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やっぱり無能?足利義昭はなぜ織田信長を裏切ったのか?
室町幕府の第15代にして最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)。
織田信長と共に念願の上洛を果たし将軍に就任した義昭は、信長を「我が父とも思う」といい、大変に慕っていたと伝わります。
しかし、その後の争乱の中で義昭は信長を裏切ることになるです。
その裏切りの理由はなんだったのでしょうか?
室町幕府滅亡の契機となった裏切り劇、その決断は義昭の無能ゆえのものだったのか詳しく解説していきます。
大河ドラマ『どうする家康』をより楽しみたい方はぜひチェックしてみてください。
足利義昭は織田信長に不満があった!?
義昭の裏切りの理由として、信長の傀儡にされていることへの不満が募っていたため、とよく説明されていました。
しかし、現在この説は否定されています。
それどころか、むしろ義昭は信長と協調しともに戦っていたのです。
織田信長の出した「五か条の条書」の意図
「五か条の条書」という、信長から義昭に対して出した約束事があります。
主な内容は下記の通りです。
・諸大名へ命令を出す際は、必ず信長を通すこと
・軍事行動は全て信長に任せること
・将軍は朝廷の儀式などを油断なく務めること
義昭は将軍であるにもかかわらず、信長の決めたことに全て従わなければならなかったことがわかります。
義昭が不満を募らせるのも仕方ないとも思える内容ですね。
しかし最新の研究では、義昭は五か条の条書に反発していたわけではなく、義昭も納得の上で約束を交わしていたのではないかといわれています。
どうやら信長は、領地没収や討伐などの矢面に自分が立つことで、義昭へ不平や不満が集まらないようにし、将軍の威信を保たせようとしたのです。
また、義昭が将軍に就任したことで天下静謐(てんかせいひつ)が訪れたのだから、将軍ではなく将軍の下の立場の信長が動くべきだという意図もあったようです。
天下静謐とは?
世の中が平和に治っていること。
このように五か条の条書は信長が義昭を傀儡にするために出されたものではなく、信長が義昭を守るための約束事だったのです。
織田信長は他にも、アメとムチを活用した政策で功績を上げた人物でもあります。詳しくは以下の記事で詳しく解説しています。
織田信長が行った政策の狙いは?政治や経済への影響をわかりやすく紹介
元亀争乱での織田信長と足利義昭の協調
義昭は元亀年間の争乱を信長と協調し、ともに戦っています。
主な出来事は下記の通りです。
・朝倉攻め
義昭に反発する朝倉義景を、信長が幕府軍として討伐
・三好三人衆の挙兵
三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が義昭を攻撃するも、信長が援軍を出し義昭に協調
・本願寺の挙兵
本願寺が浅井長政・朝倉義景と共に信長を攻撃し、協調していた義昭も標的に
信長包囲網といわれる反信長の勢力は、信長を倒すだけでなく協調している義昭も倒そうとしていたのです。
足利義昭による朝廷工作
浅井・朝倉軍と信長は、姉川の戦いの後、一度講和しています。
その際、義昭は公家・二条晴良を連れ、自ら使者として交渉に向かいました。
将軍として幕府の名の下に停戦を申し立てることができなかったため、天皇の名を借りたのです。
もし義昭がただの傀儡であれば、わざわざ朝廷の力を借りることはなかったでしょう。
義昭自身に信長と協力している意識があったからこその行動ではないでしょうか。
足利義昭の「御逆心」の決断と理由とは!?
信長と協調路線を歩んでいた義昭。
なぜ、信長を裏切ってしまったのでしょうか?
