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徳川家康と石田三成は仲良しだった?関ヶ原の戦いの名将2人を比較
徳川家康(とくがわいえやす)と石田三成(いしだみつなり)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将として、今もなお人気の高い歴史上の人物です。
彼らは豊臣政権における五大老・五奉行制度下において、共に豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた武将でもあります。
そんな彼らの関係性については、「2人は本当は仲が良い」「2人の仲は最初から悪かった」など様々な憶測がされています。
関ケ原の戦いで大勝負をした2人の関係性は一体どうだったのでしょうか。
そこで本記事では、徳川家康と石田三成の関係性について詳しく解説していきます。
徳川家康と石田三成の関係性
徳川家康と石田三成は、関ヶ原の戦いで対立したとされていますが、その対立は単に戦争における敵対関係だけにあったわけではありません。
そもそも徳川家康と石田三成は、2人とも豊臣秀吉に仕えていた武将であり、豊臣政権における五大老・五奉行制度下で共に政治を行っていた関係にありました。
五大老・五奉行制
五大老・五奉行制度は、豊臣秀吉が設けた政治システムで、それぞれ五人ずつの老中や奉行が統治にあたるものです。
この制度は、豊臣政権において大名たちの抑制と中央集権化を図るために導入されました。
五大老は、徳川家康の老中、井伊直政(いいなおまさ)、板倉重宗(いたくらしげむね)、松平康親(まつだいらやすちか)、毛利勝永(もうりかつなが)の5人で、政治の中枢を担いました。
五奉行は大坂城代として石田三成をはじめ、各地の代官・城代が5人ずつ任命されました。
彼らは民政・軍事などの実務にあたり、豊臣政権の実権を握っていました。
この制度により、豊臣政権は従来の戦国時代の大名たちの独立性を抑え、中央集権化を図ったのです。
また、この制度によって各地の代官・城代による支配も強化され、豊臣政権の統制下におかれた地域において、平穏な統治が行われました。
しかし、五大老・五奉行制度下での政治は、徳川家康と石田三成の対立をはじめとした内紛によって崩壊していきます。
関ヶ原の戦いの勝利によって徳川家康は政治の中心に立ち、石田三成らの豊臣政権側の中枢人物は失脚し、最終的に五大老・五奉行制度も廃止されました。
徳川家康と石田三成は仲が良かったのか
関ヶ原の戦いで対立した2人ですから、一般的に徳川家康と石田三成は敵同士と見なされています。しかし彼らの関係性にはさまざまな見解があります。
ここからは、徳川家康と石田三成は本当は仲が良かったのか、その関係性について考えてみましょう。
徳川家康と石田三成はお互いを認め合っていた
徳川家康と石田三成は、敵対することが多かったにもかかわらず、お互いを認め合っていたとされています。
特に、彼らの関係性が良くなかったと言われる前の時期には、互いに非常に高い評価を持っていたと言われています。
徳川家康と石田三成は両者ともに非常に優秀な武将であったため、当時の武将たちから一目置かれる存在でした。
2人がともに豊臣秀吉に仕えていた豊臣政権下において、両者は同じ戦場で戦うこともあり、互いの戦術や武勇を認め合っていたと言われています。
なぜ関ヶ原の戦いで2人は対立したのか
互いの実力を認め合っていた徳川家康と石田三成ですが、彼らは後に関ヶ原の戦いで対立することとなります。
この戦いは、天下分け目の合戦とも言われ、日本の歴史に大きな影響を与えました。
徳川家康と石田三成はそれぞれの立場や思惑から、戦いに参加することを決めました。
ここからはなぜ2人が対立し、戦いに至ったのかを詳しく解説します。
また、当時の政情や武将たちの思惑についても触れ、関ヶ原の戦いの意義についても考察いたします。
豊臣政権内部の争い
豊臣政権とは、1585年(天正13年)から1603年(慶長8年)まで続いた、豊臣秀吉による武家政権のことです。
しかし、豊臣政権内部では秀吉の死後、彼の後継者を巡る争いが起こりました。
石田三成は豊臣秀吉の妹婿であり、豊臣家に仕える有力な武将でした。
一方、徳川家康は関東を支配するほどの実力を誇る全国屈指の大名でした。
この時期、豊臣政権内部では石田三成と徳川家康が、それぞれ豊臣秀吉の後継者について意見を異にしていました。
石田三成は豊臣秀吉の遺言に従って、秀吉の甥である豊臣秀頼を後継者とすることを主張します。
一方、徳川家康は自身の権益を守るために、関東を拠点とする大名たちとともに、豊臣政権からの独立を目指しました。
そして、徳川家康は関ヶ原の戦いを起こすことで、豊臣政権に対して独立を宣言しました。
このように、豊臣政権内部の争いが関ヶ原の戦いにつながり、徳川家康と石田三成が対立することになります。
豊臣政権の内部争いは、石田三成が支持する秀頼の後継問題を巡るものであり、また徳川家康が関東大名の支持を受け、独立を目指すための戦略であったことがわかります。
徳川家康が天下を狙った動きを始めた
このように徳川家康は東軍として、石田三成は西軍として関ヶ原の戦いに挑むこととなるのですが、徳川家康はこの天下分け目の戦いに向けて、着々と準備を始めていました。
徳川家康は西軍の有力な武将に、「戦いに勝ったら褒美をやるから東軍に寝返れ」という手紙を送り、周到な根回しをしていたのです。
実際、西軍の大名である小早川秀秋(こばやかわひであき)は、徳川家康からの打診を受け入れ、東軍に寝返ることとなります。
小早川秀秋の裏切りを皮切りに、西軍の他の武将たちも続々と東軍に寝返るようになります。
このようにして徳川家康は戦いを有利に進め、天下統一を果たしたと言われています。
戦国小話:徳川家康はなぜ石田三成の子供たちを助けた?
関ヶ原の戦いで敗戦した石田三成でしたが、その子孫たちはどうなったのでしょうか。
実は、石田三成の一族は罰せられることなくそのまま生きながらえたと言われています。
関ヶ原の戦い敗戦後、石田三成の子供たちは津軽為信(つがるためのぶ)に匿われます。
石田三成の子孫を匿うという行為は本来であれば非常に重い罪ですが、徳川家康はこのことを黙認していました。
その理由については定かではありませんが、最終的には対立したものの共に豊臣秀吉に仕えて一時代を築いた戦友である石田三成に対する徳川家康なりの温情だったのかもしれません。
徳川家康と石田三成は仲良しだった?関ヶ原の戦いの名将2人を比較|まとめ
以上、徳川家康と石田三成の関係性について解説してきました。
2人は共に豊臣秀吉に仕えた武将でありましたが、豊臣の死後、後継者を巡って対立し、関ヶ原の戦いを引き起こすこととなります。
しかし、彼らは互いに実力を認め合っており、決して不仲だったわけではないと考えられています。
天下を分けた2人の戦いは今もなお語り継がれているのです。