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伊達政宗の死因は?亡くなった場所や辞世の句、政宗の生涯を振り返る
伊達政宗(だてまさむね)は「独眼竜」の異名を持ち、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた戦国武将です。天下人になるだけの実力を兼ね備えており、「10年早く生まれていれば天下を獲っていた」とも言われています。
そんな彼の死因は未だ謎に多く包まれており、多くの人がその真相を知りたいと思っているのではないでしょうか。
この記事では伊達正宗の下記の内容を知ることができます。
- 死因や亡くなった場所
- 右目と死の関係性
- 絶世の句
- どんな生涯だったのか
【結論】伊達政宗の死因は?
伊達政宗は寛永13年(1936年)5月24日の早朝に亡くなりました。享年70歳でした。
死因はがん性腹膜炎または食道がんだったと考えられています。
寛永13年(1936年)年4月下旬に、参勤交代で江戸を訪れた時にはすでに政宗の腹部は大きく膨れ上がっていたことから、腹部に水がたまる症状が出るがん性腹膜炎を起こしていたと推測されております。
またもう1つの死因として、亡くなる数年前から食事が満足にできないようになっており、食欲不振と嚥下障害が症状として現れる食道がんを患っていたという説もあります。
そのため、政宗の死因はがん性腹膜炎か食道がん、もしくは2つの病気を併発したという説が有力です。
伊達政宗は愛姫に別れを告げることなく最期を迎えた
政宗は、同じ屋敷内に居た正室である愛姫(めごひめ)に別れを告げるどころか、1度も会うこともなくこの世を去りました。
愛姫は「見舞いに行きたい」「会いたい」と何度も懇願しますが政宗はこれを断固拒否します。
愛姫の立場からすると自分の主人が病気で弱っており、いつこの世を去ってもおかしくない状態ならそばにいて見守りたいと思うのは当然のことです。
政宗が面会を拒否した理由は、愛する妻に病気で弱った姿を見せたくないと思ったからです。
面会を拒否する代わりに、政宗は愛姫に高級なお香や巻物とともに「2、3日後には会って話すから今回はこれで我慢して下さいね」といった内容の手紙を亡くなる前日に送っています。
手紙には2、3日後と書きましたが自分の病気の進行具合から短期間で回復するとは当然思っておらず、愛した妻・愛姫の心の中の自分は常に凛々しい姿であって欲しいという政宗の願いがあったのでしょう。
伊達政宗の死と右目の眼帯は関係ある?
政宗の右目の眼帯と死因には因果関係はありません。
幼少期に患った天然痘の影響で右目が不自由になったと言われていますがこれを裏付ける資料や調査結果などが出ていないため、右目の真相については未だ不明瞭です。
戦国当時に描かれた政宗の肖像には、右目に異常をきたしている肖像がほとんどありません。
これは政宗が右目に異常をきたしている様子を後世に遺すことを嫌ったためとされており、数は少ないながら瑞厳寺や東福寺などが所蔵している肖像画や木像は右目が閉じられているため、視力に不自由をかかえていたことは間違いないでしょう。
しかし眼帯をしている肖像画や木像は残っておりません。
なぜ伊達政宗が大河ドラマや戦国ゲームなどで右目に眼帯をしているかというと、完全に後世の創作です。
政宗が眼帯をしている姿が確認できるのは昭和初期に放映された「獨眼竜政宗」という映画が初めてで、その後渡辺謙が主演を務めた大河ドラマ「独眼竜政宗」が大ヒットしたことで伊達政宗=眼帯というイメージが完全に定着しました。
前述でもあるように政宗の死因は病気であり、右目の眼帯とは因果関係はありません。
伊達政宗の生涯について、下記の動画で詳しく紹介していますので、合わせてご覧ください。
伊達政宗が亡くなった場所は?
