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豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因を解説
「豊臣秀吉」と言えば、織田信長や徳川家康と並ぶ戦国三英傑の1人として天下統一を果たした現代でも非常に人気が高い戦国武将です。
では、豊臣秀吉は生まれてから大戦国時代で天下統一を果たすまでどのような人生を歩んできたのでしょうか?
当記事では、豊臣秀吉の人生を①幼少期、②成人~信長の死、③信長の死後~天下統一までの3つに分けて、それぞれの時代の小ネタなども挟みながら豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた軌跡を振り返ります。
目次
豊臣秀吉が天下統一を果たすまで①幼少期
豊臣秀吉の幼少期は信憑性の高い資料などが少なく謎に包まれているため、確実にこのような幼少期を過ごしていたと断定することはできません。
しかし、豊臣秀吉は恵まれた名家出身ではなくても、自身の賢さや気配り上手な強みを活かして、少しずつ武将としての頭角を表していきます。
年号 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1537年 | 0歳 | 尾張国の貧しい農家に生まれる |
1552年 | 16歳 | 駿河で今川家に仕える |
1554年 | 18歳 | 織田家の武将として仕える |
今回は、その中でも豊臣秀吉の転機となった幼少期の出来事を3つご紹介していきます。
尾張国の貧しい農家に生まれる
諸説はありますが、豊臣秀吉は1537年2月6日に尾張国(現在の愛知県名古屋市中村区周辺)の貧しい農家に生まれたと言われています。
豊臣秀吉の父親である弥右衛門は農家の他に、織田信長の父親である信秀の鉄砲足軽も勤めていたと言われており、豊臣秀吉と織田信長は父親同士でも交流があったとされています。
当時の名前は木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)で、生まれたときから豊臣秀吉という名前ではありませんでした。
父親の死後、寺に預けられる
豊臣秀吉は父親の死後、尾張にあるお寺に預けられました。
しかし、「本当に貧しい農民なら子供をお寺に預ける経済力などないだろう」という意見もあり、一部では豊臣秀吉は貧しい農家出身ではなく、ある程度お金のある武家出身なのではないかという見方もあります。
ちなみに戦国時代のお寺とは、現代でいう学習塾のようなものです。
駿河で今川家に仕える
15~16歳の頃、豊臣秀吉は今川義元の家臣である松下加兵衛之網に仕え、主人の草履を持ち歩く草履取りの仕事から今川家で働くことになります。
これが豊臣秀吉の武士デビューとなり、後に仕える織田家よりも先に今川家で武士人生をスタートします。
しかし、今川家で瞬く間に出世していく豊臣秀吉を悪く思う周りの人間は多く、妬みやいじめを受けてしまい、その後今川家を出ていくことになります。
織田家の武将として仕える
今川家を出て18歳になった豊臣秀吉は、織田家の武士として織田信長に仕えます。
最初は再び草履取りからのスタートでしたが、信長に深い忠誠を誓った豊臣秀吉は次第に信長からの信頼を勝ち取り、織田家でも徐々に信長の側近として出世をしていくのです。
その後、当時27歳の織田信長は、桶狭間の戦いで秀吉が以前仕えていた今川義元を討ち取り、天下統一に向けて大きな一歩を踏み出していました。
桶狭間の戦い時、豊臣秀吉は24歳だったと言われています。
豊臣秀吉が天下統一を果たすまで②成人~信長の死後
豊臣秀吉は成人後、織田家の武将としてさらに実績を重ねていきます。
しかし、豊臣秀吉が織田家の武将として大きな実績をあげ始めたのは30歳を過ぎてからなので、どちらかと言えば遅咲きの武将です。
年号 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1566年 | 30歳 | 墨俣一夜城 |
1570年 | 34歳 | 金ヶ崎の戦い |
1581年 | 45歳 | 鳥取城の戦い |
1582年 | 46歳 | 本能寺の変 |
1582年 | 46歳 | 山崎の戦い |
ここでは、豊臣秀吉が織田家の武将として、いや戦国時代を代表する武将として確固たる地位を築いた戦いを紹介していきます。
墨俣一夜城
墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)は、豊臣秀吉の有名な逸話の1つですが、当時難攻不落と言われていた美濃国の稲葉山城(現在の岐阜城)を落とすため、織田信長は柴田勝家などの重臣に国境の近くである墨俣に戦の拠点となるお城を築くように命じました。
