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「どうする家康」30話『新たなる覇者』ネタバレ解説!秀吉の織田家乗っ取り!
『どうする家康』30話では、本能寺の変以後の目まぐるしい情勢の変化が描かれていて、付いていくのが大変だった方も多いかもしれません。
中でも、清須会議で主導権を発揮し、ライバルの柴田勝家も倒して、天下人へと邁進していく羽柴秀吉の活躍が際立っていましたね。
今回の記事では、そんな盛りだくさんの内容だった『どうする家康』30回「新たなる覇者」を、ネタバレを含みつつわかりやすく解説したいと思います。
※本記事は史実解説のため、NHK大河ドラマ「どうする家康」のネタバレを含む内容がございます。予めご了承ください。
清須会議
本能寺の変により、織田家は当主の信長と嫡男の信忠を同時に失うことになりました。
このように大混乱した織田家の運営をめぐって、織田家重臣たちが清須城に集合し会議を開いたと言われています。
これが世にいう「清須会議」です。
羽柴秀吉は、早速ここで天下取りに向けて織田家中の主導権を握ることになります。
信長の嫡孫・三法師
最新の歴史研究においては、清須会議の前から織田家の跡継ぎは信長の孫・三法師に決まっていたと言われています。
よって現在では、まだ幼い三法師を誰が支えていくのかということが清須会議のメインの議題であったと考えられているのです。
この会議の結果、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興ら織田家重臣たちによる合議制による政権運営が決定されました。
三法師が成長するまでの間、信長の息子の生き残りである信孝・信雄(のぶかつ)のどちらかが家督を代理するという案もありましたが、両者の家督争いを避けるため、三法師・織田家臣体制に落ち着いたと言われています。
ただし、2022年大河『鎌倉殿の13人』でも描かれたとおり、合議制というものはいずれは瓦解し、最終的に内輪揉めに発展するというのは歴史の常。
結局はこの合議制もほどなくして秀吉が牛耳っていくことになります。
秀吉のライバル・柴田勝家
そんな秀吉に対抗すべく、秀吉のライバル・柴田勝家は信長の妹・お市と結婚することになりました。
また、彼は信長の息子・信孝とも手を組み、ここに反秀吉陣営が出来上がります。
勝家とお市の結婚の本当の理由については、一次史料が存在せず明確なことはわかっていません。
『どうする家康』30話で描かれたように、秀吉による織田家の乗っ取りを阻止したいお市と、秀吉に対抗したい勝家の思惑が一致した格好だったのかもしれません。
領地配分
清須会議後の旧織田家の領地配分を見てみると、秀吉が独り占めしたわけではなく、他の織田家家臣に不満を持たれないように彼らをバランスよく配置していることが伺えます。
最大のライバルとも言える柴田勝家に対しても、北陸の広大な領地だけでなく自身が治めていた近江国(現:滋賀県)長浜の地までも分配しています。
秀吉は信長の旧領をむやみに独り占めをするわけではなく、他の織田家臣に対してもかなり気を遣って裁量を下しました。
秀吉の野心?
『どうする家康』30話では描かれませんでしたが、同じ頃、秀吉が織田家家臣団の中で主導権を握るため、周囲の反対を押し切り、大徳寺にて信長の葬儀を強行したというエピソードも知られています。
加えて、秀吉は山城国(現:京都府)に山崎城という新たな城を築くなど、天下取りへの野心ともとれる挑発的な行為を繰り返していました。
ただし、これらの行為を見て「秀吉が天下取りのために勝手な行動をとった」と断罪することについては反論もあります。
秀吉はかねてから大徳寺で信長の葬儀を行いたい旨を表明していたものの、秀吉の主導で行われることを快く思わない柴田勝家や信孝・信雄らに反対され、仕方なく強行したという見方もあるのです。
天下人・織田信長の急死によって発生した全国規模の大混乱を鎮めるためにも、信長の葬儀は区切りとして行わなくてはならない重要な儀式です。
それを、秀吉の思うままにさせたくないからといって葬儀に反対した勝家らにも非はあるのではないでしょうか。
事実、丹羽長秀や池田恒興はこの葬儀実行に賛成しており、清須会議で決定された合議制による多数決を秀吉が獲得していることからも、大徳寺の葬儀決行が単なる秀吉の野心によるものとする批判は無理があると言えます。
また、秀吉の山崎城建設への批判も、当時の畿内は信長の急死により混乱に陥っていたため、築城は畿内の治安維持のための当然の処置だとする見方もあります。
どうする家康ではサイコパス気味に描かれている豊臣秀吉ですが、本当の秀吉はどうような性格だったのでしょうか?以下の記事では史実を基に、豊臣秀吉の人物像について考察しています。
豊臣秀吉はどんな性格だった?史実の残るエピソードを紹介!
