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【戦国時代年表】1534年の日本~織田信長の誕生~
1534(天文2)年-織田信長の誕生
1534年、尾張(現在の愛知県西部)に織田信長が誕生しました。
織田信長の父である織田信秀は、尾張守護代の家臣でした。
つまり信長の生まれた織田家というのは守護大名どころか、その家臣の家臣という立場で、それほど高い家格ではなかったということです
しかし、器量に優れた信秀は一家臣の座に納まっている武将ではありませんでした。
この年、今川氏豊(今川義元の弟といわれる)の那古野城(のちの名護屋城)を計略によって奪い取るなど、自立の動きを見せ始めます。
後に信秀は、駿河の大大名・今川義元や、美濃の蝮・斎藤道三らと鎬を削ることとなります。
そんな戦国の世を逞しく生きた勇将のもとに生まれたのが、戦国の風雲児・織田信長なのです。
ちなみに、信長には兄がいますが、母親の身分が低かったため、信長は次男でありながら嫡子(跡継ぎ)として育てられました。
1534年頃の畿内の様子
この時代、政治の中心は畿内(現在の京都周辺)でした。
室町幕府は武家政権のトップでしたが、この頃にはすでに砂上の楼閣となっており、畿内は有力武将たちの権力争いによりめちゃくちゃになっていました。
室町幕府の将軍であった足利義晴も、この年まで京都から近江(現在の滋賀県)のお寺に幕府ごと避難しているという有様でした(六角定頼などの協力により、この年になんとか京都に戻ることに成功しています)
勢力図を見てもらってわかる通り、この時期に畿内で権力を振るっていたのは、細川晴元です。
この頃の細川晴元は、幕府におけるナンバー2である管領の座を狙って、日々敵対勢力と争いを繰り広げていました。
また河内守護の畠山種長が、本来は部下であるはずの守護代、木沢長政や遊佐長教らに追放されるという悲劇が起きています。
守護大名より守護代が力を持って下剋上が起きる、これは戦国あるあるです。
栄華を誇った大内義隆
応仁の乱以降、守護大名が配下の守護代や有力武将にその立場を脅かされるという構図は戦国あるあるですが、中には着実に力をつけた有力守護大名も存在します。
そのうちの一人が、大内義隆です。
大内義隆は、お父さん(大内義興)が非常に優秀な武将であったため、莫大な資産を引き継いで周防・長門・石見・豊前(現在の山口県、島根県、福岡県あたり)の4か国の太守として権勢をふるいました。
東シナ海の貿易を独占し、莫大な富を築き上げた大内氏は、2千貫(現在の価格に換算すると、約3億円)を朝廷に寄進しています。
その経済力を背景に、北九州の大友氏や、山陰の尼子氏らと激しい戦いを繰り広げます。