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鎌倉時代はどんな時代?食生活や文化、鎌倉幕府の政治を簡単に紹介
平安時代は畿内を中心とする文化であったのに対し、鎌倉時代は地方武士や全国の鎌倉時代とは、源頼朝(みなもとのよりとも)が現在の神奈川県鎌倉市に開府し、約150年ほど続いた武士の始まりの時代です。
歴史の授業で習った【1192年いい国作ろう鎌倉幕府】の語呂でお馴染みの方も多いと思います。
また、2022年NHK大河ドラマで話題となった、鎌倉時代を題材とした「鎌倉殿の13人」で興味を持った人も多いでしょう。
本記事では、鎌倉時代の食生活や文化、鎌倉幕府の歴史や政治を要約解説していきます。
改めて鎌倉時代についておさらいしていきましょう!
【結論】鎌倉時代とは一体どんな時代なのか
鎌倉時代とは、平安時代に権威を誇っていた平家を源頼朝が滅ぼし政治の実権を握る武家政権の時代が始まり、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の命令により新田義貞によって滅ぼされた西暦1185年から1333年までの時代です。
また鎌倉時代は、全国に守護や地頭が設置されるなど貨幣経済が盛んになった時代とされています。
※守護とは現代でいう警察や軍事のようなもの。
※地頭は税のとりたてなどをするもの。
鎌倉時代の食事
鎌倉時代は貴族・武士・農民と身分階級があり、食事も違っていたようです。
米と土地は権力の象徴であり、白米を釜で炊いたやわらかい「姫飯」やおかゆを食べていたのが貴族です。
武士は「強飯」と呼ばれる、炊くのではなく蒸した玄米が主食でした。
農民はお米を年貢として納めなければいけなかったので、麦・粟(あわ)・稗(ひえ)などに少量の玄米が混ざったものをおかゆにして食していたそうです。
平安時代との違い
鎌倉時代は、平安時代と比べて庶民に文化が広がっていったという違いがあります。
平安時代は貴族達が政治的権力を競ったのに対し、鎌倉時代は武士達が土地の所有権や本領安堵など、土地の問題によって争うことが多かったという争点にも違いが見られます。
「鎌倉」に拠点や幕府を置いたワケ
大きな要因としては、鎌倉が源氏の先祖ゆかりの地であったことです。
そして武家政権の拠点としては最適と考えられていました。
南側は相模湾に面しており北・西・東側は山と、四方を山と海に囲まれた天然の要塞だったのです。
鎌倉時代の政治
鎌倉時代は、政治構造が大きく3回変化します。
初期:将軍独裁
鎌倉幕府の成立時。源頼朝の将軍時代。
先導者であった頼朝に喜んで従っていた。
中期:執権政治
北条政子が執権役の地位によって、幕府の実権を掌握した政治。
後期:得宗専制
執権役を務める北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中しての独裁体制
鎌倉時代の政治を知る上で全体像を理解しておくと良いでしょう。
鎌倉幕府の成立と執権政治
鎌倉幕府とは、初代将軍となる源頼朝が創設した武家政権。
それまでは朝廷と天皇が中心となった政治でしたが、後白河天皇が亡くなったことで院政が終わり政治の中心は武士へと移り変わっていったのです。
かつては1192年に鎌倉幕府が開かれたとされていましたが、これは源頼朝が征夷大将軍に任命された年になります。
しかし、「守護」や「地頭」は1185年に設置されたため、現在では源頼朝による武家政権(鎌倉幕府)のはじまりは1185年と解釈されています。
執権政治とは初代将軍・源頼朝が亡くなった後、将軍に代わり執権役である妻・北条政子の一族である北条氏が実質的に政治を行います。
実権をにぎっていた北条時政(北条政子の父)は自分の権力を脅かすであろう人物を排斥していきます。
さらには、孫でもある二代将軍・頼家までも暗殺しました。
御家人制度
御家人制度とは、頼朝家を補佐するために作られた鎌倉殿と主従関係を結んだ武士や文官13人の合議制のこと。
将軍につかえた武士や文官は所領安堵や新恩給与を与えてもらう代わりに、忠誠をもって出兵などの働きをしました。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見た方もこれから見る方も知っておくと、より一層お楽しみいただけます。
