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織田信長はいかにして岐阜城を攻略したか:天下布武への道

2025年撮影 岐阜城天守閣
目次
序章:天下布武への序曲、美濃攻略の戦略的意義
織田信長の歴史における転換点の一つが、美濃国(現在の岐阜県南部)の攻略と、その拠点である稲葉山城(後の岐阜城)の獲得です。尾張国(現在の愛知県西部)の大部分を支配していた信長は、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ってその名を天下に轟かせました。
この戦いの後、東の強敵であった今川氏の勢力は後退し、三河国(現在の愛知県東部)の松平元康(後の徳川家康)と清洲同盟を結ぶことに成功します。
この同盟は、単なる防衛協定に留まらず、信長が東方の憂いを断ち切り、全力を西方、特に美濃攻略へと傾注することを可能にした、計算された戦略的布石でした。
美濃国は、京都へ上洛するための主要な交通路に位置し、肥沃な濃尾平野を抱える経済的にも豊かな地域でした。そのため、「天下布武」を掲げ、将軍足利義昭のもとでの中央の統治と秩序の回復を目指す信長にとって、美濃の掌握は避けて通れない、極めて戦略的価値の高い目標だったのです。
近年の研究では、「天下」とは日本全国を指すものではなく、京都を中心とした畿内周辺を指すことが明らかになっています。美濃攻略には約7年を要したとされ、この事実は、それが一朝一夕の勝利ではなく、信長の粘り強さ、適応力、そして軍事と調略を組み合わせた多角的な戦術が求められた長期戦であったことを物語っています。
斎藤氏の落日:稲葉山城主・斎藤龍興の失政と内部分裂
信長が美濃攻略を本格化させた永禄4年(1561)、美濃国を治めていたのは斎藤道三の孫にあたる斎藤(一色)龍興でした。しかし、龍興は祖父・道三や父・義龍のような器量には恵まれず、政務を疎かにし、家臣の諫言には耳を貸さず、追従する者ばかりを重用したと伝えられています。
父・斎藤(一色)義龍の急死により、わずか14、15歳という若さで家督を相続した龍興は、その若さ故の統率力不足から、稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全ら「西美濃三人衆」と後に呼ばれる重臣たちが国政を担っていました。しかし、龍興自身は次第に酒色に溺れたとの風説も流れ、「若き主は無能」という評価が家中に広まり、家臣団の不満と離反を招いていきました。
こうした斎藤氏の内部崩壊を象徴する事件が、永禄7年(1564年)に起こります。

竹中半兵衛(重治)の肖像画
斎藤氏の家臣であった竹中半兵衛重治が、わずか十数名(一説には16名)の手勢を率いて稲葉山城を奇襲し、一時的に占拠するという前代未聞の事態が発生したのです。
この時、龍興は寝巻き姿のまま城から逃げ出したと言われます。半兵衛が、主君を諫めるために行った行動とも言われ、約半年後には城を龍興に返還しますが、この事件は斎藤氏の内部統制の動揺と、龍興の指導力欠如を内外に露呈する結果となりました。難攻不落とされた稲葉山城が、ごく少数の兵によっていとも簡単に乗っ取られたという事実は、領国内の領主たちに大きな動揺を与えたとされます。
従来はこの半兵衛の稲葉山城占拠について、以上のような見方がされてきましたが、半兵衛の生きていた時代に記された史料には、半兵衛が主君を戒めるために占拠したとする史料は見当たりません。
おそらく、羽柴秀吉の「軍師」である半兵衛を理想化していく中で生み出されたと思われます。
信長の深謀遠慮:美濃攻略への周到な布石
織田信長は、斎藤氏のこうした内情を的確に把握し、武力による圧迫だけでなく、調略を駆使して美濃攻略を進めました。その最たるものが、前述の「西美濃三人衆」の切り崩しです。
稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(卜全)の三氏は、いずれも土岐氏の時代から美濃に仕えた旧臣の家柄であり、斎藤氏においては重きをなす存在でした。
しかし、彼らは主君・龍興の将来に見切りをつけたのか、永禄10年(1567年)、信長に内応を申し入れ、人質を差し出すことでその忠誠を示そうとしました。
この三人衆の離反は、斎藤氏にとってまさに致命的な打撃であり、このことを契機に斎藤氏は没落することとなります。
また、信長は美濃攻略の拠点として、木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)に命じて、永禄9年(1566)9月、墨俣(現在の岐阜県大垣市)に城を築かせたとされています。
これが有名な「墨俣一夜城」の伝説です。ただし一晩で築城したという話は、後世の脚色だとするのが有力です。
さらに『信長公記』によると、永禄4年に信長が前線の砦として使用しており、この時秀吉が行ったのは修繕か、墨俣とは別の砦を築いたことが伺えます。
修繕されたと仮定すると、この墨俣城は単なる兵站基地としてだけでなく、信長の美濃攻略への断固たる意志を示す心理的な圧力となり、さらには西美濃三人衆のような内応者との連絡や調略活動の拠点としても機能した可能性が高いでしょう。
信長が西美濃三人衆からの人質の到着を待たずに、突如として出陣したという記録 は、三人衆の寝返りへの確信と自軍の力への自信、そして先手を取ることで斎藤方のさらなる混乱を引き起こそうとした一手であったと推察されます。
以下に、美濃攻略における主要な人物をまとめます。
人物 | 所属/立場 | 美濃攻略における役割 |
---|---|---|
織田信長 | 尾張国主 | 美濃攻略の総指揮、戦略立案 |
斎藤龍興 | 美濃国主、稲葉山城主 | 統治失敗、家臣団の離反を招く、信長に敗れ美濃を失う |
竹中半兵衛 | 当初斎藤氏家臣 | 稲葉山城を一時占拠し、龍興の権威を失墜させる。後に信長に仕える |
稲葉良通(一鉄) | 西美濃三人衆の一人、斎藤氏重臣 | 信長に内応し、稲葉山城攻略に貢献 |
安藤守就 | 西美濃三人衆の一人、斎藤氏重臣 | 信長に内応し、稲葉山城攻略に貢献 |
氏家直元(卜全) | 西美濃三人衆の一人、斎藤氏重臣 | 信長に内応し、稲葉山城攻略に貢献 |
木下藤吉郎 | 織田信長家臣 | 墨俣一夜城の築城に関与したとされる |
電光石火の進撃:稲葉山城陥落の経緯
永禄10年(1567年)8月、西美濃三人衆の内応という絶好の機会を得た織田信長は、満を持して美濃への総攻撃を開始しました。『信長公記』によれば、信長は三人衆からの人質の到着を待たずに、突如として出陣したとされています。
信長軍の進撃は極めて迅速であり、斎藤龍興は有効な迎撃策を講じることができませんでした。信長はまず、稲葉山の続きにある瑞龍寺山に本陣を置き、斎藤方が戸惑っているうちに、城下町である井口に火を放ち、城を裸城にして経済的・心理的打撃を与えました。翌日には城の四方を鹿垣(ししがき)と呼ばれる逆茂木のような防御柵で厳重に包囲し、城内の兵糧供給路を断つと共に、城兵の士気を削ぐ戦術を取りました。
兵力においても、一説には織田軍1万2千に対し斎藤軍は5千と、織田方が優勢であったとされます。
稲葉山城は金華山という天然の要害に築かれ、斎藤道三が残したとされる鉄砲も多数配備されていましたが、西美濃三人衆をはじめとする有力家臣の離反と、信長による電光石火の進軍と巧みな包囲戦術により、城内の士気は急速に低下し、投降者が続出したと言われています。
難攻不落と謳われた稲葉山城が、最終的な包囲開始から比較的短期間(『信長公記』によれば半月ほど)で陥落した背景には、こうした斎藤氏内部の崩壊が大きく影響していました。
これは、純粋な軍事力による攻略というよりも、長年にわたる調略と心理戦によって、敵の戦闘能力を内部から著しく低下させた上での、効果的な軍事行動の成果と言えるでしょう。
