- 戦国BANASHI TOP
- 歴史上の人物の記事一覧
- 【裏切り者?!】石川数正は息子を守るために秀吉に寝返った!どうする家康解説
【裏切り者?!】石川数正は息子を守るために秀吉に寝返った!どうする家康解説
『どうする家康』では松重豊さんが演じ、第1話から存在感を放ち続けている石川数正。
実際に彼は徳川家家臣の中でも重要なポジションにいた人物でしたが、ある時主君の家康を裏切り秀吉のもとへと去ってしまうことでも有名な人物です。
今回は、石川数正とはどんな人物だったのか、そして石川数正の裏切りの理由についても考察していきます。
石川数正のルーツ
石川数正が徳川家康に仕えた時期はかなり早く、家康の人質時代には既に家臣だったことがわかっています。
そんな彼の前半生を、石川家の由緒などとあわせて解説していきます。
石川家のルーツである一向宗への信仰が、後に彼を大きく悩ませることになります。
石川数正の誕生
石川数正は1533年に生まれました。
歳は家康の9つ上になります。
ドラマではもっと年上にも見えるキャスティングですが、実際には家康より一回り年上で織田信長らと同世代の人物でした。
叔父・石川家成
ドラマには登場していませんが、石川家の本家は数正の叔父の石川家成という人物が継いでいました。
『どうする家康』第1話で描かれた、桶狭間の戦いにおける家康の大高城への兵粮運搬でも家成は活躍していたようです。
ドラマでは、史実の石川家の人物の活躍を全て数正が担当していますね。
石川氏のルーツ
石川氏は、もともと本願寺の門徒武士だったと考えられています。
本願寺の蓮如という僧侶が一向宗の教えを広めるため、大坂から三河に下って寺を建てる際に石川氏が護衛として追従。
これが石川氏が三河に根付いたきっかけだと言われています。
こうしたルーツを持つため、数正の父・康正は三河一向一揆の際には一揆勢の総大将にもなっています。
家康独立後の石川数正
ここからは、徳川家康が今川家から独立後に三河を統治していた時期の石川数正です。
この頃の数正は、石川家や石川家の信仰といった自身のルーツに従って生きるべきか、主君の家康に味方すべきかという葛藤も経験しています。
数正のとった選択により彼は家康から絶大な信頼を得ることに成功し、家康家臣団の中でもひときわ重要な仕事を任せられるまでになります。
三河一向一揆
三河一向一揆とは、三河領主・家康の度重なる戦闘に辟易した領民が、一向宗門徒と結びついて大規模な反乱に発展した事件です。
前述の通り、石川家は代々熱心な一向宗の信徒だったと言われており、数正の父・康正も一向一揆の総大将を務めたほどでした。
石川数正は自身のルーツである石川家の信仰に従って一向宗側で戦うのか、主君の家康に忠義を尽くすのかという大きな選択を迫られることになります。
ここで数正がとった選択は「一向宗から改修し、家康に味方する」という一大決心でした。
また、前述の石川家当主で数正の叔父である石川家成も、同様に信仰を捨てて家康に忠義を尽くす選択をしています。
ちなみに、数正とは逆に、家康家臣の中には一向宗の信仰を守って家康から離反した者も多く、『どうする家康』に登場している渡辺守綱もそのうちの一人でした。
こうした一向宗の信仰に篤い家臣からは、数正のような一向宗を捨てて改宗した家臣は快く思われなかったようです。
以下の記事では、三河一向一揆が起きた原因や経緯を解説しています。こちらも是非併せてご覧ください。
『三河一向一揆』とは?わかりやすく解説!原因は宗教ではなく家康だった!?
信長との交渉
今川家からの独立を果たした三河の家康でしたが、西には織田家・東には今川家という2つの大敵に挟まれ非常に危険な状況にありました。
家康は今川家打倒を優先するため、織田家の織田信長と同盟を結ぶ選択をとりました。
この時に信長との交渉役を担ったのが石川数正だったと言われています。
数正は、徳川家(当時は松平家)の家運を賭けた重要な交渉を任せられるほどに家康から信頼されていたのです。
また、のちに数正は、織田家と国境を接する三河国西部の軍団長的なポジションも任せられるようになります。
岡崎城代「石川康輝」
家康の嫡男・松平信康と正妻・築山殿(瀬名)が相次いで死去する「信康事件」後、信康が入っていた岡崎城が空白となりますが、数正は信康の代わりに岡崎城代となりました。
またこの頃、数正は「康輝」と改名します。
元来松平家の本拠地であり、家康の嫡男が入っていた岡崎城という重要な城を任せられ、その上家康の「康」の字を貰ったことからも、家康の数正への絶大な信頼が伺えます。
徳川家康の生涯で最大の事件となった「信康事件」については、以下の記事で詳しく解説しています。
父・徳川家康に処分された松平信康の真相とは?本当に殺人鬼だった?
