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今川家はなぜ『名門』と呼ばれるのか?家系図を使ってルーツを解説!
今川家は室町時代の名門として有名な一族であり、家系図をたどると元は足利家にたどり着きます。
一方、今川家が立派なのは血筋だけではありません。
室町幕府の草創期から足利将軍に尽くし、幕府のためにさまざまな戦いに臨んだ武勇の一族でもあります。
桶狭間の戦いで織田信長(おだのぶなが)と戦った今川義元(いまがわよしもと)は、「海道一の弓取り」と称されており、それだけ武勇に優れていたのでしょう。
今回は今川家の家系図から名門である理由を解説するとともに、室町時代から戦国時代までの今川家の活躍をご紹介していきます。
戦国時代で有名な今川義元についても解説するので、戦国好きで今川家の歴史に興味がある方はぜひ読んでみてください。
足利家から始まる名門今川家の家系図
今川家の家系図は名門足利家から始まりますが、実は血筋だけで見るとそこまですごいわけではありません。
最初は鎌倉時代の御家人・足利義氏(あしかがよしうじ)から始まり、身分が低い母親との間に生まれて跡を継げない庶子・吉良長氏(きらながうじ)から、家系図が分家の吉良家に別れました。
足利義氏とは?
文治5年(1189年)に足利義兼(あしかがよしかね)の3男として生まれ、承久3年(1221年)に起きた承久の乱の戦功から、恩賞として三河守護職と額田郡・碧海荘・吉良荘の地頭職が与えられました。
さらに吉良長氏の息子の今川国氏(いまがわくにうじ)から今川を名乗り、代々今川家の家系図を繋いでいきます。
ここまでの話をまとめると、足利家から吉良家が分かれ、さらに分かれた分家が今川家ということになります。
「足利が滅べば吉良が継ぎ、吉良が滅べば今川が継ぐ」という言い伝えもありますが、将軍となる優先順位はそこまで高くなかったのでしょう。
血筋だけではない、武勇に優れた名門今川家
一方、今川家が名門と呼ばれる理由はその血筋だけではありません。
南北朝時代から室町幕府に貢献してきた歴史もあって、戦国時代に名門と呼ばれてきたのです。
ここからは今川家の南北朝時代における活躍に迫っていきます。
青野原の功績で今川家は駿河・遠江の守護に
南北朝時代の今川家当主は、遠江守護の今川範国(いまがわのりくに)という人物でした。
当時は後醍醐天皇による建武政権でしたが、鎌倉幕府の滅亡から程なくして後醍醐天皇と足利尊氏(あしかがたかうじ)が対立し、北朝の足利尊氏と奈良で南朝を立ち上げた後醍醐天皇の戦いが始まります。
今川範国は南北朝の対立で親戚の足利尊氏に味方し、南朝の武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)と青野原で戦うことになりした。
青野原の戦いとは?
1338年に美濃国青野原で起きた合戦。
後醍醐天皇の足利尊氏討伐の呼び掛けに応じ、上洛を目指す北畠顕家率いる軍勢と土岐頼遠らの足利勢が戦います。
顕家は青野原で勝利したものの、近江から京への突破をあきらめて上洛は叶いませんでした。
青野原の戦いの活躍は軍記物語にも書かれており、有名な「今川赤鳥紋」の旗印はこのときの功績から使われるようになったと言われています。
今川家の活躍はそれだけ名誉のあるものだったのでしょう。
また、赤鳥紋は家紋ではありませんが、今川義元の時代にも旗印に使われています。
南朝との戦いの活躍で範国の息子・今川範氏(いまがわのりうじ) は駿河の守護に就き、今川家は親子で2カ国の守護を務める巨大な家に成長しました。
対鎌倉府の最前線を担う今川家
鎌倉幕府が滅亡して政治の中心は京に移りますが、鎌倉も重要な土地であることには変わりません。
そのため、鎌倉は足利家の一族が「鎌倉府」という拠点を置いて支配していました。
その鎌倉府のトップである鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)は、室町幕府の6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と対立します。
実は足利義教はくじ引きで選ばれた将軍であり、そこに足利持氏が異を唱えたことから対立が始まりました。
一歩間違えると室町と鎌倉で戦になり兼ねない緊張感の中、その中間に位置する遠江と駿河を守護する今川家の当主・今川範政(いまがわのりまさ)は、京から駿河に下向します。
当時の守護は在京しつつ遠隔で領地を支配するのが基本ですが、持氏が侵攻する危険性が高いことから、範政は急遽最前線の駿河に向かいました。