しかし、美濃国の大名である斎藤龍興(さいとうたつおき)からの攻撃もあり、なかなかお城を立てることができず、拠点作りに苦戦していました。
そこで、墨俣城築城に名乗りを挙げた人物が豊臣秀吉です。
豊臣秀吉は、蜂須賀小六(はちすかころく)などに築城を手伝ってもらい、墨俣から少し離れた場所で先に城の原型となる骨組みなどを完成させ、川を利用してイカダなどで城を運ぶことで、たった一夜で墨俣に城を完成させたと言われています。
そのため、墨俣一夜城という名前が付けられているのです。
豊臣秀吉が成し遂げたこの偉業は諸説はありますが、この墨俣一夜城を境に豊臣秀吉の出世はさらに拍車がかかり、天下統一に向けた大きな一歩になった転機として現代にも受け継がれています。
金ヶ崎の戦い
金ヶ崎(かねがさき)の戦いは、織田信長と徳川家康率いる連合軍と朝倉義景(あさくらよしかげ)率いる朝倉軍の戦いです。
戦当初は数で圧倒していた連合軍が優勢でしたが、信長の義弟である浅井長政(あざいながまさ)が裏切り、連合軍は朝倉郡に撃ちに合うなど窮地に追い込まれてしまいます。
そこで、豊臣秀吉は明智光秀と共に本隊の後退や敵軍に背後からの攻撃を食い止める殿(しんがり)と呼ばれる役割を担い、少ない戦力で敵の追撃から味方を擁護する最も危険な任務を成し遂げ、見事信長を救い出すことに成功したのです。
豊臣秀吉の活躍により、織田信長は九死に一生を得ることができ、織田家の武将としてこれ以上ない功績を残しました。
羽柴秀吉に改名
豊臣秀吉は、金ヶ崎の戦いから3年後の37歳の時に木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名したと言われています。
この羽柴という苗字は、豊臣秀吉の尊敬する武将である「丹羽長秀」と「柴田勝家」の苗字から1文字ずつもらったことが由来とされています。
鳥取城の戦い
天下統一を目指す織田信長は、次に中国地方の平定を考えました。そこで、これまでの戦いで実績を上げていた豊臣秀吉に中国攻めを指示しました。
豊臣秀吉は中国地方にある城を片っ端から攻略していき、信長の天下統一に向けてさらに西方していきます。
鳥取城の城主であった毛利家の重臣である吉川経家は、豊臣秀吉との戦いに備えて兵力を城に集中させる籠城戦(ろうじょうせん)という戦い方を選択しました。
しかし、豊臣秀吉率いる秀吉軍はこれを踏まえて兵糧攻めという策を講じ、鳥取城周辺の米を買占めて城の食糧を枯渇させたのです。
吉川経家は毛利家に食糧援助を依頼しますが、城の周辺は秀吉軍が包囲しているため援助を受けることができず、鳥取城の戦いが始まって4か月ほど経った頃から城内で飢餓で亡くなる方が現れました。
この状況を見た吉川経家は降伏し、豊臣秀吉の戦略勝ちで鳥取城の戦いは幕を下ろします。
本能寺の変
本能寺の変はご存じの方も多いのではないでしょうか。
織田信長の家臣である明智光秀が織田信長を自害に追い込んだ事件です。
この時豊臣秀吉は中国攻めの最中であり、豊臣秀吉以外の家臣も信長の中国・四国平定に向けて全国に軍を派遣させていました。
そのため、信長を守る家臣たちはすぐに駆けつけることができない状況でした。
豊臣秀吉が本能寺の変の黒幕って本当?
本能寺の変が起きる少し前、豊臣秀吉は岡山県で清水宗治と備中高松城の戦いを繰り広げており、湿地帯というフィールド面で苦戦を強いられ、織田信長に援軍を要請しました。
援軍要請を聞いた信長は豊臣秀吉のために軍を引き連れ、本能寺へと向かうことになります。
このことから信長を本能寺へ誘導した人物は豊臣秀吉なのではないかという諸説もあります。
また、信長の訃報を聞いた豊臣秀吉は岡山から京都までの約200キロを1週間で大移動したと言われています。
当時は新幹線や高速バスなどはもちろん無かったわけですから、「重い鎧や武器を背負いながら1日30キロくらいを休みなしで移動していたのはあまりにも早すぎる、既に本能寺の変が起こることを知っていたのでは?」という考え方もあります。
豊臣秀吉は農民からの大下克上を果たした戦国時代のスーパースターという華やかな一面だけが目立ちますが、このように黒幕説などのダークな一面も考察されています。
山崎の戦い
信長の訃報を知った豊臣秀吉は中国攻めを中断し、すぐに明智光秀がいる山崎へと向かいます。豊臣秀吉が戦をしていた岡山から山崎までの約200kmを1週間で移動したと言われており、これを中国大返しと呼びます。
また、豊臣秀吉は山崎の戦いが始まるまでに織田軍の武士たちに「信長はまだ生きている」と嘘情報を流し、信長を裏切った明智光秀側につかせないように仕向けました。
