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王朝を奪った天皇?異例の即位を果たした継体天皇と磐井の乱から見る実像
古代史のなかでも、継体天皇の即位はとくに謎の多い出来事として知られています。先代の武烈天皇が後継者を残さずに亡くなったため、遠く越前を拠点としていた人物が大和王権の後継者として迎えられたからです。しかも、継体天皇が即位したのは58歳のときだったとされています。
そのため、継体天皇については「それまでの王統とは異なる人物が王位を奪い、新たな王朝を開いたのではないか」という王朝交代説も唱えられてきました。しかし、近年の研究では、こうした見方には再検討が必要だと考えられています。継体天皇とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
58歳という高齢で即位した「大王」
現在、私たちは「継体天皇」と呼んでいますが、当時から「天皇」という称号が使われていたわけではありません。当時の支配者は「大王(オオキミ)」と呼ばれていたと考えられています。「継体」という名称も、後世になって贈られた漢風諡号です。
『古事記』では「おほどのみこと」、『日本書紀』では「おほどすめらのみこと」と記され、その本名は「オホド」とみられます。応神天皇の5世孫とされ、即位する以前は越前を拠点としていた人物でした。なお、『古事記』では近江を拠点としていたと記されています。
継体天皇が歴史上注目される最大の理由は、その即位の経緯です。
第25代武烈天皇が若くして亡くなった際、後継者が存在しなかったため、大和王権は新たな王を探すことになりました。『日本書紀』によれば、当初候補となったのが丹波の倭彦王(やまとひこおう)でした。しかし、倭彦王は武装した使者を恐れて逃亡したとされており、即位することはありませんでした。
そこで候補として浮上したのが、遠く越前にいたオホドでした。当初、大友金村らに使者を派遣され警戒したオホドでしたが、旧知の人物である馬飼首(うまかいのおびと)の説得を受け、王位を受け入れることになります。即位は河内の樟葉宮で行われました。即位当時58歳という年齢を考えると、これはかなり異例の即位だったといえるでしょう。
『日本書紀』に描かれた「正当な即位」
ただし、この即位経緯をそのまま史実として受け取るには注意が必要です。『日本書紀』には、継体天皇の即位を正当化するような描写が含まれている可能性が高いです。
そのひとつが、倭彦王の説話です。「ヤマトヒコ」という名前は、当時「大和の男子」といった一般的な名称として使われていたと考えられており、特定の個人を指す固有名詞としてはかなり不自然です。そのため、実在した人物ではなく、王位を引き受けることをためらわなかった継体天皇の姿を際立たせるために創作された人物ではないかと考えられます。
また、『日本書紀』には武烈天皇の暴虐ぶりが詳しく記されています。爪をはがして芋を掘らせたり、木に登らせたうえでその木を切り倒したりするなど、極めて残酷な行為を行ったとされています。しかし、こうした記述は『古事記』には見られません。
これは、武烈天皇が悪逆非道であるために、自分の子孫を後継とすることができなかったのだという理由付けのための創作である可能性があります。後継者がいない混乱を収めるために継体天皇が迎えられたという構図を作ることで、継体天皇の即位を「王位を奪った」のではなく、「混乱した王統を救った正当な継承」として説明できるようにしたのです。
さらに重要なのが、手白香皇女(たしらかのひめみこ)との婚姻です。手白香皇女は先々代の天皇である仁賢天皇の娘でした。継体天皇は、この手白香皇女を皇后とすることで、それまでの王統との結びつきを強めています。つまり、継体天皇は遠方から突然現れた人物ではあるものの、旧王統の血筋を持つ女性と婚姻することで、大和王権を継ぐための正統性を確保したのです。
武力で王位を簒奪した?――「王朝交代説」の真偽
このように、継体天皇は他の天皇と比べ様々な点で特異な存在であると言えます。それゆえに、いろいろな説が囁かれることとなりました。そのひとつが、「王朝交代説」です。
継体天皇は樟葉宮で即位した後、筒木宮・弟国宮を経て、最終的に大和の磐余玉穂宮へ入ったとされています。その期間はおよそ20年にも及びます。この長い移動期間から、継体天皇は当初大和に入ることができず、反対勢力と長期間にわたって対立したのではないか、そして最終的には武力によって大和王権を奪取したのではないかという説が生まれました。
しかし、現在では別の見方が有力です。継体天皇が拠点とした樟葉・筒木・弟国はいずれも淀川水系に位置しています。つまり、これらの地域を移動していたことは、必ずしも大和王権との戦争を意味するわけではなく、もともと河内・淀川水系を基盤として活動していた大豪族が、その勢力圏の中で拠点を移していたと考えることができるのです。
さらに、継体天皇が大和に入れなかったのであれば、なぜ大和の旧王統につながる手白香皇女と結婚できたのかという疑問が生じます。この点からも、「大和勢力と対立し、武力で王位を簒奪した征服者」という単純な図式には当てはまらないと言えるでしょう。継体天皇は王朝を奪った人物ではなく、既存の王統との血縁関係を利用しながら王位を継承した人物と見ることができるのです。
最大の事績「磐井の乱」――大和王権の統治のあり方
継体天皇の時代を語るうえで重要と言えるものが、磐井の乱です。
当時、朝鮮半島では新羅が周辺の小国を制圧して、その影響力を強めていました。大和王権はその小国たちを支援しており、新羅とは敵対する状態にあったのです。支援の一環として、毛野臣(けなのおみ)が派遣され、小国の復興にあたっていました。
『日本書紀』では、この動きを快く思わなかった新羅が筑紫君磐井に賄賂を渡し、支援を妨害させたとされています。これに対し、継体天皇は物部荒甲(もののべのあらかい)を派遣し、九州で磐井を討伐させました。
興味深いのは、磐井を討ったあと、その息子が許されて筑紫国の国造になったとされる点です。これは、反乱勢力を完全に排除するのではなく、服属した有力者を新たな支配体制の中へ組み込んでいくという大和王権の統治方法を示していると言えるのではないでしょうか。
今城塚古墳が伝える継体天皇の姿
継体天皇の実像を考えるうえでは、考古学的な資料も重要です。継体天皇の真陵と考えられている今城塚古墳(大阪府高槻市)からは、九州産とみられる石材や、船を描いた埴輪などが見つかっています。これらの出土品は、当時の人々が磐井の乱における継体天皇の功績を重要なものと捉えていたことをうかがわせます。
継体天皇の即位は、古代史上最大級の謎のひとつです。遠方から迎えられた58歳の王という異例の経歴から、かつては新王朝の創始者というイメージも持たれてきました。しかし、手白香皇女との婚姻や、継体天皇が活動した地域の地理的条件、そして磐井の乱後の統治のあり方などを総合すると、たんに「王朝交代」として説明することは安易であると言えるでしょう。
継体天皇は、旧王統との血縁を結び、大和王権の支配を引き継ぎながら、地方豪族を統合していった大王だったと見ることができます。古代日本の王権がどのように「継承」され、どのように全国的な支配へと発展していったのか。その過程を考えるうえで、継体天皇は極めて重要な存在なのです。