天正壬午の乱
さて、秀吉の話が長くなってしまいました。
ここからは主人公・家康についての解説です。
織田家家臣の中でも大きな力を持っていた家康は、なぜ秀吉らに遅れをとることになったのでしょうか。
これには、家康は当時関東で起こっていた「天正壬午の乱」の鎮圧に追われていたため、信長死後の織田政権運営に関わることができなかったという事情があるのです。
『どうする家康』30話ではあっさりと片付けられてしまった天正壬午の乱ですが、これは家康の生涯の中でも重要な出来事とも言われています。
この乱において家康は、入念な根回しだけでなく、それまで見せてこなかった残虐な一面を見せるなど、戦国武将として多くを経験し円熟味を増した姿も伺えます。
この章ではそんな天正壬午の乱について詳しく解説します。
黒駒合戦
『どうする家康』30話では、家康の重臣・鳥居元忠の活躍とともに「黒駒合戦」が描かれていました。
元々武田氏の本拠地だった甲斐国(現:山梨県)・黒駒で、2万の軍勢を誇る北条軍に対し徳川軍がたったの3千の兵で撃退した戦いです。
戦は兵の数だけが物を言うわけではありません。
兵の数が多ければ多いほど統率が難しくなる上、平野部と違い山間部では大軍の利を活かしきれないという点が挙げられます。
研究者の間でも、この時の北条軍は兵数の差に油断しており、甲斐の町で放火や略奪にかまけていたことが敗因だったとも指摘されています。
また家康は、かつての穴山梅雪のように、戦が始まる前から武田の旧臣たちを上手に取り込んでいたことも勝利に繋がりました。
幾度も修羅場をくぐり抜け、戦国大名として円熟味を増した家康は、十分な根回しによって数に劣る北条軍を撃退することに成功したのです。
家康、北条兵を晒し首に
同時にこの戦いでは、家康は非常に残酷な一面も見せています。
家康は、討ち取った大量の北条の兵の首を新府城に晒したのです。
この一計によって、兵数差に油断していた北条兵は大きく戦意を喪失したと言われています。
この頃の家康は42歳。これも戦国武将として成長した姿なのかもしれません。
徳川・北条同盟
こうして戦いを優位に進めた家康は、北条との和平に踏み切ります。
家康が戦いを終わらせたかった理由としては、織田家の援軍が来てくれず、北條氏を完全に追い払うことができないと判断したと考えられます。
家康は織田家旧領を守るという名目で北条氏と戦っていたものの、同じ頃には秀吉と勝家が揉めていたことなどから、織田方が家康のいる関東まで援軍を送る余裕がありませんでした。
こうして成立した徳川・北条の和睦により、甲斐・信濃(現:長野県)は徳川方に、上野(現:栃木県)は北条方に分配するという形で手が打たれました。
真田昌幸
上野国を北条方に分配する際、大きな問題が生じます。
上野国には真田昌幸がいたのです。
彼は、元々織田家家臣の滝川一益に臣従していましたが、本能寺の変後に一益が敗走。
その後は上杉→北条→徳川とコロコロと鞍替えをしながら保身をしていました。
昌幸は、家康に臣従していた頃に上野国の所領を安堵されていましたが、上野国を北条に明け渡すタイミングで昌幸の領地は北条に没収されることになります。
これが昌幸と家康が戦った第一次上田合戦の火種となるのです。
真田昌幸は、『どうする家康』では佐藤浩市さんがキャスティングされており、今後の登場が楽しみですね。
織田大名としての家康
数々の苦難がありながらも何とか天正壬午の乱を乗り越えた家康は、秀吉・勝家の戦いを傍観するという選択をとります。
ドラマでは、家康は勝家のもとにいるお市を見捨て、若い頃に彼女と交わした約束を破る決断を下すという設定でしたね。
なぜ家康は秀吉・勝家の戦いに介入しなかったのでしょうか。
それは、家康が「織田大名」という立場を優先したためです。
これはどういう意味でしょうか。
今後のドラマのネタバレも含めて解説します。
関東平定優先
本能寺の変の直後、家康は明智光秀討伐に参戦できませんでした。
そして、既に光秀を討った秀吉に、織田家の命令として関東の鎮圧を要請されています。
そういった経緯もあり、この頃の家康は織田家の命による関東情勢の沈静化が最優先だったのです。
家康、秀吉・信雄陣営に味方
秀吉はついに勝家討伐のため近江国(現:滋賀県)に出兵。
『どうする家康』30回では、家康のもとに秀吉・お市両方から贈り物が届いたものの返事を保留するというシーンがありましたが、史実の家康は既に秀吉が担いでいた織田信雄を支持しています。
これも、家康が織田家大名としての立場を重視した結果、織田家の代表者としての正当性があると判断した信雄に味方する道を選んだのだとされています。
徳川家康について深掘り解説した記事もございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
徳川家康の生涯を1歳~75歳までをわかりやすく一気に解説!
