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どうする家康・第29回『伊賀を越えろ!』服部半蔵は本当に役に立っていなかったのか?
徳川家康の生涯最大の危機とも言われる「伊賀越え」。
『どうする家康』第29回「伊賀を越えろ!」ではこの様子が描かれました。
ただし、伊賀越えについては実際に家康が辿ったルートなど諸説あり、定かなことはわかっていないのが現状です。
また、あの有名な服部半蔵が伊賀忍者たちに全く認識されていなかったという描写に驚いた方も多いかもしれません。
今回の記事は、伊賀越えと服部半蔵について、ドラマオリジナルの解釈と、最新の歴史研究の成果との違いなどを解説していきます。
目次
どうする家康・第29回「なぜ伊賀なのか?」
そもそも家康はなぜ伊賀を通るルートを選んだのでしょうか。
畿内から東海地方に帰るには様々なルートが考えられますし、わざわざ伊賀者と戦うリスクを負って伊賀を通る必要はあったのでしょうか。
結論から言うと、家康にはどうしても伊賀を通らざるを得なかった事情がありました。
事情①信長の弟に殺されるリスク
本能寺の変が起きた際、家康は堺に滞在しており、織田信長の弟・神戸信孝や重臣・丹羽長秀らから接待を受けていました。
普通に考えれば彼らを頼るのが得策に思えます。
しかし、家康には彼らを信用できない理由がありました。
本能寺の変後、疑心暗鬼になった信孝は明智光秀の娘婿であるという理由だけで親類の津田信澄を殺害しています。
ましてや家康は信長家臣団の中でも外様。
この混乱した状況で、家康が少人数の伴のみで信孝らを頼りに行くのはあまりにもリスキーだったと言えます。
事情②海路も危険だった
では海を渡って帰ればいいのではないかと思いますが、それもとても危険な選択肢です。
紀州(現在の和歌山県)の熊野灘は航海の難所として知られ、当時の航海術では難破する危険性もありました。
また、紀州には雑賀衆と呼ばれる反信長勢力や海賊といった危険な存在が数多く残っていたとも言われています。
このような理由から、消去法で伊賀を超えるルートを辿ったとされているのです。
前回のどうする家康、第28回『本能寺の変』の内容をおさらいをしてから解説を確認されたい方は、以下の記事をお先にご覧ください。
「どうする家康」第28回『本能寺の変』もはや恋。本能寺が変になるのは大河ドラマの伝統
伊賀越え伝承の地『京都山城』家康は人生最大のピンチをどう乗り越えたか!?
甲賀の多羅尾光俊
宇治を越えて甲賀へと入った家康一行をもてなしたのが甲賀の多羅尾光俊でした。
彼はどのような人物だったのでしょうか。
家康との関係性を中心に解説します。
親信長派の甲賀衆
甲賀衆の中には、信長に協力の姿勢を見せた一派もいれば徹底して反信長を貫いた一派もいて一枚岩ではありませんでした。
多羅尾光俊はそんな甲賀忍者の中でも、かなり早い段階から信長に恭順の意を示していたようです。
信長の息子・信雄が伊賀を平定し過酷な殲滅戦を行ったことでも知られる「第二次天正伊賀の乱」でも、光俊と息子の光太(みつもと)は信長方として戦ったと言われています。
そのため、彼は伊賀の人々からは恨まれている存在でした。
家康から知行
彼は家康の伊賀越えを手助けした褒美として、天正12年(1584)に家康から知行を与えられています。
伊賀越えのルートには諸説ありますが、光俊が家康から知行を貰っている事実が甲賀を通ったという説の根拠の一つとなっています。
光俊は後に秀吉に鞍替えしますが、秀吉の養子・秀次が殺される秀次事件に連座して改易されました。
ただし、光俊の子・光太と光雅はのちに家康の家臣となっていることからも、光俊が家康から受けた感謝は非常に大きかったものと思われます。
大和ルート説
伊賀越えに関して、大和国(現:奈良県)を通ったという説もあります。
甲賀に対して大和は真逆の方角ですが、『どうする家康』第29回ではここがとても上手く描かれていましたね。
家康が囮を使いながら隊を何手にも分けて行軍した結果、各地にこの時の家康の伝承が残ってしまったという解釈は見事でした。
酒井忠次・石川数正は別行動
『どうする家康』第29回の作中では、酒井忠次や石川数正は家臣の中でも年配のため、ついていくことが困難と判断し家康とは別行動をとっていました。
結果的にこの2人の大和ルートの方が家康本隊よりも安全で楽な行軍となってしまっていましたね。
実際に甲賀・大和両方に家康が通ったという伝承が残っていることからも、ドラマのように家康が何手かに分かれて行軍した可能性はありそうです。
家康の重臣として大きな存在感を放つ石川数正については、以下の記事で詳しく解説しているのでこちらも併せてご覧ください。
孤独の『石川数正』なぜ長年仕えた徳川家を出奔したのか?理由を解説!
