- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説
長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説
武田軍と織田軍の交戦で有名な長篠の戦いですが、資料等が残っていない関係で、「実は事実とは異なるのではないか」といった説が浮上しています。
長篠の戦いといえば三段撃ちを思い浮かべる方もいると思いますが、この戦法についても疑問の声が上がっているのもまた事実です。
ではこれまで受け継がれてきた戦いの内容と真実では一体どのような違いがあるのでしょうか。
今回は長篠の戦いの真実や戦法、武田軍が敗北した理由について詳しく解説していきます。
長篠の戦いの真実に興味がある方は、ぜひチェックしてみてください。
長篠の戦いとは?簡単におさらい
1575年(天正3年)に起きた三河国長篠城をめぐり行われた長篠の戦い。
織田軍が武田軍を倒し、歴史上に名を刻んだ合戦です。
武田軍を率いる武田勝頼(たけだかつより)の父、武田信玄(たけだしんげん)と織田軍を率いる織田信長(おだのぶなが)はかつて良好な関係を築いてましたが、なぜ両軍は剣を交えることになったのでしょうか。
ここからは長篠の戦いの真実について詳しく解説していきます。
長篠の戦いが起きた背景
長篠の戦い自体が起こったのは1575年(天正3年)ですが、戦いの発端は信玄がまだ生存していたころにあります。
一時、信長と信玄は良好な関係を築くためにお互いの子を婚姻させる仲にありましたが、信玄が信長と対立関係にあった当時の将軍足利義昭(あしかがよしあき)に呼び寄せられたことや、信長が比叡山延暦寺を焼き討ったことがきっかけで、2人の関係に亀裂が入りました。この出来事が原因で両軍の交戦が始まります。
戦いが始まると武田軍の大きな勢力により、織田軍は思うように力を発揮できず苦しい状況が続きます。ついには三方ヶ原の戦いでは織田軍が敗北を喫してしまい、苦い思いをしました。
しかし武田信玄の突然死をきっかけに戦況は大きく傾き、流れは織田軍へ。主力を失った武田軍の体勢が乱れている機会を狙って、ついに領地を奪還できました。
ただ武田軍もこのままでは黙っておらず、亡き武田信玄の意志を継ぎ息子である勝頼が前に出て体勢を立て直し、再び領土の奪還を狙います。そうして奪還を狙った先が長篠城となり、長篠の戦いとなりました。
武田軍・織田軍の戦力を比較
合戦において重要になるのが戦力。
武田軍の戦力は15,000と多くの兵士を率いて戦いに挑む体勢を整えていました。対して長篠城を守備していたのは、ほんのわずかの兵。多くの武田軍の兵を前に、この時点では城の陥落は目に見えているといえます。
このままでは危機的状況だったため、守備兵は徳川家康(とくがわいえやす)に向けて増援を要請。結果鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の働きがあり、総勢38,000の兵が無事城に到着し、陥落は免れました。
始めは劣勢に見えた城の守備でしたが、増援要請を巧みに行ったことで戦力が逆転し優勢に。
一時は危険な状態にありながらも、無事死守できたのが真実として明かされています。
両軍の戦い方
長篠の戦いでは両軍違った戦い方をしている点が特徴です。
最強の騎馬隊と呼ばれていた武田軍は騎馬隊を使い、織田軍は最新の武器と呼ばれる鉄砲を使って戦っていたと言われています。
武田軍といえばレベルの高い騎馬隊で有名で、三増峠の戦いでも活躍した話を聞いたことのある方もいるのではないでしょうか。ただ近年ではその騎馬隊の存在もなかったのではないかといった説が立てられており、真実かどうかは定かではありません。
一方織田軍は初めて大量の鉄砲を使ったといわれており、当時からすると最先端の戦い方をしたといえます。
長篠の戦いまで鉄砲が普及しなかったのはなぜ?