将軍と御家人は主従関係ですが御恩と奉公という互恵関係であったと言えます。
新しい文化「鎌倉文化」
鎌倉文化とは鎌倉幕府が始まった1300年末期から1500年前半の鎌倉幕府が終わるまでの鎌倉時代の文化を指したものです。
天皇や貴族が中心とした王朝政権から、武士が中心となる武家政権への変化し、武家政権へと移行していく中で従来の伝統文化を受け継ぎながらも、新たな庶民の感覚が反映された文化が取り入れられてきました。
当時の中国(唐)では民族の違いによって冷遇され日本へ亡命してくる者もおり、そのなかには若い僧侶も多くいたことで新たな仏教の宗派が増えていったことも特徴的です。
宗教にあまり詳しくなくても知っている方も多い日蓮宗・浄土宗などはこの時代にできた宗派になります。
建築は、新たな様式の大仏様・禅宗様と古来から受け継がれてきた日本的様式の3つに大きく分けられます。
また、鎌倉時代は武士の時代であったことから武具の生産が盛んであり、名刀と呼ばれる刀剣も現代に多く残されています。
新しい宗教
日本の多くの家の宗派は鎌倉時代に生まれたものがとても多くあります。
宗教ごとにそれぞれ教えの特徴を簡単にまとめてあります。
禅宗
禅宗の「禅」とは修行法の1つであり「禅定」とも言われます。
禅や禅定は真理を悟るために、雑念を持たずに心を集中させる瞑想のことです。
浄土宗
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えれば救われるという「専修念仏」極楽浄土にいくための道を指す宗派です。
浄土真宗
教えの根幹は「他力本願」です。
他人依存というような意味ではなく、阿弥陀如来の本願に頼り成仏することです。
日蓮宗
釈迦を本尊とする宗派で、妙法蓮華経(法華経)をとても大切にしています。
「差別なく万人を平等に成仏できる」という原点に戻るべきであるとした教えがあります。
曹洞宗
教えの根幹は「坐禅」です。
さとりを得る手段として修行するのではなく、修行する姿そのものが悟りである「修証一如(しゅしょういちにょ)」という教えがあります。
臨済宗
臨済宗は、根本的には自分と向かい合うこと。
「座禅で悟りを得る」という考えと「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」という教えです。
禅林文化
禅林とは、禅宗寺院のことで禅院とも呼ばれています。
鎌倉時代は多くの僧侶が海を渡り、中国の地で禅をしました。
その中で一部の僧侶たちは中国僧からさとりを開いた照明である印可を受け日本において禅を広げていきました。
鎌倉幕府の滅亡
このように様々な文化や新しい概念が生まれた鎌倉幕府ですが、一体なぜ終わってしまったのでしょうか。
鎌倉幕府滅亡のきっかけになった出来事があります。
それは1274年と1281年に元が日本に攻め込んできた戦い「元寇」が起こります。
その際に戦った御家人に対して、幕府は十分な恩恵を与えることができませんでした。
骨折り損となってしまった御家人たちは不満を募らせました。
幕府に対する不満が募っていたころ、天皇を中心とする政治体制に戻そうと倒幕計画する後醍醐天皇に多くの御家人が参加します。
倒幕計画が表面化したことで、天皇は島流しに。
天皇の島流しをきっかけに武士や御家人、有力御家人であった足利尊氏・新田義貞らまでも寝返り、1333年に激しい戦の末に鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉時代はどんな時代?食生活や文化、鎌倉幕府の政治を簡単に紹介|まとめ
本記事では、鎌倉幕府はどんな時代だったのか。
鎌倉幕府の政治や食生活・文化などを簡単にわかりやすく解説しました。
最後に、おさらいをしていきましょう。
鎌倉時代とは、平安時代に権威を誇っていた平家を源頼朝が滅ぼし政治の実権を握ることで本格的な武士の時代が始まり、後醍醐天皇の命により新田義貞によって滅びた西暦1185年から1333年までの時代です。
食事は身分階級によって異なり、米と土地は権力の象徴であったので白米を釜で炊いたやわらかい「姫飯」やおかゆを食べていたのが貴族です。
鎌倉時代は政治構造が大きく3度の変化します。
初期:将軍独裁
中期:執権政治
後期:得宗専制
鎌倉文化は武士の精神や中国の禅など新しい文化が多く生まれた時代です。現在で使われている文化もあります。
▼主な参考文献