関門海峡は潮の流れが早く、流れる方向によっては勝敗を左右する可能性も十分あります。
そのため潮の流れが影響した点も理由の1つとして考えられるでしょう。
壇ノ浦の戦いの最初は、平氏が有利になるような潮の流れだったとされています。
しかしその潮の流れが一変し、終盤に近づくと源氏が有利になるような流れに変わったのです。
船だと潮の流れに逆らうことが難しいことから、「平氏の敗因になったのではないか」といわれています。
八艘飛び
壇ノ浦の戦いといえば、義経の八艘飛びで有名な戦いです。
義経が平教経経(たいらののりつね)から逃げるために用いた技だとされています。
平家物語には約6m飛んだと記されており、現実味は薄いものの、今もなお歴史の1シーンとして語り継がれている話です。
義経の戦い方
義経は卑怯な戦いをし、その戦法で平氏が負けたという説もあります。
それは船漕ぎなどの非戦闘員を先に攻撃し、動きを止める戦法です。
ただ実際にこの戦法で戦ったのかどうかは信憑性がなく、必ずしも卑怯な戦い方をしたとはいいきれません。
中には船漕ぎを襲ったのは戦いの終盤だともいわれています。
平家軍の入水者続出!?中にはこんな人物も
追い込まれた平氏は最期を悟り、海へ身を捨てる人物が多くいました。壇ノ浦の戦いにて活躍した人物や、歴史に名を残した人物まで、さまざまな人がこの壇ノ浦の戦いにて入水しています。
しかし中には源氏に助けられ、命を救われた人もいました。
では一体どのような人物が入水したのでしょうか。
人物の特徴と入水シーンをわかりやすく解説していきます。
平知盛
知盛は優れた武術を持っていた人物で、壇ノ浦の戦いでも活躍した人物です。
源氏が形勢をひっくり返したことで知盛は負けを悟り、海へ身を投げました。
知盛の最期は潔く、「見られたくないものは海へ捨てよ」の意味合いを込めて仲間に報告したとされています。
安徳天皇
安徳天皇(あんとくてんのう)は、まだ6歳だったにも関わらず入水し、この世を去った人物です。
祖母である平時子(たいらのときこ)こと二位尼(にいのあま)と共に入水しました。
幼子ではありながらも、平氏の絶望的な状況を把握し、涙を流して入水した説もあります。
平時子
時子は安徳天皇と共に入水した人物で、安徳天皇の祖母にあたります。
入水時は安徳天皇だけでなく、三種の神器である草薙の剣を腰にさし、水中へ身を投げました。
これは時子が、三種の神器である草薙の剣を源氏へ渡さない強い意志があったからこそできた行動だったのではないでしょうか。
身を投げながらも、その後に貢献したい強い思いが感じられます。
平時忠は命乞いをして助かった
知盛・安徳天皇・時子と身を捨てた人物がいる中で、命乞いをして助かった人物が平時忠(たいらのときただ)です。
時忠は「平家にあらずんば人にあらず」の名言を吐いた人物で、時子の弟にあたります。
命拾いした後は能登の国へ流されたものの、命は取られずにすみました。
壇ノ浦の戦いの戦いをわかりやすく解説!平家軍の敗因はなんだった?|まとめ
平氏と源氏の歴史的な戦いである「壇ノ浦の戦い」。
源・平の数年に渡る戦いに終止符を打った伝説の戦いになりました。
両軍名のある人物が多く関係しており、規模の大きな戦いだったことがわかります。
結果的に状況が一変し源氏が勝利を掴みましたが、追い詰められてもなお戦っていた平氏の強い気持ちは、これからも伝えられていくでしょう。