政宗は江戸の伊達家上屋敷で亡くなりました。
寛永11年(1634年)頃から体調を崩し始め、参勤交代で寛永13年(1936年)4月28日に江戸に入った頃には嚥下困難に嘔吐が伴い絶食が続き、腹部が腫れ上がっていました。
それでも無理を押して三代将軍である徳川家光(とくがわいえみつ)と謁見。
その際に家光は政宗の酷く痩せた顔を見て、その衰弱ぶりに驚き数十名の医者を呼んで江戸中の寺社に快復平癒の祈祷をさせたと言われています。
家光が一目見ただけで政宗の身体の状態が良くないと判断したことから、参勤交代の時にはすでに政宗の病気の進行状態は手遅れだったことが伺えるでしょう。
家光は政宗を心配して伊達家上屋敷へ見舞いに訪れますが、その数日後に政宗は亡くなりました。
伊達政宗の墓の場所は?
政宗の墓は宮城県仙台市青葉区の瑞鳳殿にあります。
参勤交代で江戸へ出発する前に政宗が友とした鳥・ホトトギスの声を一聴しようと奔走していた様子が「政宗公御名言集」にて確認できます。
ホトトギスは旅立ちには縁起の悪い鳥であり教養人である政宗はこのことを知っていたはずですが、政宗は自分の死期が近い事を悟りあえてホトトギスの声を求め奔走し自分の墓の場所を決めたのではないでしょうか
結果的に江戸から生きて帰ってくることはありせんでした。
政宗はホトトギスの声を聞いた場所に自分の墓を作るように遺言を残し、亡くなった翌年に遺言通り墓が建立され「瑞鳳殿」と名づけられました。
瑞鳳殿は第二次世界大戦の仙台空襲で全焼してしまいましたが、昭和後期に再建され現代では仕事と人間関係向上のパワースポットとして有名です。
伊達政宗が詠んだ辞世の句
伊達政宗は、死の前に以下の辞世の句を詠んだと言われています。
「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
現代訳
先の見えない暗闇の中を月の明かりを頼りに道を進むように、戦国の先の見えない世をひたすらに歩いた一生だった
幼少期に病気で右目の視力を失い、豊臣家や徳川家との綱渡り的な外交を強いられつつも東北の覇者となり地元に愛される領主として自領の発展に尽力した政宗らしい一句です。
伊達政宗の生涯を振り返る
政宗が生まれてから戦国の世を戦い抜き病死するまでの一生を表にまとめました。
年代 | 出来事 |
---|---|
1567年 | 陸奥国(現在の福島県南部)の上杉謙信の家臣として生まれる |
1584年 | 上杉氏との戦いで功績を挙げ、伊達家の当主となる |
1590年 | 豊臣秀吉による小田原征伐に参加し功績を挙げる |
1600年 | 関ヶ原の戦いで東軍につき勝利。家康の信頼を得る |
1601年 | 仙台城を築城し仙台藩の基盤を築く |
1611年 | 仙台藩の領土を拡大するため出羽国(現在の山形県)の米沢藩と戦い勝利する |
1615年 | 大坂の陣に参加し功績を挙げる |
1636年 | 享年70歳、病に倒れ亡くなる |
小田原討伐の際は伊達家を存続させるべく断腸の思いで豊臣秀吉の傘下に入り討伐対象となるのを回避し、関ヶ原の戦いでは東軍につき徳川家に三代にわたり仕えました。
政宗が病死した後、家臣15名が主君の後を追って切腹したと言われています。
主君の後を追って切腹をする行為は当時禁じられており政宗が亡くなった際も家光は仙台の家臣たちに殉死しないよう通達しましたが、家臣たちの強い希望により特例として認められました。
政宗の廟所の隣には殉死した直臣15名とその家臣5名の合計20名の供養塔がたっていることから、政宗は多くの家臣に慕われていたことが伺えます。
伊達政宗の死因は?亡くなった場所や辞世の句、政宗の生涯|まとめ
伊達政宗の死因は嚥下困難や腹部が腫れ上がるといった症状から、がん性腹膜炎または食道がんが原因だと考えられています。
寛永13年(1936年)に参勤交代で家光に謁見した後、江戸の伊達家上屋敷で息を引き取る際には弱っている姿を見られたくないことから愛する妻の面会を拒否し自分なりの男の美学を貫き通しました。
戦国武将として戦いに明け暮れましたが大坂の陣を最後に戦から離れ、生涯の半分は平穏な生活をしていたとされています。
▼主な参考文献