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『第四次川中島の戦い』陣形や布陣図を使って解説!勝敗はどっち?
第四次川中島の戦いは戦国最強と呼ばれる二人、越後の龍・上杉謙信(うえすぎけんしん)と甲斐の虎・武田信玄(たけだしんげん)が激突した戦いです。
戦国時代はさまざまな合戦が繰り広げられましたが、その中でも特に人気の高い合戦ではないでしょうか?
一方、第四次川中島の戦いに関する良質な資料はほとんどなく、合戦の経過や勝敗について歴史学的な実態がほぼわからないのも事実です。
今回は武田家の軍法などをまとめた『甲陽軍鑑』の内容から、通説として語られている話や「実は違うのではないか?」と言われている話、戦いに至るまでの経緯や最終的な合戦の勝敗などを解説していきます。
布陣図を使いながら陣形などについても説明するので、第四次川中島の戦いの詳細な戦闘に興味がある人はぜひ読んでみてください。
目次
第四次川中島の戦いに至るまでの経緯
陣形・布陣図の説明
青色:上杉軍
赤色:武田軍
まずは第四次川中島の戦いに至るまでの経緯を解説していきます。
第四次川中島の戦いは永禄4年(1561年)、上杉謙信と武田信玄が信濃北部を争った戦いです。
謙信はこの直前まで関東管領として関東に出兵し、北条氏の小田原城を包囲していました。
しかし、武田家はその隙を突いて信濃北部に領土を拡大し、1561年8月に海津城を築城します。
このままでは本拠地の越後にも危険が及ぶため、謙信は急いで信濃に出陣して武田との戦いに臨みました。
海津城とは?
上杉謙信との合戦に備えて武田信玄が築城した城で、山本勘助(やまもとかんすけ)が80日で普請したと伝わっています。
武田家滅亡まで北の最前線としての役割を果たし、松代藩3代目藩主の真田幸道(さなだゆきみち)のときに「松代城」と改められました。
第四次川中島の戦いにおける両軍の布陣とは?
第四次川中島の戦いは北の犀川と南の千曲川に挟まれた川中島を主戦場として、武田・上杉両軍が激戦を繰り広げました。
戦場の各所には城が築かれており、両軍はお互いの動きを見ながら移動を繰り返しています。
ここからは布陣図を使いながら上杉軍と武田軍の動向について解説していきます。
武田軍と上杉軍は千曲川を挟む形で布陣
1561年8月15日、上杉謙信は1万3千の軍勢を率いて川中島の北にある横山城に到着し、翌16日には一部の兵を残して本隊に犀川を渡河させ、千曲川にある「雨宮の渡」を通って海津城の向かいにある妻女山(西条山)に布陣しました。
一方、この謙信の動きに対して信玄は、甲斐から大軍を率いて信濃に駆け付けます。
武田軍の主な武将
・息子の武田義信(たけだよしのぶ)
・弟の武田信繫(たけだのぶしげ)と武田信廉(たけだのぶかど)
・望月信頼(もちづきのぶより)
・穴山信君(あなやまのぶただ)
・春日虎綱(かすがとらつな)
・山県昌景(やまがたまさかげ)
・飯富虎昌(おぶとらまさ)
・馬場信春(ばばのぶはる)
・真田幸綱(さなだゆきつな)
・小山田虎満(おやまだとらみつ)
・原昌胤(はらまさたね)
・山本勘助(やまもとかんすけ)
8月24日には武田軍2万が妻女山にいる上杉軍と千曲川を挟む形で、雨宮の渡の北側に布陣しました。
布陣図を見ると武田軍は横山城と妻女山の間に布陣してますが、これは上杉軍の補給路と退路を防ぐことで、仮に上杉軍が妻女山から海津城を攻めた場合でも、上杉軍の補給を絶って後方から攻める狙いがあったと言われています。
動かぬ上杉軍に対し、武田軍は海津城へ
この武田軍の狙いに反し、上杉軍は妻女山から5日間動きませんでした。
痺れを切らした武田軍は千曲川を越えて8月29日に海津城に入ります。
武田軍としては海津城の防衛が目的であったため、上杉軍を牽制する意味もあったのかもしれません。
しかし、上杉軍は武田軍のこの動きに対しても反応しませんでした。
ここから8月29日~9月9日までの10日ほど、上杉軍はまったく動かなかったのです。
上杉軍の補給は横山城から運んでいたのか、近くの唐崎山城にある程度の備蓄があったのか気になるところですが、1ヵ月近く山に滞在している家臣たちの苦労が伺えますね。
武田軍の「啄木鳥戦法」を布陣図で解説
両軍が川中島で睨みあう中、その膠着状態を最初に破ろうとしたのは武田軍でした。
まったく動きを見せない上杉軍に対し、武田軍の軍師・山本勘助は「啄木鳥戦法」で決戦に臨もうと提案します。
山本勘助とは?