そのため、山崎の戦いで明智光秀と豊臣秀吉が真っ向勝負をする時には、秀吉軍が約40,000に対し、光秀軍は約15,000人と両軍の兵力は2倍以上の差がついており、豊臣秀吉の圧勝で幕を閉じます。
信長の仇を討った豊臣秀吉は、信長が成し遂げることができなかった天下統一という野望を引き受けるのです。
豊臣秀吉が天下統一を果たすまで③信長の死後~天下統一
織田家の大黒柱であった織田信長が本能寺の変により自害したことにより、織田家は次の後継者を決めるところから話は進んでいきます。
年号 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1582年 | 46歳 | 清州会議 |
1583年 | 47歳 | 賤ケ岳の戦い |
1590年 | 54歳 | 天下統一 |
ここでは、後継者を決める清州会議から発展した賤ケ岳の戦い、そして豊臣秀吉が悲願の天下統一を果たすまでの流れを解説していきます。
清州会議
清州会議は信長の後継者を決めるための会議で、現代で言うところの次期社長を決める会議のようなものです。
信長の後継者には、信長の次男である織田信雄と三男である織田信孝、そして織田信忠の孫である当時3歳の三法師が後継者候補として挙げられます。
信長の家臣であった柴田勝家や丹羽長秀はこれまでの戦で功績を残していた三男の信孝を後継者として推しますが、豊臣秀吉は信忠の孫である三法師を推します。
会議の結果、織田家の後継者は信忠の孫である三法師が選ばれ、信長の側近であった堀秀政が、代官と守役を兼任するという形で会議は終了しました。
しかし、この清州会議で意見が対立した豊臣秀吉と柴田勝家は関係がさらに悪化し、賤ケ岳の戦いにまで発展してしまいます。
賤ヶ岳の戦い
清須会議から半年後、柴田勝家は豊臣秀吉が会議で締結した誓約に反した行動を取っていると批判し、それを知った秀吉は勝家と和睦を結びます。
しかし2か月後、秀吉は再び誓約を破り、近江にある長浜城と美濃にある岐阜城を攻撃し、2つの城の城主である柴田勝豊と織田信孝を降伏させます。
これを知った勝家も兵を挙げて近江へ向かい、豊臣秀吉と柴田勝家の賤ケ岳の戦いが勃発します。
柴田軍は織田信孝の挙兵などにより秀吉軍を追い詰めますが、秀吉の美濃大返しなどにより少しずつ形勢は逆転していきます。最終的に柴田勝家は自害し、賤ケ岳の戦いは秀吉の勝利に終わったのです。
賤ケ岳の戦いの後に大坂城を設立
賤ケ岳の戦いに勝利した豊臣秀吉は、政治や天下統一の拠点となる大阪城の築城を開始します。
大阪城は完成まで15年もの月日がかかるなど、かなり大がかりな建築になり、その後も落雷での焼失や太平洋戦争の空襲などがありましたが、その都度修復や改修が行われ、現在のなお大阪のシンボルの1つとして毎年多くの観光客で賑わいを見せています。
天下統一
織田家の内部抗争に勝利した豊臣秀吉はその勢いを外に向け、全国の有力な武将たちを次々と取り込んでいきます。
1585年には朝廷から関白に任命され、四国や越中を平定するなど着々と天下統一に近づいていきます。
また、1586年には天皇から「豊臣」という姓を授かったことで羽柴秀吉から豊臣秀吉に名前が変わり、太政大臣にも任命されます。
そして、九州を平定したのちに小田原合戦にて北条氏を降伏させ、590年に悲願の天下統一を果たす1のです。
豊臣秀吉の死因
豊臣秀吉は天下統一から8年後、61歳の時に伏見城で息を引き取ります。
死因については確固たる証拠は見つかっていませんが、大腸がんや尿毒症、梅毒などが死因として考えられています。
織田信長のような裏切りによる自害や戦での死ではない可能性が高いことから、豊臣秀吉の人望や戦スキルの高さが伺えます。
医療が発達していない戦国時代で61歳まで生きることは決して簡単なことではなく、どちらかと言えば長生きした武将であると言えるでしょう。
豊臣秀吉はいかにして天下統一を果たした?天下までの戦いや死因|まとめ
今回は、豊臣秀吉が幼少期から天下統一を果たすまでの生涯についてご紹介してきました。
重要なポイントをもう1度おさらいします。
・豊臣秀吉には墨俣一夜城や中国大返しなど伝説の逸話が数多くある
・信長が出来なかった天下統一を初めて達成した
・豊臣秀吉の死因は諸説あるが病死の可能性が高い
老若男女問わず人気がある豊臣秀吉ですが、天下統一までには貧しい農家から少しずつ武士として頭角を表し、人望や高い戦術能力を駆使して誰も成し遂げたことが無かった全国統一を果たした背景があります。
豊臣秀吉については、以下の動画でもまた違った視点で考察や紹介をしているので、よろしければこちらもご覧ください。