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明智光秀は生き延びていた?!光秀=天海説は本当か?
「明智光秀が主君・織田信長に謀反を起こすも、直後に羽柴秀吉の仇討ちに遭い、光秀はあっけなく死んだ」
これが、多くの方が知る本能寺の変の顛末でしょう。
しかし、この常識を覆す「明智光秀の生存ルート」なるものが存在していたとしたらどうでしょうか。
今回は、「明智光秀が山崎の戦いを生き延び、その後『南光坊天海(なんこうぼうてんかい)』として徳川家康に仕えた」という説をご紹介します。
南光坊天海は何者?
まずは、今回の記事で鍵となる実在の僧侶「南光坊天海」がどのような人物だったのかをご紹介します。
天海の出自については現在でも謎が多く、天海が史料に現れるのは徳川家康の天下統一後、つまり光秀の死後なのです。
それ故に生存した明智光秀=天海説へと発展していったものと思われます。
急に現れた老僧
前述のとおり、天海の前半生は謎に包まれています。
彼が徳川家康の前に現れたのは既に老僧となっていた頃です。
それにも関わらず、天海は天下人・家康の側近となり、いくつもの重要政策に関わっていくことになります。
政策だけでなく、関ヶ原の戦いや大阪の陣でも鎧を着て家康の側近として活躍していたとされています。
都市計画・朝廷政策
秀吉により関東に移封されて以来、江戸を本拠地としていた家康は、天下統一後に本格的に江戸の町づくりを行います。
江戸の都市計画にも天海は大きく関与しており、未開拓だった江戸を現在の首都・東京に繋がる大都市へと発展させることに貢献したと言われています。
江戸の町づくりも風水であったり水道の通し方、位置など色々と家康に助言していたと言われています。
また天海は、徳川幕府の朝廷政策にも関与しました。
明治になるまでの約260年間、徳川幕府が日本の統治を任されていましたが、これは江戸時代初期の朝廷に対する牽制が大きな要因となっています。
家康が朝廷から力を奪う中で起きた有名な出来事が「紫衣事件」です。
一番位の高い高僧のみが着ることを許される「紫衣」を与える権限があった朝廷は、僧侶から多額の献金を受け取っていましたが、家康は紫衣の付与権を朝廷から奪ってしまいました。
この紫衣事件にも天海が関わっていたと言われています。
比叡山の再興・日光東照宮の造営
また天海は、家康の宗教的な政策にも大きく関わっています。
1つ目に、織田信長の焼き討ちにより荒廃した延暦寺を再興させました。
現在も延暦寺が存続しているのは天海のおかげなのかもしれません。
2つ目に、日光東照宮の造営が挙げられます。
のちに家康が神として祀られる日光東照宮ですが、日光という場所に造営を定めたのも天海の意見だったとされています。
明智光秀=天海説の根拠
急に天下人・家康のもとに現れたかと思いきや、江戸時代の基礎になる家康の重要政策にいくつも関与している謎の僧・天海。
では、一体なぜ天海が光秀と同一人物だと疑われているのでしょうか。
ここからは、いくつかの根拠を例示しつつ、いよいよ明智光秀=天海説を考察していきます。
明智光秀=天海説の根拠①
明智光秀=天海説の根拠の1つ目は、天海の前半生が謎に包まれているにも関わらず、家康の天下統一後に急に側近として辣腕を振るったという事実です。
この不自然とも言える天海の抜擢は、天海が只者ではない人物だったことを示すには十分です。
また、明智光秀=天海説に基づけば、天海の前半生が不明であるという点とも整合します。
明智光秀=天海説の根拠②
2つ目の根拠として、天海が造営に関わった日光東照宮やその周辺に明智光秀の痕跡が残っているという点です。
日光東照宮には、明智光秀が使っていたことで有名な「桔梗紋」があるのです。
また、日光には「明智平」という地名も残っており、これは天海が自らの本名を残したものだとも言われています。
明智光秀=天海説の根拠③
徳川幕府三代将軍・徳川家光の乳母を務めた人物に「春日局」がいます。
彼女は、昔から徳川家に仕えていた家の娘ではありません。
それどころか、彼女は本能寺の変にも参加している明智光秀の重臣・斎藤利三の娘なのです。
また、徳川幕府四代将軍・徳川家綱の乳母を務めた「三沢局」も、光秀の家臣であった溝尾茂朝の孫にあたる人物です。
このように、徳川幕府の要職である将軍の乳母に、謀反人であるはずの光秀の縁者がいたという事実も、明智光秀=天海説の根拠の一つとなっています。
明智光秀=天海説の根拠④
極めつけは、三代将軍・徳川家光の名前。
家光の「光」は光秀の「光」だという解釈が存在するのです。
幕府に影響力をもった天海は、自らの名前の一字を将軍の名前に残したというのです。
明智光秀と南光坊天海の前半生
明智光秀といえば、本能寺の変を起こして主君・織田信長を倒した人物ということは広く知られていますが、彼の前半生については知らない方も多いのではないでしょうか。
光秀の生い立ちを紐解いていくと、明智光秀=天海説のヒントも見えてくるかもしれません。
明智光秀の前半生は謎が多い
誰もが知る有名人であるにも関わらず、実は織田信長に出逢うまでに明智光秀がどのような生涯を送ってきたのか、はっきりとしたことは分かっていません。
生年や出生地・家柄など、基本的な情報すらも諸説あるのが実情です。
そのため、光秀は低い身分の出身であった可能性も指摘されています。
明智光秀がどのような人物だったのか、限りある資料から考察した記事もございますので、是非こちらも併せてご覧ください。
明智光秀はどんな人だった?『麒麟がくる』から激変した人物像を解説!
天海の生い立ちは?
家康の右腕として政治的手腕を発揮した天海ですが、彼もまた、家康に出逢うまでにどのような前半生を送ってきたのかが明らかになっていない人物です。
それどころか、家康に仕えるようになったいきさつすらも謎に包まれており、いきなり家康の前に現れて重要な役割を任せられている、正体不明の不思議な人物なのです。
このように、光秀・天海とも前半生の詳細は不明であると言わざるを得ません。
明智光秀が企てた本能寺の変の真相について考察した記事もございますので、こちらも併せてご覧ください。
織田信長と本能寺の変!黒幕は誰?明智光秀の謎と真相に迫る
明智光秀は生き延びていた?!光秀=天海説は本当か?│まとめ
ここまで「明智光秀=天海説」を解説してきましたが、お読みになった皆さんもお察しの通り、この説には無理があり、こじつけに過ぎないと言わざるを得ません。
東照宮の桔梗紋も、似ているだけで別物であるとされていますし、「明智平」という地名もどうやら後世に付けられたもののようです。
さらに、名前に「光」という漢字を使った人物もたくさんいますし、家光と光秀を結びつけるのは少々無理があると言えるでしょう。
ただし、天海は春日局と仲が良かったとも言われており、天海自身が明智光秀と何か関わりのある人物であった可能性はあるのかもしれません。
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