武田信玄の軍師と知られる武将で武田五名臣に数えられている一方、生没年などの謎が多く実在性について疑問が持たれている武将。
江戸時代に編纂された甲陽軍鑑に登場し、信玄の下で兵法や築城術などの優れた才能を発揮したと伝わっています。
ここからは布陣図で武田軍の啄木鳥戦法やそれに対する上杉軍の反応などに迫っていきます。
武田軍の別働隊が上杉軍のいる妻女山へ
啄木鳥戦法とは、啄木鳥が木を突いて反対側から出てきた虫を食べることになぞらえた戦法です。
武田軍は部隊を8千の本隊と1万2千の別働隊に分け、別働隊が夜明けとともに妻女山の上杉軍を急襲。
この攻撃で妻女山から下山した上杉軍を武田軍の本隊が攻撃し、別働隊との挟撃を狙った作戦です。
布陣図のように9月9日の夜には武田軍の別動隊が妻女山へ移動し、本隊は川中島で上杉軍を待つように布陣しました。
妻女山はもぬけの殻、戦場は川中島に
決戦となった9月10日夜明け、武田軍の別働隊は春日虎綱が案内役となり、霧に乗じて妻女山を急襲しました。
武田軍別動隊
春日虎綱、飯富虎昌、馬場信春、真田幸綱、小山田虎満、甘利昌忠(あまりまさただ)、相木市兵衛(あいきいちべえ)
しかし、別動隊が妻女山を攻めたとき、上杉軍はそこにいませんでした。
実は上杉軍は武田軍の飯炊きの煙が多いのを見て動きを事前に察知し、あらかじめ川中島に布陣したと伝わっています。
霧が晴れた明け方の川中島では、1万以上の上杉軍と8千の武田軍が衝突しました。
布陣図で武田軍と上杉軍の陣形を解説
第四次川中島の戦いは両軍がとった陣形がよく話題になります。
上杉軍は布陣図のような「車懸りの陣」という陣形をとりました。
この陣形は円形に隊列を組み、最前線の部隊が敵と戦い消耗すると後ろの部隊と交代して最後方に回り、交代した部隊が敵を攻撃して消耗すると、また次の部隊と交代するのを繰り返す陣形です。
消耗していない部隊を常に前線に配備できる点が強力と言われています。
これに対し、武田軍は鶴が翼を広げたようなV字型の陣形「鶴翼の陣」で上杉軍を迎撃しました。
意表を突かれて兵数も少ない武田軍は上杉軍の猛攻に押され、12部隊中の9部隊が打ち破られてしまいます。
さらに最後は謙信の本隊が信玄の旗本に攻め寄り、ここで信玄と謙信は直接打ち合ったという話が残っているのです。
謙信の刀を信玄が軍配で受け止める様子は、ドラマやゲームなどにも描かれている有名な話ですよね。
多くの疑問が残る第四次川中島の戦い
第四次川中島の戦いには多くの疑問も残されています。
例えば車懸りの陣については甲陽軍鑑に記述があるものの、上杉軍が全体で回っていた確証はなく、武田軍の鶴翼の陣については甲陽軍鑑にも記録がありません。
ここからは両軍がとっていた陣形や合戦にまつわる伝承など、第四次川中島の戦いに関する疑問に焦点を当てていきましょう。
車懸りの陣は回っていなかった?
第四次川中島の戦いで上杉軍と武田軍がとった陣形の話は、ほぼ後世の創作と言われてます。
車懸りの陣は江戸時代に成立した『軍法侍用衆』の「車懸り」と同一視されてきましたが、現在は違うものと考えられており、実際は布陣図のように一直線の列を組んで先頭の部隊が交代で敵を攻撃する戦法とも言われています。
基本的な戦い方は通説と同じですが、陣形は車輪のようなものではないのかもしれません。
ちなみに武田軍については、鶴翼の陣ではなく魚鱗の陣だったという説もあります。
魚鱗の陣
魚の鱗のように中心が前方に突き出す形で、相手を一気に突き崩すような攻撃向けの布陣。
側面や後方からの攻撃に弱いものの、兵が散らずに密集しているため消耗戦に強いメリットもあります。
謙信と信玄の直接対決もなかった?
総大将の上杉謙信と武田信玄が直接打ち合った伝説についても、総大将同士がぶつかることは稀で脚色の可能性が高い話です。
しかし、謙信が戦場を馬に乗って駆け回っていた点については、落馬した謙信を家来が救って感状をもらったという伝承が残っており、本当の話である可能性が高いです。
これは家来の家族が江戸幕府にも資料として提出しており、公式記録としての信憑性が高いと言えるでしょう。
こういった伝承から謙信と信玄が直接ぶつかった話が生まれたのかもしれません。
合戦の勝敗は?両軍の損害を解説
第四次川中島の戦いは両軍が大きな損害を出しながら激戦を繰り広げました。
武田軍は本陣を守っていた武田信繁や軍師・山本勘助など、多くの武将が戦死。
武田軍の主な戦死者
武田信繁・油川彦三郎・室住虎光・三枝新十郎・初鹿野源五郎・山本勘助・安間三衛門など。
危機的な状況に陥った武田軍ですが、妻女山から無傷の別働隊が下山して上杉軍の背後を攻撃したことで上杉軍は撤退し、午後4時ごろに合戦は終了しました。
結果的に武田軍は大損害を受けましたが、当初の目的であった「海津城の防衛」には成功。
上杉軍は多くの敵を討ち取った一方、海津城を落とせずに事実上敗北したと言われています。
しかし、信玄も信繁をはじめとする多くの家臣を失ったため、勝敗については敗北を認めたと言われており、第四次川中島の戦いの感状は現存していません。
勝敗がはっきりしない勝者のいない戦いとも考えられますね。
文献 | 武田軍 | 上杉軍 |
---|---|---|
甲越信戦録 | 4,630人 | 3,470人 |
甲陽軍鑑 | 不明 | 3,117人 |
他の記事では武田信玄と上杉謙信について詳しく解説していますので、是非こちらも併せてご覧ください。
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今回は上杉謙信と武田信玄が激戦を繰り広げた第四次川中島の戦いについて、布陣図を使いながら合戦の経過を解説しました。
啄木鳥戦法や車懸りの陣など、両軍とも高度な戦術をめぐらした大変興味深い合戦ですよね。
一方、第四次川中島の戦いは戦国時代の合戦の中で特に有名ですが、両軍の陣形や勝敗などの実態には、多くの疑問が残っていることも事実です。
これから新たな資料などの発見があれば、より実態に近い第四次川中島の戦いが見えてくるのかもしれません。