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どうする家康・34話『豊臣の花嫁』ネタバレ解説!秀吉と家康の和睦は既定路線だったのか?
「どうする家康」34話では、秀吉の妹旭姫が家康の正妻となり、ついに家康が秀吉に臣従することになりました。
「瀬名との約束を守る」という名目で意地でも秀吉には頭を下げなかった家康でしたが、石川数正のせいにすることで自らを納得させ、臣従する決断を下しました。
「どうする家康」ではこのように描写された家康の臣従でしたが、実際の歴史学的にはどのように解釈されているのでしょうか。
実際には、秀吉と和睦するにあたって、家康には様々な葛藤があったようです。
今回は、家康の秀吉への臣従を歴史学的に紐解きながら、「どうする家康」34話『豊臣の花嫁』をネタバレ解説したいと思います。
目次
石川数正の出奔の影響
「どうする家康」33話で家康の重臣・石川数正が出奔しました。
数正の裏切りが徳川家に与えた動揺は凄まじく、大きな影響があったようです。
まずは、石川数正出奔によって起こったいくつかの出来事をネタバレ解説します。
岡崎城の大改修
徳川家を知り尽くした数正の出奔は、徳川家に対し、第一に軍事面に多大なる影響を及ぼしました。
中でも、かつて数正が城代を務めていた岡崎城は秀吉の領地の目と鼻の先であり、家康の対秀吉の最重要拠点でした。
岡崎城の情報が秀吉方に漏洩し、容易に攻略されることを恐れた家康は、岡崎城の大改修を行いました。
また、岡崎城には徳川家家臣の妻子もたくさん入っていましたが、秀吉との戦に備えて岡崎城から避難させられています。
『三河物語』によると、この時には、岡崎城に残した妻子が人質として数正に捕らわれたという噂が家臣たちの間で流れていたようです。
それほど、数正出奔直後の岡崎城には緊張感が漂っていたのでしょう。
軍制改革 武田流軍法へ
「どうする家康」34話でも触れられていましたが、数正が秀吉に寝返ったことにより、徳川家の軍事機密である「軍制」の漏洩も懸念されました。
軍制とは、各大名が率いる兵数や編成等の情報のことであり、まさにトップシークレットと言える軍事機密です。
ここで徳川家は、軍制を武田流のものへと改めることで、情報の漏洩に備えました。
小笠原貞慶の侵攻
数正の出奔後、緊張感の漂う岡崎では実際に戦闘が起こることはありませんでしたが、信濃国では軍事衝突が勃発しました。
信濃国の国衆・保科正直のもとに小笠原貞慶という武将が侵攻を始めたのです。
小笠原貞慶は、家康に臣従して信濃国を与えられた際、息子を石川数正のもとへと人質に送っていました。
ところが、数正が岡崎城を脱出する際に貞慶の息子も一緒に連れて行っていました。
息子が人質ではなくなり安全が確保されたことで、貞慶は徳川領に攻撃を仕掛けたのです。
「石川数正は徳川家を守るために秀吉のもとに出奔した」という説もありますが、この戦闘は数正の出奔によって起きたものであり、数正と貞慶が事前に示し合わせた上で両者が徳川家を裏切った可能性もあります。
石川数正の裏切りの真相については、以下の記事で詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
孤独の『石川数正』なぜ長年仕えた徳川家を出奔したのか?理由を解説!
【裏切り者?!】石川数正は息子を守るために秀吉に寝返った!どうする家康解説
石川数正は秀吉に入り込んだスパイだった?裏切り・出奔の真相に迫る!
天正大地震でピンチを回避する徳川家康
小笠原貞慶の攻撃により、家康と秀吉が再度本格的にぶつかる危険もありましたが、保科正直の奮戦によって撃退されました。
このように家康と秀吉が一触即発の緊張感に包まれる中、天正13年11月、天正大地震が発生し、情勢は一変します。
この大地震による畿内の被害は凄まじく、畿内を本拠地にしていた秀吉も家康討伐を断念せざるを得なくなりました。
「どうする家康」34話中の秀吉の台詞にもあった通り、家康は秀吉に潰されるピンチを回避する豪運を発揮するのです。
この章では、天正大地震の与えた凄惨な被害について、ドラマでは触れられなかった点も含めてネタバレ解説します。
家康の強運
天正大地震が起きた頃、家康は周りを敵に囲まれており、彼らが一斉に蜂起すれば滅亡していた可能性すらあったと言われています。
三河には秀吉本隊が攻めてくる可能性もありましたし、信濃には真田昌幸や小笠原貞慶、越後には上杉景勝もいました。
天正大地震は、畿内だけでなく北陸地方にも被害を及ぼしていたため、家康は図らずも窮地を脱することになるのです。
一方、家康の主要な領地にはあまり大きな被害はなかったとされています。
天正大地震の被害
天正大地震によって、家康討伐の最前線である長島城や大垣城も倒壊・焼失する被害に遭いました。
また、かつて秀吉が治めていた近江・長浜城も倒壊し、当時城を治めていた山内一豊の一人娘が亡くなるという不幸も起こっています。