穴山梅雪は家康の身代わりに
『どうする家康』第29回では、穴山梅雪が家康を名乗り身代わりとなって殺されるというシーンがありました。
穴山梅雪の最期については諸説あり、家康が見殺しにした・口封じのために殺した等と言われることもあるため、『どうする家康』の描写に違和感を覚えた方も多いかもしれません。
しかし、ドラマの解釈はあながちあり得ない話ではないと考えます。
実際、伊賀越えの後に家康は穴山梅雪の遺臣をすんなりと吸収することに成功しています。
遺臣たちが家康を疑うことなくあっさりと恭順していることからも、梅雪と家康には最後まで信頼関係があり、梅雪自ら囮になって死んだと解釈してもおかしくないのではないでしょうか。
これまでは、土壇場で武田を裏切って滅亡に追いやった「不忠者」として描かれることが多かった梅雪。
『どうする家康』で田辺誠一さんが演じたような、最後は家康のために死んだ「良い奴」としての梅雪を今後の戦国大河でももっと見てみたいですね。
家康と関わりの深い穴山梅雪については、以下の記事で詳しく解説しているのでこちらも併せてご覧ください。
赤備えの猛将「山県昌景」と野心溢れる智将「穴山梅雪」の因縁が深すぎる
伊賀越えのルートには諸説ありますが、最近の研究で判明した事実もあります。詳しくは以下の記事で解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
【神君伊賀越え】家康は何かを隠している?謎だらけの伊賀越えの真相
服部党と伊賀
こうして伊賀にたどり着いた家康一行ですが、『どうする家康』第29回では服部半蔵が伊賀者たちから相手にされず、全く役に立たない様子が描かれていました。
服部半蔵=伊賀忍者の棟梁というイメージが強い方は、ここで混乱してしまったのではないでしょうか。
服部半蔵家は、本当に伊賀で名の知れた名家だったのでしょうか。
近年では、そもそも服部半蔵が伊賀越えに参加していたのかどうかすらも疑問視されているようです。
この章で服部半蔵と伊賀忍者との関係を改めて確認していきましょう。
二千人の大将?
ドラマでは服部半蔵が「服部家は伊賀の名家だ」と言って伊賀者に笑われるシーンがありました。
実際、服部家に関する一次史料は少なく、服部家が名家だったかどうかは解っていないのが現状です。
伊賀で名のあった関岡家の家伝『関岡家始末』には「服部家は二千人の大将」と記述されていますが、後世に書かれた物であるため、史料としての信憑性は薄いとされています。
半蔵の父・服部半蔵保長
『どうする家康』作中では半蔵の父・服部半蔵保長も伊賀では無名の存在という風に描かれていました。
服部家の由緒書『寛政重修諸家譜』によると、保長は足利幕府の将軍・足利義晴に仕え、その後紆余曲折あって三河に流れつき松平家に仕えることになったと書されています。
この記述を信用するとしても、保長が伊賀国で活動していた事実は確認できないため、伊賀国内で名家として知られるような実績が無かったことは間違いなさそうです。
「神君伊賀越え」は作り話?
