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【検証】松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物?伊賀国出身の2人を徹底比較
俳諧で名を馳せた松尾芭蕉と、忍者で有名な服部半蔵。
正反対に近い職種に就いている両者ですが、実は同じ人物なのではないかと噂されています。
全く共通点がないように見える2人ですが、一体なぜそのような説が浮上しているのでしょうか。
今回は2人が同じ人物であるのかやそれぞれの生涯、同一人物だと疑われている理由について紹介していきます。
松尾芭蕉と服部半蔵の同一人物説について興味がある方は、ぜひチェックしてみてください。
服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物なの?
代々受け継がれる「服部半蔵」の名前を持ち、時に徳川家康のサポート役にも回った服部半蔵(はっとりはんぞう)と、長旅の中で生み出した文芸作品「奥の細道」を執筆した松尾芭蕉(まつおばしょう)。
それぞれ名前は違いますが、交わる特徴があることから「実は同じ人なのではないか」と言われています。
ではこの2人は本当に同じ人物なのでしょうか。
ここからは2人の同一人物説の正否や噂されている理由、それぞれの生涯について解説していきます。
【結論】服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物ではない
結論からいうと、服部半蔵と松尾芭蕉が同じ人である可能性は低いとされています。
服部半蔵の名は代々受け継がれており、同一人物説が濃厚なのは2代目の服部半蔵です。
代 | 名前 | 生没年 |
---|---|---|
2代目 | 服部半蔵正成(まさなり) | 1542年~1596年(~1597年) |
3代目 | 服部半蔵正就(まさなり) | 1576年~1615年 |
4代目 | 服部半蔵正重(まさしげ) | 1580年~1652年 |
しかし2代目正成と松尾芭蕉の生没年1644年~1694年と比べると、それぞれ生存していた年が一致しません。
そのため同一人物の可能性は低いと考えた方がいいでしょう。
また1596年(~1597年)にこの世を去った2代目正成はもちろん、3代目正就も1615年にはこの世を去っており、4代目正重が死亡したのは1652年。
この時点で正重は72歳~73歳だったので、3代目または4代目が松尾芭蕉の可能性も薄れています。
なお服部半蔵の名は4代目以降も存在しており、12代まで受け継がれたといわれていますが、松尾芭蕉ではないかといわれている2代目とは代が離れているため、4代目以降の服部半蔵が松尾芭蕉である可能性は低いといえるでしょう。
服部半蔵の生涯
服部半蔵と聞くと忍者をイメージする方が多いのではないでしょうか。
しかし実は歴代の服部半蔵が全て忍者だったわけではなく、主に忍者として活動していたのは初代服部半蔵の保長(やすなが)でした。
徳川家康(とくがわいえやす)のサポート役に回った2代目正成は、もともと忍者ではなく武将。
徳川家康の伊賀越えを手助けしたことがきっかけで、伊賀を率いる役目を担うようになったものの、関ヶ原の戦い寸前で病魔には勝てず命を落としました。
そのあと服部半蔵の名を受け継いだのが3代目正就です。
ただ正就はトラブルメーカーで、正就自身の都合で忍者を使っていたことから、他の忍者に嫌われていたという説もあります。
結果的に、トラブルが原因でクビになってしまうのですが、正就は名誉挽回をしようと大坂の陣に参戦。
しかしここで正就は最期を迎えてしまい、4代目の正重へと名が引き継がれます。
4代目以降は12代目まで服部半蔵の名が受け継がれていき、それぞれの生涯を過ごしたのです。
松尾芭蕉の生涯
松尾芭蕉は1644年に伊賀で生まれ、有名作「奥の細道」を執筆した俳人です。
もともと10代の頃から俳諧を学んでいたものの、共に学んでいた藤堂良忠の死をきっかけに、さらに俳諧への熱意がこもるようになりました。
野ざらし紀行の旅に出たのは41歳で、奥の細道の旅に出たのは46歳。
その後、1694年に旅先であった大阪にて人生の終止符を打ちました。
奥の細道による旅は約2,400㎞もの長い旅になっており、約150日もかかったといわれています。
なぜ同一人物説が生まれたのか
