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信長の娘・五徳姫のその後と辿った生涯
織田信長の娘であり、徳川家康の嫡男・松平信康の正室として知られる五徳姫。
大河ドラマ『どうする家康』では乃木坂46の久保史緒里さんが演じており、話題を呼んでいます。
五徳姫といえば、徳川家最大の黒歴史といわれている信康事件の発端となる『十二箇条の条書』を送ったことで有名ですが、本当に五徳姫がそのような手紙を送ったのか疑問の声が上がっています。
信康事件が起こったとされる後、五徳姫は一体どのような人生を送ったのでしょうか。
今回の記事では、『十二箇条の条書』の真相と五徳姫の辿った生涯について詳しく解説していきますので、『どうする家康』で五徳姫に興味を持った方はぜひチェックしてみてください。
五徳姫の生い立ち
五徳姫は、1559年(永禄2年)に織田信長の長女として誕生しました。
信長は正室の帰蝶(濃姫)との間に子供ができなかったため、次の妻である生駒氏の娘(吉乃)と子供をもうけており、五徳はその娘になります。
織田家の嫡男・織田信忠と次男・織田信雄も吉乃の息子であり、五徳の実兄にあたります。
長男の「奇妙丸」や次男の「茶筅丸」など、信長の子供たちは独特な幼名を持つことで有名ですが、「五徳姫」も例外ではありません。
五徳という名は珍しく、『織田家雑録』という資料によると『五徳の足のごとくなりて五徳と名付け玉ふ』と書かれており、火鉢や炉の上に鍋などを置くための道具を意味する五徳から名付けたようです。
深い意味があったのか、ただ五徳がすぐ側にあったからかは謎ですが、信長はかなり独特なネーミングセンスの持ち主と考えられます。
松平信康との結婚
徳川家康が今川氏から独立したことで信長と家康が同盟を結ぶと、同盟の証として五徳は家康の嫡男である信康と政略結婚することが決まります。
同い年の2人は1567年(永禄10年)に9歳という若さで結婚。
五徳姫は岡崎を居城としたことから岡崎殿と呼ばれるようになります。
五徳姫と信康の力関係
1571年(元亀2年)に夫の信康(幼名は三郎)は元服しました。
元服後の信康という名前は、信長の「信」と家康の「康」を1字ずつ貰って名乗っており、「信」の字が名前の上にきていることから信長と家康の上下関係を表しているとも言われています。
当時の戦国武将の偏諱文化では大抵が上の人から名前を貰うことから、信康は信長の娘婿として五徳姫より下の立場だったと考えられます。
五徳姫は信長の娘として松平家で大きな力を持っていたのではないでしょうか。
1573年(元亀4年)の将軍・足利義昭の追放以降は明らかに信長と家康に上下関係ができており、信康は五徳姫に頭が上がらない状況だったと考察できます。
『どうする家康』の中でも五徳姫の強気な態度が度々見受けられますが、信長と家康の力関係を表現していたのかもしれません。
信長の威厳を守るために強気な態度を取っていたとも考えられますね。
2人の娘の誕生
五徳姫と信康の間には1576年(天正4年)に長女・登久姫、1577年(天正5年)には次女・熊姫が立て続けに産まれましたが、男の子は産まれませんでした。
当時は嫡男となる男児を産むことが重要な時代。
信康との間に男児が生まれなかったことが原因で、信康との関係が徐々に悪くなっていったと言われています。
そして1579年(天正7年)の信康事件に繋がっていくのです。
信康事件勃発!五徳姫は本当に『十二箇条の条書』を送ったのか?