服部半蔵が何の役にも立たなかったとすれば、半蔵たち伊賀忍者が助けたからこそ家康一行が無事に帰還できたという神君伊賀越えの話と矛盾が生じてしまいます。
近年、研究者の間では、伊賀忍者が家康を助けたという話自体が作り話ではないか?とすら言われるようになっています。
徳川家の公式記録『徳川実紀』には、伊賀越えに服部半蔵や伊賀忍者が関与していたとする記述が一切ありません。
伊賀越えに伊賀忍者が協力していたという話は、服部家の『寛政重修諸家譜』など、伊賀忍者が自ら記述した書物に限定されています。
つまり、伊賀忍者たちは「我々は家康を助けた」と主張している一方、他の史料では彼らの関与がほとんど触れられていないというのが現状なのです。
伊賀者のアイデンティティ「伊賀同心」
伊賀忍者たちの活躍が確実にわかるのは、伊賀越えの後、家康が天下取りに邁進する頃になります。
その頃の功績により、江戸時代には伊賀忍者は将軍の親衛隊「伊賀同心」を務めることになります。
江戸時代に伊賀者が「将軍の親衛隊」という強いアイデンティティを獲得することになり、そこから逆算して「我々が将軍の親衛隊になれたのは先祖が家康の伊賀越えに協力したからだ」という設定が後付けされたのではないかとも言われているのです。
以下の記事では伊賀・甲賀の忍者や戦国時代において忍者はどのような存在だったのか、詳しく解説していますのでこちらも併せてご覧ください。
戦国時代の忍者はどんな存在だった?伊賀・甲賀・風魔・軒猿・黒脛巾組…
本多正信の帰参
『どうする家康』第29回で家康を救ったのは本多正信でした。
実際に伊賀越えの際に正信が家康を助けたという史料はなく、あくまでドラマのオリジナルの設定です。
では、本多正信がどのタイミングで家康のもとに帰参したのか、いくつかの説を解説していきます。
1570年 姉川の戦い
三河一向一揆で家康と戦った正信は、一向宗の勢力が強い加賀国(現:石川県)に移り、その後に家康の元に戻ることになります。
1570年、浅井長政・朝倉義景連合軍と織田信長・徳川家康連合軍が戦った「姉川の戦い」には既に本多正信が参陣していたとする説があります。
姉川の戦いの直前の金ヶ崎の戦いが起こったのは北陸地方なので、この時に加賀国から家康に合流したのかもしれません。
1582年 本能寺の変前?
では確実な史料から分かる本多正信の帰参時期はいつなのでしょうか。
1582年の本能寺の変後、武田旧臣への感状の中に本多正信の名前が出てくるため、本能寺の変の前後には確実に家康のもとにいたということがわかります。
この感状の中で彼が家康の一家臣として認められていることからも、本能寺の変前には家康のもとに戻ってきていると考えるのが自然ではないでしょうか。
本多正信の下積み
帰参した本多正信ですが、すぐに家康配下の武将になれたわけではありませんでした。
はじめは鷹匠として家康の雑用をこなすところから始まったと言われています。
これは大久保忠世の弟・大久保忠教の『三河物語』や『徳川実紀』などの史料から明らかになっています。
その後の本多正信の活躍もあり、家康は天下統一を果たすことになります。本多正信の功績については以下の記事で詳しく解説していますので、こちらも併せてご覧ください。
裏切り者?『本多正信』家康の天下統一に最も貢献した名参謀
どうする家康・第29回『伊賀を越えろ!』服部半蔵は本当に役に立っていなかったのか?│まとめ
『どうする家康』第29回「伊賀を越えろ!」では、伊賀越えに関する様々な説との整合性をとりながら、ドラマとしてもとても面白いシナリオになっていましたね。
現代において服部半蔵のネームバリューが独り歩きしすぎた結果、伊賀越えで半蔵が活躍していなかったという解釈に疑問を持った方も多かったのではないでしょうか。
実態はドラマのように伊賀での知名度も低く、本格的に家康の力になったのも伊賀越えより後の時期だったのかもしれません。