追い詰められた斎藤龍興は、城兵の助命を条件に開城したとも、あるいは最後まで抵抗したものの力及ばず城から脱出したとも伝えられています。『信長公記』などの記録によれば、龍興は小舟に乗って長良川を下り、伊勢長島(現在の三重県桑名市)へと逃れたとされています。
龍興の逃亡(あるいは追放)により、約7年間に及んだ信長の美濃攻略戦は終止符を打ち、稲葉山城は永禄10年(1567年)8月15日(9月に落城したとする説あり)に陥落しました。
岐阜城誕生と天下布武:新たなる拠点からの飛翔
美濃国を平定した信長は、直ちに稲葉山城の改修に着手し、城の名を新たに岐阜城(ぎふじょう)と改めました。
この「岐阜」という地名は、古代中国で周の文王が岐山(きざん)から起こって天下を平定したという故事にちなみ、信長自身が選定した、あるいは禅僧・沢彦宗恩が進言したと伝えられています。
この改名には、旧斎藤氏による支配の記憶を払拭し、自らの新たな支配と、その先にある天下一統への壮大な意志を内外に示すという、高度な政治的意図が込められていました。
そして、この岐阜城を新たな本拠地とした信長は、ここから「天下布武」(てんかふぶ)と刻まれた印章を使用し始めます。これは「天下(畿内)を武威によって再興する」という信長の断固たる決意表明であるとされ、彼の政治スローガンとして広く知られることになります。
岐阜城は、天下布武の理想を掲げるための拠点として、その後の信長の飛躍を力強く支えることとなるのです。信長は美濃を本拠とし、京都には定住せず、政治案件は家臣に委任する形を取りました。
これは、京都の複雑な政治状況に直接巻き込まれることを避け、独立した強固な軍事・行政基盤から中央をコントロールしようとした戦略的判断であり、過去の武将たちの経験から学んだ教訓でもあったのかもしれません。
また、信長は美濃で新たに検地を実施するなど、経済基盤の確立にも努めています。
結論:岐阜城攻略が織田信長にもたらしたもの
織田信長による岐阜城(稲葉山城)攻略の成功は、単一の要因によるものではなく、複合的な要素が絡み合った結果でした。
第一に、斎藤龍興の失政と求心力の欠如による斎藤氏内部の弱体化、そしてそれに伴う西美濃三人衆ら有力家臣の離反。第二に、信長自身による周到な準備、すなわち長年にわたる調略活動と、墨俣のような前線基地の確保。
そして第三に、好機を逃さぬ電光石火の軍事行動と、敵の心理を突いた巧みな戦術。これらが絶妙に組み合わさったことで、難攻不落とされた城の攻略が成し遂げられたのです。特に、西美濃三人衆の内応を引き出した調略の成功は、戦局を決定づける上で極めて大きな役割を果たしました。
岐阜城の攻略と「天下布武」の宣言は、織田信長が尾張・美濃を支配する地方の一戦国大名から、本格的に天下一統事業へと乗り出すことを内外に示した画期的な出来事でした。
美濃という戦略的要衝と豊かな経済的基盤を手に入れた信長は、この岐阜城を足掛かりとして、破竹の勢いでその勢力を拡大し、戦国乱世の終焉に向けた歴史の歯車を大きく動かしていくことになります。この美濃攻略は、敵の内部弱点を徹底的に突き、調略と軍事行動を巧みに連携させ、攻略後は新たな理念を掲げて人心を一新するという、その後の信長の戦い方の原型を確立したとも言えるでしょう。
一方、美濃を追われた斎藤龍興は、その後も越前の朝倉義景などを頼って再起を図りますが、天正元年(1573年)、刀禰坂の戦いで信長軍に敗れ、25歳(諸説あり)の若さでその生涯を閉じました。
参考文献
木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房、2020年)
柴裕之『織田信長ー戦国時代の「正義」を貫く』(平凡社、2020年)
柴裕之編『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、2020年)
編集者:相模守