松尾芭蕉が奥の細道で移動した距離はおよそ2,400㎞。
日本でたとえると沖縄県の沖ノ鳥島~北海道の択捉島までの距離よりも少し短いくらいの長さがあり、相当脚に自信がないと最後まで歩き切るのは不可能です。
松尾芭蕉が奥の細道の旅に出た頃は46歳で、当時の平均寿命から考えると古老といっても過言ではありません。
そういったことから
「忍者であれば支障なく旅ができるのではないか」
といった考察が生まれ、
「忍者といえば服部半蔵。つまり2人は同一人物なのではないか」
といった噂が立ちました。
また松尾芭蕉が旅をしていた頃は自由に県をまたぐことはできませんでしたが、松尾芭蕉は難なく関所を突破していたといわれています。
通常であれば関所はそう簡単には通れませんが、問題なく通過できたということから裏でなんらかの力が働いていたという疑惑が生じ、徳川家康に厚遇されていた2代目正成との同一人物説が浮上しました。
松尾芭蕉が全国を旅した理由
旅を始めたのは40代からで、当時の平均寿命から推測すると万全のコンディションではないことが予想されます。
それなのになぜ松尾芭蕉は旅をしたのでしょうか。
ここからは松尾芭蕉の旅について見ていきましょう。
松尾芭蕉の旅の目的
松尾芭蕉の旅の目的は修行はもちろん、各所を訪れ古人の心に触れ合いたいという目的から旅に出ました。
旅を始めたのは決して若い頃ではありませんが、だからこそ各所を自分の目で見て、古人と心を通わせ俳諧への心を改めようとしたとも捉えられます。
【小話】松尾芭蕉は通行手形なしで関所を突破したって本当?
通常であればこの時代は通行手形なしで関所を突破するのが難しい時代でした。
しかし、松尾芭蕉は通行手形をなしに顔パスで関所を通過したといわれています。
よほどのことがない限り、通行手形なしに突破することは難しいとされている関所。
俳諧人である松尾芭蕉が実際に通行手形なしで通過していたとなると
「実は忍者だったのでは…」
「幕府の力が働いて、通行手形の提示を免除されたのでは…」
といった説が浮上してしまうのも無理はないでしょう。
服部半蔵と松尾芭蕉が伊賀国出身である意味
2人の出身地でもある伊賀国は、かつて多くの忍者を輩出した地方でした。
伊賀国といえば、はじめに「忍者」のイメージを抱く方も多いかもしれません。
では2人が同じ伊賀国出身だったのには何か意味があったのでしょうか。
ここからは伊賀国について深く説明していきます。
伊賀国は現在でいうどこら辺?
伊賀国は現在の三重県伊賀市にありました。
松尾芭蕉の出身地も、服部半蔵の出身地も同じ伊賀国といわれています。
しかし正確には、同一人物説が濃厚な2代目正成の出身地は伊賀国ではなく三河国で、初代服部半蔵保長の出身地が伊賀国です。
伊賀国出身者は忍者や俳人になりやすかった?
忍者には現三重県にあたる伊賀と、現滋賀県にあたる甲賀があり、忍者の多くはこの2つから輩出されています。
伊賀と甲賀の周辺は険しい山に囲まれて隠れ里とされていたこともあり、身を潜めることはもちろん、険しい山を利用して修行に勤しむことにも適していました。
また、伊賀国出身者には本業が忍者なものの、身を隠すために俳人を装う方もいます。
そういった背景から、伊賀国出身の人間は比較的俳人にもなりやすいと言えるでしょう。
伊賀国出身者が徳川家康に厚遇された?
徳川家康は2代目成正の協力もあり、無事伊賀越えを成功させました。
これは伊賀の協力もあってこそ成功に終わり、徳川家康にとって伊賀は救世主とも言えるでしょう。
そのため、伊賀越えをきっかけに伊賀が徳川家康に仕えるようになり、厚遇されたといわれています。
松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物?伊賀国出身の2人を徹底比較|まとめ
結果的に2人には交わる特徴がありながらも、同じ人物の可能性は低いといえます。
初代保長と松尾芭蕉の出身地が同じ伊賀国なのは大きな接点ですが、そもそも2人の年代が違うことや、同一人物説が濃厚な2代目正成とも年代が違うことから同じ人であると断言するのは難しいです。
しかし松尾芭蕉が旅先でスムーズに関所を通れたことについては、俳諧人の顔の裏にまた別の顔を持っていた可能性も考えられるでしょう。
今も人気がある服部半蔵と、今もなお作品が読み続けられている松尾芭蕉。
2人が同じ人物である可能性は低いですが、どちらも活躍した人物には変わりありませんでした。