鉄砲は長篠の戦い以前から日本にありましたが、なぜ長篠の戦いまで普及しなかったのでしょうか。
それは撃つために必要な火薬の調達が大きく関係しています。鉄砲を使用するには火薬は不可欠で、いくら鉄砲本体があっても火薬がなければ役には立ちません。
火薬作りに必要な材料は硫黄・木炭・硝石の3つで、そのうち硫黄と木炭は日本での調達が可能でした。しかし当時の日本では硝石がなかなか採れず、手に入れるには海外から貿易で取り寄せる必要があったのです。
しかし貿易を通して材料を調達するにはコストがかかるうえ、大量に取り寄せられないといった問題が生じてしまうため、火薬の大量生産は困難なものでした。自国で火薬の材料が全て揃えられず、コストの負担や入手できる数に限りがあることを考えると、どうしても普及まではたどり着けなかったと考えられるでしょう。
しかし日本ではなかなか入手できなかった硝石は、その後土を使うことで硝石を作り出せることが判明しました。
このことがきっかけで火薬の生成に必要な材料はすべて日本で集めることができ、貿易の力を借りることなく火薬を作ることで、長篠の戦い以降に鉄砲が普及するようになったのです。
武田軍が敗北してしまった原因
では、これまで優勢に見えた武田軍はなぜ織田軍に敗北したのでしょうか。
勢いがあったころは好機に恵まれていましたが、トラブルが重なり波は織田軍へと引き寄せられます。
ここからは武田軍が敗北した原因の真実を詳しく見ていきましょう。
武田信玄の死亡
武田軍が負けてしまった理由として、まず信玄の死亡が原因として挙げられます。
長篠の戦い以前は三河に向けて侵略を進め、三方ヶ原の戦いで勝利を勝ち取るなどして、織田軍に対して優位に立っていました。
しかしその後予想だにしなかったトラブルに見舞われます。それは信玄の死です。
これまでは順調に事が進んできたと思えたものの、主力である信玄を失ったことで、軍の体勢は大きく傾きました。その間これまで劣位な立場であった織田軍はこの機会を使って奪われた土地を取り返そうと動き出し、見事奪還します。
その後信玄の後継者として4男である勝頼が軍を率いたものの、やはり信玄の死が大きく関係して、勝利には至らなかったという真実が語られています。
天候
武田軍が敗北したのは天候も影響していました。
長篠の戦いが行われた時期は梅雨の真っ只中で、鉄砲を用いた戦には向いていません。そのため一見武田軍としては有利に運ぶようにも見えますが、相手は雨をも味方につける男、信長。
織田軍は梅雨時期にも関わらず天気に恵まれたことで攻撃が可能になり、武田軍の敗北につながったと考えられるでしょう。
織田軍の戦術センスの高さ
戦上手で有名な武田軍でしたが、相手の戦術が1歩上を行っていたことも敗北につながった理由の1つです。
織田軍は鉄砲を使って戦っていましたが、当時の鉄砲は撃ってから次の発砲までにタイムラグが生じ、スムーズな発砲はできませんでした。
そのため織田軍は準備している最中に攻められないよう柵を作って対策をしていましたが、武田軍は「横から回り込めば、容易に突破できるだろう」とそこまで柵に対して問題視をしていませんでした。
しかし織田軍は武田軍が横から攻めてくることを読んでおり、簡単に突破させずに陣形を保ったと言われています。その結果、武田軍の読み違いが勝敗を分ける原因になりました。
長篠の戦では武田軍も鉄砲を所持していた?
織田軍に比べると数は少ないものの、武田軍もある程度の鉄砲を所持していたと言われています。
ただし当時の鉄砲は刀や槍に比べて遠距離攻撃ができるメリットがあるものの、次の発砲をするまでに時間がかかるデメリットがあるため、必ずしも使うと有利に働く道具とは言い切れません。
そのためデメリットも考慮して、織田軍のように鉄砲は用いなかったと考えられます。
長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法|まとめ
長篠の戦いは誰もが聞いたことがあるような合戦ですが、最近では真実性を問われている部分があります。
実際に三段撃ちも、歴史上の資料を見ると記録が残っていないためで、真実性が疑われているのも事実です。また武田軍の騎馬隊も実際に存在していたのかも怪しくなっており、謎に包まれたままになっています。
ただ長篠の戦いは織田軍と武田軍が数年に渡り熱い戦いを繰り広げてきたことには変わりありません。
一時は武田軍の勝利かと思わせながらも、織田軍の高い戦術スキルと天候に恵まれたことなどがあり、形勢逆転した戦いとしてこれからも伝説として受け継がれていくでしょう。