石川数正の寝返り
ここまでの石川数正の経歴を見てみると、家康を裏切り秀吉のもとへと出奔するとは思えません。
数正の心が家康から離れてしまうきっかけは、家康と秀吉がぶつかった「小牧・長久手の戦い」以後の目まぐるしい状況の変化でした。
ここからは、いよいよ数正の寝返りの真相について迫っていきます。
数正の息子 秀吉の人質に
家康は、本能寺の変以後急速に勢力を増した羽柴秀吉と「小牧・長久手の戦い」で相まみえることになります。
両者多くの死傷者を出したこの戦いは秀吉優勢の状況で和睦へと持ち込まれます。
これに伴い、家康から秀吉に人質が送られることになりますが、家康の息子・秀康と共に、数正の息子である石川康長・康勝も人質として秀吉のもとへと送られることになりました。
苦悩の交渉人・石川数正
小牧・長久手の戦いの戦いは収束したものの、家康にさらなる苦難が立ちはだかります。
家康に従っていた信濃国(現:長野県)の国衆・真田昌幸の離反です。
家康は昌幸の討伐を企てますが、昌幸の巧みな軍略の前にまさかの敗戦を喫しました。
これが第一次上田合戦です。
さらに、同じく信濃国の国衆・小笠原貞慶も家康から離反。秀吉に寝返ります。
この時に小笠原貞慶との交渉を担当していたのは石川数正。
数正は貞慶の離反の責任を追及される立場となってしまいました。
この頃の家康は秀吉に事実上の敗戦を喫した上、第一次上田合戦で真田昌幸にも敗れて急速に求心力を失っています。
そのため、貞慶の離反の責任を数正にだけ追わせるのは酷ですが、結果的に貞慶の離反によって家康の信頼を失うことになったと言われています。
秀吉への寝返り「吉輝」
このような状況の中、秀吉は家康に対し自身への服属を求め、さらなる人質の供出まで要求します。
これに対し家康側は拒否。同盟者の北条氏と共に、秀吉に対して強硬な態度を取ることを選択しました。
この時に秀吉との交渉を担当していたのも、やはり石川数正です。
秀吉のもとに息子を2人も人質に出している数正は、親秀吉派として家康に対し秀吉への従属を求めますが、家康は取り合ってくれません。
このままでは再び秀吉と家康が戦うことになり、そうなれば数正の息子たちの命の保証もありません。
小笠原氏との交渉失敗の責任を追及された上、秀吉の服属要求も拒否された数正は徳川家の中での立場を失います。
ここで数正はついに家康を裏切り、秀吉のもとへと出奔する決断を下しました。
また、家康のもとを去り秀吉に寝返った数正は、家康から授かった「康」の字を捨て、秀吉の「吉」の字を貰い「吉輝」と改名します。
出奔後の石川数正
家康を人質時代から支えてきた数正の寝返りの過程を見てきました。
どうやら、彼なりにやむを得ない事情があったようですね。
最後に、数正死後の石川家について少し解説したいと思います。
数正、死去
1593年、数正は61歳でこの世を去ります。
数正亡きあとの石川家を見ていきましょう。
豊臣家の家臣として数正の跡を継いでいた息子の康正は、関ヶ原の戦いでは家康側の東軍に味方しました。
しかし、その後いくつかトラブルを起こしてしまい、数正の嫡流は断絶してしまいます。
ただし、数正の叔父にあたる家成の家系は江戸時代も大名として細々と存続しました。
【裏切り者】石川数正はなぜ秀吉に寝返った?どうする家康解説!│まとめ
徳川家康を人質時代から支え続け、絶大な信頼を得たものの、時代の流れには逆らえず結果的に家康を裏切る形となってしまった石川数正。
「裏切り者」と言ってしまえばそれまでですが、信仰を捨ててまで長年仕えてきた主君から寝返るというのは、数正にとっても苦渋の決断だったのではないでしょうか。
『どうする家康』では第1話から松重豊さん演じる石川数正が存在感を発揮していますが、秀吉への寝返り等の見せ場がどのように描かれるのか楽しみですね。