- 戦国BANASHI TOP
- 歴史・戦国史の記事一覧
- 桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは
桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは
圧倒的な戦力差で今川軍が勝つと思われた桶狭間の戦い。しかし実際に勝ったのは多くの兵を率いていた今川軍ではなく、少数兵だった織田軍でした。
なぜこんなにも戦力差があったのにも関わらず、織田軍は桶狭間の戦いにて勝利を勝ち取れたのでしょうか。
この記事では桶狭間の戦いが起こった理由や織田軍の勝因を解説しています。
戦いの中で大きな活躍を見せた織田軍の武将を2人紹介しているため、戦いの全貌を知りたい方はぜひチェックしてみてください。
目次
桶狭間の戦いとは?内容を振り返り
1560年(永禄3年)に今川義元(いまがわよしもと)と織田信長(おだのぶなが)が戦った桶狭間の戦い。
義元が天下を目指して上洛したといわれている戦いですが、本当に上洛を理由にした戦いだったのでしょうか。
ここからは桶狭間の戦いが起こった理由と戦力、戦略を解説していきます。
桶狭間の戦いが起こった理由
桶狭間の戦いが起こった理由には、徳川一族である松平氏の内部争いが大きく関係しています。
元々は織田信長と今川義元の戦いではなく、松平の当主を決める争いだったのです。
時は徳川家康(とくがわいえやす)の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)の時代まで遡ります。
当時、松平家の当主争いをしていた一族は当主を決めるために険悪なムードが漂っていました。
ここで争いが丸く収まると良かったのですが、そうはいかず清康が阿部正豊(あべまさとよ)に斬殺される守山崩れが発生します。
この頃、清康の息子である松平広忠(まつだいらひろただ)はまだ子供でした。
そのため広忠は自分も倒されないようにと一時的に三河を去ったのです。
父を討たれてから時が経ち、成長した広忠は父を殺害した正豊に立ち向かうことを決意します。
しかし広忠は敵討ちをしにきたのにも関わらず、正豊を許してしまいました。
これまで清康の敵討ちを目標に戦っていた仲間たちは、あまりにも心が広すぎる広忠を理解できません。
そうして仲間たちは広忠の元を離れ、隣接していた信長の父・織田信秀(おだのぶひで)を頼り、織田信秀VS松平広忠の尾張対三河の戦いが発生しました。
しかし結果は、松平軍が敗北。子である徳川家康こと竹千代(たけちよ)が人質にされてしまいました。
このことがきっかけで広忠の心に火がつき、「織田軍に負けまい」と義元の力を借りたのです。
このようにして後の桶狭間の戦いへと発展したのでした。
今川義元が天下を目指した上洛戦ではなかった
「今川義元による上洛戦だったのではないか」といわれている説もありますが、義元の本当の狙いは天下を取ることではありませんでした。
義元の本当の狙いは織田家・松平家・今川家の戦いに終止符を打つことが目的だったのです。
広忠が義元と手を組みこれから戦いを進めていこうとした頃、広忠は突然息を引き取ってしまいます。
そうなると三河が空白になってしまう問題が発生。義元は空白の座を埋めようと、人質にされた竹千代の奪還を試みます。
そのときに狙ったのが三河安城城で、信長の弟・織田信広(おだのぶひろ)を捕まえることに成功し、人質交換で竹千代の奪還にも成功しました。
ここで一旦落ち着きを取り戻した松平家・今川軍。
一方で信秀が死去したことで不穏な空気が漂ったのが織田家です。ここで織田家は跡継ぎ問題に直面します。
そのため当時織田軍であった山口教継(やまぐちのりつぐ)は織田軍の情勢を見て、今川軍に寝返りますが、織田・今川両軍に中立で煮えきらない態度を取ったことで義元は教継を殺害。
そこで教継の城であった鳴海城が空白になり、この城を確保しようと今川軍は鳴海城攻略戦に動いたのです。この行動が桶狭間の戦いの始まりとなりました。
両軍の戦力
今川軍の戦力は約25,000人に対し、織田軍の戦力はたった約2,000~3,000人。
この時点では勝ち目はないといっても過言ではない戦力差でした。
ただ信長は戦力では劣っていたものの、戦略で勝利を導き、義元の首を取ったのです。この戦力差で義元が油断した可能性も十分考えられるでしょう。
両軍の戦略
桶狭間の戦いにて織田軍が勝利したのは、戦略が大きく関係しています。
正面から約25,000人もの兵を相手にするのは厳しいと考えた信長は、今川軍の兵を分散させようと動きます。
そして今川軍は信長の作戦に引っかかり、義元につく兵を減らさせたのでした。
対し今川軍の戦略は詳しく明かされていませんが、約25,000人もの戦力で対抗しようとしていたことから、戦力で押し込もうとした可能性も考えられます。
今川軍にとっては一見勝ち戦のように見えますが、信長の巧妙な策略が義元の上を進んでいたことで、負け戦となってしまいました。
織田信長が桶狭間の戦いで勝てたのはなぜ?