不利に陥る柴田勝家
こうして秀吉vs勝家の戦いの火蓋は切って落とされます。
最終的に勝家は、反乱軍の烙印を押され賤ヶ岳の戦いで滅びることになりますが、歴戦の武将である彼が信長の三男・信孝を擁したにも関わらず秀吉に負けてしまった理由は何だったのでしょうか。
ここでは、勝家側の状況がどのように変化し、賤ヶ岳の戦いの敗北に至ったのかを、ネタバレも含めながら解説していきます。
柴田勝豊 降伏
近江国・長浜城にいた柴田勝家の養子であり跡継ぎの柴田勝豊があっさりと降伏しました。
この降伏の理由については、勝豊が勝家に対して不満を抱いていた、重篤な病にかかっていた、大雪が降っていた等様々な説が存在しますが、一次史料が存在せずはっきりとしたことは解っていません。
ともあれ、勝家にとって重要拠点だった長浜城が陥落したことによって戦況は勝家不利に大きく傾きます。
人望なき信孝
勝家が手を組んでいた信長の遺児・信孝も、かつて信長の居城であった岐阜城で挙兵するもあっさりと敗れてしまいました。
本能寺の変後、四国征伐の総大将を任されていながら、配下の兵たちの統制が取れず離散を招いた等、信孝には人望がないと思われても仕方がないようなエピソードも残っています。
この岐阜城での挙兵の際も、美濃国(現:岐阜県)の国衆たちがあっさりと秀吉側についてしまい、なすすべもなく敗れてしまったと言われており、これも彼の人望の無さが原因なのかもしれません。
信長の息子だからといって無条件に人々が付いてきてくれる訳ではなかったんですね。
賤ヶ岳の戦い
さて、いよいよ秀吉と勝家の直接対決「賤ヶ岳の戦い」です。
この戦いで敗れた勝家は、妻のお市と共に果てることになります。
戦国時代の中でも有名な戦いですが、賤ヶ岳の戦いには一次史料が少なく、詳しいことはわかっていないのが実情です。
ここでは、様々な伝承や二次史料から見える賤ヶ岳の戦いのエピソードをネタバレ解説します。
佐久間盛政の活躍
賤ヶ岳の戦いは、秀吉があっさりと勝利したイメージが持たれることも多いですが、実際には秀吉軍を大きく苦しめた勝家軍の猛将がいました。
それが佐久間盛政です。
彼は、秀吉軍の歴戦の武将・中川清秀を討ち、秀吉軍に大ダメージを与えることに成功しています。
賤ヶ岳七本槍
賤ヶ岳の戦いにおける秀吉軍の猛将伝説として有名なのが「賤ヶ岳七本槍」でしょう。
加藤清正・福島正則・脇坂安治・片桐且元・平野長泰・糟屋武則・加藤嘉明の7名の武将が活躍したと言われています。
彼らの賤ヶ岳での活躍は一次史料には見えませんが、この時の秀吉軍は前述の中川清秀や池田恒興・仙石秀久ら有力武将を欠いていたこともあり、この秀吉側近7名が活躍する余地は大いにあったとも考えられます。
前田利家の離脱
賤ヶ岳の戦いの秀吉の勝利を決定付けたとされているのが前田利家の離反です。
利家は勝家にとっては家来ではなく、与力大名と呼ばれる同盟者のような武将でした。
こうした立場にあったため、利家は秀吉優勢の戦況を見て勝家から離反したものと考えられています。
この時、勝家は裏切られたにも関わらず、利家から預かっていた人質を殺すことなく解放してあげたとも言われており、勝家の男気を物語るエピソードとして語り草にもなっています。
人質の解放は甘すぎる処断かもしれませんが、こうした戦国大名らしからぬ優しさが彼の人気の理由の一つになっていることは間違いないでしょう。
勝家・お市 自害
こうして次々と味方を失い追い詰められた勝家は、北ノ庄城にてお市と共に自害したと言われています。
女性であり信長の近親者でもあるお市は、脱出して生き延びることも可能だったでしょうが、勝家と共に死ぬことを選びました。
『どうする家康』30回では「お市様こそが総大将だ」とも言われていましたが、それだけ相当な覚悟で秀吉に立ち向かっていった様子が描かれていましたね。
お市については、以下の記事でも詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
『お市と浅井長政が信長を裏切った理由とは?~朝倉義景に従属を続けた国衆〜』
「どうする家康」30話『新たなる覇者』ネタバレ解説!秀吉の織田家乗っ取り!│まとめ
今回の記事では、『どうする家康』30回「新たなる覇者」で描かれたシーンを史実と照らし合わせてネタバレ解説をしてきました。
30話では、信長なき後猛烈な勢いで天下人へと駆け上る秀吉の活躍がしっかり描かれていましたね。
また、ドラマの最後には、いよいよ家康のラスボス・茶々(淀殿)も登場しました。
彼女は、親の仇である秀吉の側室になる事もすんなりと受け入れただけでなく、妹たちの面倒も見るようにと秀吉に対して交換条件を突きつけた等、とても肝の据わった少女だったと言われています。
『どうする家康』30話で描かれたように、自分が天下を取るという野心をもって秀吉に近づいていったという描写もあながち間違いではないかもしれません。
ここから彼女がどう成長して家康のラスボスとして立ちはだかるのかも楽しみですね。