飛騨国では、帰雲城の倒壊によって、この城に集まっていた内ケ島氏が一族もろとも亡くなるという悲劇も起きました。
秀吉と家康の和睦への道
家康に対しては「武力討伐もやむなし」という姿勢をとっていた秀吉でしたが、天正大地震で甚大な被害を受けた影響で、一転して和睦路線へと舵を切ることになります。
ただし、秀吉・家康はお互いに譲らなかったため、和睦交渉は簡単には決着がつかず、地震発生から和睦締結までに約1年もの歳月を要しました。
お互いに駆け引きをしつつ、簡単には和睦をしないという意地の張り合いが続いたのです。
この章では、そんな秀吉・家康が和睦に至るまでの過程を、「どうする家康」34話のネタバレも含めながら解説します。
織田信雄の仲介
まず和睦の仲介役を買って出たのが、家康と共闘していた織田信雄です。
それまでにも信雄は、家臣を通じて戦をやめるようにと家康に提案したことはありましたが、ここで信雄自らが家康のもとに出向いて直接会談することになりました。
「どうする家康」34話ではこのシーンも描かれており、完全に戦意を失った信雄に対して家康は「元々あなたが勝手に講和したからだ」と怒りを露わにしていましたね。
尾張国を所領にしていた信雄は、秀吉と家康が再び衝突することになった場合、真っ先に巻き添えを食らう状況にいました。
信雄が、家康が矛を収めるようにと必死に説得していたのはこういう事情があったためです。
織田信雄については以下の記事でも詳しく解説しておりますので、是非こちらも併せてご覧ください。
天下人の息子『織田信雄』戦国乱世を生き抜いた異能生存体。家系図も紹介!
隠さない秀吉への敵意
信雄の仲介も功を奏したのか、家康は秀吉の妹・旭姫を正妻に迎えようという態勢にはなっていましたが、火種が完全に消えたわけではありませんでした。
このタイミングで、家康は同盟関係にあった北条氏政・氏直と対面し、「今後秀吉と戦うことになるからよろしく」という意味の挨拶を交わしたとされています。
信雄の顔を立てて旭姫との婚姻は決定した家康でしたが、いざとなった時は戦う姿勢も見せているのです。
また家康は、房総の名家であった里見家の里見義康に対しても「共に戦おう」という趣旨の誓紙を出しています。
「家康は秀吉と和睦する気ではいたものの、家臣に示しを付けるためにあえて戦意をむき出しにしていた」という説もありますが、以上の家康の行動を見てみると、どうやらまだ完全に秀吉への服従を決断できていないようにも思えます。
旭姫
秀吉の妹である旭姫は、政略結婚のため、44歳にして夫と離縁させられ家康のもとへと嫁ぐことになりました。
この時に旭姫を迎えに行った天野康景は、家康の幼少期から仕えていた重臣でしたが、秀吉に認知されておらず、「もっと有名な者を連れてこい」と門前払いされたという話があります。
結局、代わりに本多忠勝が旭姫の迎えに行くことで事は終結したのですが、最初から有名武将を秀吉のもとへと送らなかったのも家康なりの駆け引きだったのかもしれません。
徳川家康の上洛
こうして、旭姫と家康は無事に婚姻に至りました。
和睦に際し、家康は秀吉のもとへと上洛することになりますが、ここでも一悶着あり、スムーズに事は運ばなかったようです。
最後に、家康が秀吉との和睦を決断し、上洛する際の様々なエピソードをご紹介しつつ、「どうする家康」34話のネタバレ解説をしていきます。
酒井忠次 上洛反対
『三河物語』などによると、酒井忠次ら徳川家重臣は、家康が秀吉に殺害されることを警戒し、上洛には反対していたといいます。
「どうする家康」では穏健派として描かれている酒井忠次ですが、実際には「同盟しても上洛する必要はない」と主張していました。
家康の上洛に際しても賛成・反対で揉めていたようです。
追加の人質「大政所」
長宗我部元親や佐々成政が秀吉に命を取られることなく許されていることからも、家康は秀吉を信用して上洛を決意します。
秀吉も、家康に安心して上洛して貰えるよう、実母の大政所を追加の人質として家康に差し向けています。
このように、旭姫の婚姻が決定した後でも、家康・秀吉の周囲ではまだまだ余談を許さない空気だったことが伺えます。
家康、ついに上洛
天正14年10月、ついに家康は上洛。秀吉との対面を果たします。
石川数正の出奔からおよそ1年後のことでした。
多くの家臣団を抱える秀吉・家康のような大大名が、周囲を納得させて和議を結ぶことの難しさがよく分かる一例ですね。
どうする家康・34話『豊臣の花嫁』ネタバレ解説!秀吉と家康の和睦は既定路線だったのか?│まとめ
「どうする家康」34話『豊臣の花嫁』の背景を歴史学的知見を交えて解説しました。
戦を終わらせるという事は並大抵のことではなく、和睦の交渉にあたっていた石川数正の心労も察して余りあるものがあります。
「どうする家康」では今後も石川数正の登場はあるのでしょうか。
楽しみにしたいですね。