信康事件の通説では、五徳姫が信康と築山殿の悪行や武田氏との内通を告白した『十二箇条の条書』と呼ばれる手紙を信長に送ったことで、信長が家康に2人の処刑を命じたと伝えられてきました。
しかし通説には信用できない部分も多く、信憑性が疑われています。
十二箇条の条書の出所
実は、五徳姫が信長に手紙を送ったエピソードが書かれているのは『三河物語』と『松平記』の出典のみであり、その他の資料には一切記録がありません。
上記の資料はどちらも徳川側の人物が書いたもので、神君・家康(家康を顕彰する内容)で書かれているという特徴があります。
信康事件を扱う上で家康のことを悪く書けず、家康が信康に切腹を命じた正当性を持たせるために作られた話(不仲を強調させて五徳姫を悪者に仕立てた)という考え方もできるでしょう。
また、信康事件を扱っているその他の資料として『信長公記』や『当代記』があります。
どちらも一次資料ではありませんが、『十二箇条の条書』のエピソードは書かれていません。
『三河物語』や『松平記』よりも資料価値が高いとされる『当代記』には、家康から信長に信康の処遇を相談した結果、信康を処刑したと書かれています。
真相はわかりませんが、五徳が信長に手紙を書いてチクったという内容は、徳川家康側の者に大げさに書かれたものかもしれません。
五徳姫と信康の不仲説
『十二箇条の条書』は五徳姫と信康の不仲を強調するための作り話の可能性があると解説しましたが、火のない所に煙は立ちません。
実は、五徳・信康夫妻の喧嘩を仲裁するために家康が岡崎に行ったという一次資料が残っており、2人が何かしらで揉めていたことが予想されます。
信康事件の真相は未だ謎に包まれていますが、2人の仲が悪かった可能性は非常に高いです。
正式な手紙とまではいかなくとも、五徳姫は信康に対する不満を信長に漏らしていたのかもしれません。
結果として築山殿と信康は自害し、五徳姫は夫を失いました。
この事件には様々な見解があるため、『どうする家康』内での描かれ方にも注目が集まります。
信康事件の真相については、以下の記事で詳しく解説しております。
父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?
築山殿(瀬名)の最期とは?裏切りの真相。悪女か平和主義者か
五徳姫のその後の人生
21歳にして夫を亡くした五徳姫ですが、織田家の娘として次の政略結婚に引く手あまたかと思いきや、再婚することなく残りの生涯を送ったとされています。
一体どのような後半生だったのでしょうか。
織田家に戻るも本能寺の変が勃発
五徳姫は、信康事件の翌年である1580年(天正8年)に家康と共に安土城へ行きました。
岡崎を離れて織田家に戻り、安土で暮らしたと言われています。
やがて1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が亡くなると、安土城が明智軍によって接収されたため、脱出後は兄・信雄のもとに身を寄せることになりました。
しかし1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで信雄が豊臣秀吉に降伏すると、次は人質として京に移住します。
しばらく京で暮らしますが、1990年(天正18年)に信雄が秀吉に反抗して改易されると人質から解放され、母の実家である生駒氏が所領する尾張に移り住みました。
五徳姫の晩年
1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いがおこると尾張は松平忠吉によって支配され、松平家ゆかりの人物である五徳姫には2000万石弱の領地が与えられました。
年貢の徴収などで裕福になったことで再び京に移り住み、1636年(寛永13年)に78歳で死去するまで京で暮らしたと記録されています。
娘の登久姫と熊姫はそれぞれ、小笠原秀政・本多忠政という徳川家の武将に嫁いでいますが、信康事件後は徳川家で養育されており、一緒に暮らすことはなかったようです。
当時としてはとても長生きだった五徳姫。
信康亡き後のあまりに長い後半生を、どのような気持ちで過ごしたのでしょうか。
信長の娘・五徳姫のその後と辿った生涯|まとめ
信康事件の発端となった『十二箇条の条書』ですがその信憑性は低く、大げさに書かれた可能性が高いと考えられます。
しかし、事件前に五徳姫と信康が揉めていたことは確かで全くの作り話とも言い切れません。
信康事件後の五徳姫は再婚することなく余生を過ごし、78歳で生涯を終えました。
五徳姫は『どうする家康』の中でも信長の娘らしい気の強い女性という印象を受けますが、当時の織田家と徳川家の上下関係を読み解くと、信康より強い立場にあったことも納得できます。
後半生は歴史の表舞台にでることはありませんでしたが、戦国時代に翻弄された生涯だったといえるでしょう。