戦力差が大きな桶狭間の戦いでしたが、織田軍の勝因は何だったのでしょうか。
織田軍が勝った理由として、以下の3つが挙げられます。
・天候が味方したから
・今川義元が油断していたから
・織田軍にはスパイがいたから
一見不利な織田軍でしたが、勝つための条件は揃っていました。
ここからは織田軍の勝因について解説していきます。
天候が味方したから
信長が桶狭間の戦いで勝てたのは、まず天候が味方した点が挙げられます。
戦いの終盤、織田軍が義元の居場所を突き止め、攻撃を仕掛けるときでした。
織田軍の背後から風が吹き、まるで雹(ひょう)のような雨が義元を襲ったとされます。
今川軍にとっては思いもよらない悪天候。一方で織田軍にとっては絶好の機会ともいえるでしょう。
この悪天候がきっかけで今川軍は織田軍の動きを察知できず、織田軍に勝ちを譲ってしまったといわれています。
今川義元が油断していたから
次に義元が油断していた点が織田軍の勝因として挙げられます。
今川軍は織田軍を撃退したり、砦を攻め落としたりと、順調な流れで戦いを進めていました。
圧倒的な戦略差に加え、順調に駒を進めている状況から、義元にとって勝ちは目前だったのかもしれません。
そのため義元は上機嫌になり油断したことがきっかけで、織田軍は勝利したのではないかという説も上がっています。
織田軍にはスパイがいたから
織田軍の影には乱波・透波の存在があったともされています。
織田軍が義元の居場所を把握できたのはこのスパイの存在が大きく影響していました。
乱波・透波のようなスパイの存在がなければ、また別の結末が待っていた可能性も考えられます。
また信長は寝返った人物になりすまして、義元に向けて手紙を送った話も有名です。今川軍の混乱を招くために、信長は戦略の1つとして手紙を送りました。
案の定義元は手紙によって混乱し、織田軍から寝返った武将を切腹させたとされています。
今川義元を撃ったのは織田信長ではない
信長と義元の戦いで有名な桶狭間の戦いですが、実は義元を討ったのは信長ではありませんでした。
では一体誰が義元を討ち取り、桶狭間の戦いを勝利へと導いたのでしょうか。
桶狭間の戦いに貢献した織田軍の武将は以下の2人です。
・毛利新介
・服部小平太
ここからは義元を倒した武将と、討ち取りに貢献した武将の2名を解説していきます。
今川義元を撃ったのは毛利新介
今川義元を討ったのは尾張出身とされる毛利新介(もうりしんすけ)でした。
信長に力を認められた黒母衣衆の一員であり、西美濃攻略や伊勢攻略に活躍した人物です。
義元を討つ前に、新介は義元に指を噛まれた話も有名で、義元の意地の強さを感じられるエピソードとして語り継がれています。
服部小平太は討ち取りならず
新介よりも先に義元へ攻撃を仕掛けた人物が、服部小平太(はっとりこへいた)です。
信長の馬回りで、首を取るまではいかなかったものの戦いに貢献しました。
小平太は槍を持って義元に突っ込みましたが、義元によって攻撃を阻まれ、膝を切られたとされています。
桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは|まとめ
元々は松平の内部争いから始まった戦いで、織田信長と今川義元は直接的な関わりはありませんでした。
しかし内部争いが激化していき、織田軍と今川軍の戦いへと発展したのが桶狭間の戦いです。
戦力を見ると勝ち目の薄い織田軍ですが、一歩先を行く戦略で義元を討ち取りに成功。
どんな戦略差でも策略で勝利に導く信長の活躍はさすがといえるでしょう。