ここから代々今川家の当主は鎌倉公方の侵攻を防ぐため、最前線の駿河で室町幕府を守る役割を担うのです。
実際にこの後は永享の乱・享徳の乱・応仁の乱と次々に戦乱が起こりますが、毎回今川家の当主が駆け付けて対処していました。
名称 | 年号 | 内容 |
---|---|---|
永享の乱 | 1438年 | 幕府からの独立を狙って鎌倉府の足利持氏が室町幕府に起こした戦い |
享徳の乱 | 1454年 | 鎌倉府の足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害したことで始まった公方派と管領派の戦い |
応仁の乱 | 1570年~1574年 | 管領細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が戦った内乱 |
今川家から最初の戦国大名・北条早雲が誕生
応仁の乱では当主の今川義忠(いまがわよしただ)が討死してしまう事件も起きており、それだけ危険な最前線で戦っていたのでしょう。
ちなみに義忠の妻の弟が、後に北条早雲(ほうじょうそううん)となる伊勢盛時(いせもりとき)です。
義忠の跡継ぎとなる今川氏親(いまがわうじちか)がまだ幼かったため、盛時は氏親を助けるために活躍しました。
盛時はその中で着々と力をつけ、最初の戦国大名と呼ばれる北条早雲になっていくのです。
海道一の弓取り、今川義元の登場
戦国時代に入ると今川家からは、あの有名な戦国武将・今川義元が登場しました。
義元は「海道一の弓取り」と呼ばれるほどの武将で、この義元が登場する経緯にも興味深い話があります。
ここからは今川家の家系図で義元を中心とする一族の流れを見ながら、戦国時代につながるまでの経緯を見ていきましょう。
花倉の乱で勝利し義元が今川家当主に
義元の父は今川氏親で、応仁の乱で討死した今川義忠の息子です。
当初義元に今川家を継ぐ予定はなく、兄の今川氏輝(いまがわうじてる)が当主となっていました。
この氏輝が病で急死し、弟の彦五郎も同時期に死んでしまいます。
そこから後に義元と名乗る栴岳承芳(せんがくしょうほう)と、玄広恵探(げんこうえたん)の2人が家督をめぐり対立し、「花倉の乱」が起きてしまうのです。
ちなみに2人は兄の氏輝が家督を継いだため、当初は寺に入り僧となっていました。
花倉の乱とは?
天文5年(1536年)に栴岳承芳と玄広恵探が今川家の家督を争った一連の戦い。
玄広恵探は外祖父の福島氏と花倉城で挙兵しますが、思うように味方を集められず連敗し、最期は善門寺で自害しました。
花倉の乱で勝利した栴岳承芳は、今川家の当主となり今川義元と名乗ります。
実は「義元」の「義」は当時の室町幕府将軍・足利義晴からの偏諱を受けており、室町幕府から当主として公式の承認を得たと言えるでしょう。
室町幕府の第15代にして最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)については、以下の記事で詳しく解説しているので、是非こちらも併せてご覧ください。
やっぱり無能?足利義昭はなぜ織田信長を裏切ったのか?
戦国大名・今川家として独立
一方、このときすでに北条早雲によって鎌倉府は滅ぼされていて、室町幕府にとって今川家の利用価値は薄れていました。
そこで今川義元は幕府からの独立を図り、戦国大名としての地位確立を目指します。
今川家には父・氏輝の代から今川仮名目録という独自の法があり、義元はそこに21ヶ条を追加して独立色をさらに強めました。
今川仮名目録とは?
今川氏親が大永6年(1526年)に定めた33ヵ条の分国法。
内容は地頭と名主の関係や土地の境界争い、金銭貸借の利子に加えて、喧嘩盗賊取締など多岐にわたる。
今川義元はここから関東の北条氏や甲斐の武田氏としのぎを削りながら、東海の覇者として名を馳せていきます。
ちなみに今川家の源流である吉良家は戦国時代には没落しており、ここからも今川家の強さがわかりますね。
後の今川義元を父に持つ今川氏真の戦いについては、以下の記事で詳しく解説しているので、是非こちらも併せてご覧ください。
『今川氏真』長篠の戦にも参戦!?旧領復帰を諦めなかった「ばかなる大将」
今川義元はなぜ『名門』と呼ばれるのか?|まとめ
今回は今川家が名門と呼ばれる理由や戦国時代までの活躍を解説しました。
たしかに今川家は足利一族の家系図から分かれていますが、南北朝時代から戦国時代まで常に戦乱の中にいた、叩き上げの戦国大名という一面もあります。
まさに血筋と実力を両方持ち合わせた真の名門とも言えるでしょう。
今川家の歴史を知った上で今川義元のことにも注目すると、今までとは違った戦国時代が見えてくるのではないでしょうか。
▼主な参考文献