そこには、義昭の周囲を敵に囲まれてしまった苦しい情勢だけでなく、信長に勝てるという勝算がありました。
「信長を裏切るのは当たり前」と誰もが思えるような当時の義昭の状況を解説します。
裏切った主な理由
①幕臣たちの分裂が義昭の裏切りの契機に
②織田信長が足利義昭に出した十七か条の異見書
③松永久秀の離反
④三方原の戦いで武田信玄が徳川家康を撃破
⑤浅井長政による義昭への信長離反の働きかけ
理由①幕臣たちの分裂が義昭の裏切りの契機に
信長と協力関係にあった義昭でしたが、義昭の部下である幕臣たちは信長への協調に反対していました。
幕府から十分な所領を受けられず、困窮していた幕臣たち。
義昭の黙認の下、自力で寺社領などを押領していましたが、それを信長に咎められてしまったのです。
信長は幕臣に自領を提供するのを条件に、押領をやめさせようとしました。
しかし、幕臣たちは成り上がりの信長から所領をもらうことにプライドが許さず、所領の提供を拒みます。
そしてますます、反信長感情を高めていくのです。
理由②織田信長が足利義昭に出した十七か条の異見書
義昭が信長への裏切りを決断する決定的な出来事に十七か条の異見書がありました。
十七か条に渡り、義昭への説教が綴られています。
この異見書は義昭を怒らせ、信長を裏切るきっかけとなるには十分な内容でした。
しかし、義昭はこの異見書への感情的な問題だけで、裏切りを決断したわけではありません。
理由③松永久秀の離反
織田信長から大和国(現在の奈良県)を任されていた守護大名・松永久秀。
久秀は大和国を治めるために、筒井順慶をはじめとする地元の国衆に強い圧力をかけていました。
義昭は久秀をよくは思わず、同様に久秀も義昭に早くから反抗的な態度をとっていました。
そんな中で義昭は久秀を黙らせるため、久秀と敵対する筒井順慶に娘を嫁がせます。
堪忍袋の尾が切れた久秀は義昭から離反し、三好や本願寺側についてしまいました。
大和国という京のすぐ近くの守護大名・松永久秀が敵対したことは、義昭にとっての大きな危機となったことに違いありません。
理由④三方原の戦いで武田信玄が徳川家康を撃破
三方原の戦いで信玄が家康を撃破し、家康と同盟関係にあった信長は信玄の討伐にかかりきりとなりました。
信長の助けが見込めない義昭は、浅井・朝倉、延暦寺、三好三人衆、六角、本願寺、松永に囲まれ、完全に孤立してしまったのです。
理由⑤浅井長政による義昭への信長離反の働きかけ
信長の義弟でありながら朝倉家と手を組み、信長と敵対していた浅井長政。
長政は信玄が家康に次いで信長も倒すのではと考え、義昭に信長への離反を提案します。
反信長感情を抱く幕臣たちの進言もあり、義昭は長政の働きかけを受け入れ、ついに信長を裏切る決意をしたのです。
足利義昭はやっぱり無能だった?
大河ドラマ『どうする家康』ではバカ殿とも言える扱いで登場した義昭。
信長の傀儡であり、のちに室町幕府を滅ぼしてしまう将軍である義昭は、『どうする家康』で描かれるような無能な人物だったのでしょうか?
義昭が無能だったとよく言われる3つのエピソードを読み解いてみましょう。
ただの無能ではなく、目的を持って政治に関わっていた義昭の人物像が見えてきます。
足利義昭は争乱中に舞踊見物をしていた!?
三好が挙兵した際、義昭は京で舞踊見物をしていたとする記録が残っています。
争乱の最中、部下に戦を任せ、自分は舞を楽しんでいたということですね。
いかにも無能な上司がしそうなエピソードですが、これは天下静謐をアピールする政治的行為だったと言われています。
信長の下、平和になった天下では将軍が優雅に舞を見物している姿を見せる必要がありました。
義昭は戦には向かわずあえて京に残ったのです。
足利義昭は強欲な将軍だった!?
義昭は各地の守護大名などに馬やお金を要求していたと伝わり、信長は十七か条の異見書でも強欲さを強く叱責しています。
各地で金品を要求するなど、確かに強欲な将軍がしそうなことですね。
しかしそれは義昭が強欲だったためではなく、権威を見せつけなくてはならなかったためではないかと考えられるのです。
戦国の乱世において、何も要求せずただ存在するだけの将軍では、大名たちから軽んじられる可能性も大いにあります。
義昭には権威を誇示しなければならないジレンマがあったのではないでしょうか。
各地の大名から見くびられることを防いでいた点で、ただの無能な将軍ではなかったのです。
松永久秀の離反を招いた失政
義昭が信長を裏切ることになった要因の一つである、松永久秀の離反。
久秀と敵対する筒井順慶に娘を嫁がせるという義昭の挑発行為により離反が起きてしまい、結果的には失策となってしまいました。
しかし大和国を牛耳る久秀の力を分散させようとした点で、目的があった政策といえます。
義昭は無能などではなく、しっかりとした目的意識を持って政策を実行していた人物なのです。
やっぱり無能?足利義昭はなぜ織田信長を裏切ったのか?|まとめ
織田信長と協調するも離反し、240年間におよぶ室町幕府を滅ぼしてしまった足利義昭。
大河ドラマ『どうする家康』ではバカ殿ともいえる演出をされていました。
無能な将軍といわれることの多い人物ですが、義昭による信長への裏切りは情勢を冷静に分析した上での勝算があっての決断でした。
義昭はけして無能ではなく、むしろ信長と敵対する中で真価を発揮した聡明な人物だったのではないでしょうか。